稽古
カッセリアン城に到着して三日目の朝、僕は欠伸を漏らしながら廊下を歩いていた。この城には、思っていたよりもずっと使用人の数が少ない。家令と家政婦の他に、数名のメイドがいるだけだ。専属の料理人もいなくて、食事はキッチンメイドたちが作っている。そのため、突然の来客に慌てふためいたようだ。
食事が質素だったことに文句はない。いきなり押しかけてきたのだから、対応できないのも仕方ないだろう。ここは、公爵家ではないのだ。
それよりも問題なのは、ルーラ様やイヴァン殿下がいるのに、世話をする者が少しも足りていないという事だ。その上、警備には手を抜いていないらしく、城内を歩く兵士や警護の騎士の数はそこそこ多い。
さりげなく聞いてみたが、ルーラ様もイヴァン王子も庭に出る事すら許されていないという。窓から見下ろした庭は、まったく手入れされておらず、雑草ばかり生えていた。
最低限の生活環境しか与えないつもりなのだろう。これでは、幽閉同然ではないか。僕は足を止めて、苦々しい気持ちで窓の外を見る。見張りの兵士が、洗濯物を干しに出てきたメイドと雑談して笑っていた。
ふと、廊下の突き当たりの階段に視線を移したのは、品のない笑い声が聞こえてきたからだ。階段の踊り場で掃除しているメイドたちには、僕の姿は見えていないのだろう。
「オフェリア様って母親そっくりよね。髪も死神みたいに真っ黒……陰気で薄気味悪いったら!」
「あの帝国の人が婚約者ですって? よく、結婚なんてする気になるものだわ」
「仕方ないのよ。どうせ、あの帝国人も本妻にするつもりなんてないわよ。聞いた話じゃ、皇帝が自分の側妃にしたくないからって、押しつけたって話よ?」
「それは当然よ! 王家の姫といっても、ヴァーナ族の血が入った側室の娘よ? 帝国の威信に傷がつくじゃない。どうせ、あの姫様も母親と同様、邸の離れに幽閉されておしまいよ」
「でも、あの帝国人は美男子じゃなかった? 公爵様なんでしょう? かなりお金持ちみたいよ。あのお姫様にはもったいないわよ。私が代わりに……」
僕は溜息を吐いて、わざと聞こえるように靴音を立てて階段を下りていく。ようやく気付いたメイドたちが、ハッとしたように立ち上がって壁際に避けた。下を向いて笑いを堪えているのが丸見えだ。
踊り場で足を止めた僕は、彼女たちに視線を移す。
「おしゃべりに夢中になるのは別にかまわないよ。けれど……人目のつくところではやめた方がいい」
「も……申し訳ございません!!」
「僕に謝る事ではないよ。君たちの雇用主じゃない。ただ……噂話に興じるのは勝手だけど、僕の妻になる人を侮辱するのは許しがたいな。オフェリア姫は王家の姫だ。今の君たちの会話は不敬罪に問われるものだ。そこのところを、君たちは理解できているかな?」
僕が冷たい口調で問うと、ようやく自分たちの失言の重さを理解したのか青ざめている。震える手でエプロンを握り締め、「お許しください!」と頭を下げていた。
「もう、二度といたしません……! どうか、この事は…………!!」
オフェリアやルーラ様の耳に入れるなって?
もちろん、胸の悪くなるような噂話なんて彼女の耳に入れたくもない。それに、数少ない使用人をクビにしてしまっては、人手が足りなくて困る事になるだろう。
「次に僕の耳に不愉快な会話が入れば黙ってはいないよ。いいね?」
「はい! 承知しております。決して……!!」
ひれ伏さんばかりに謝るメイドたちを見て、僕はフッと息を吐く。
若いお嬢さんたちを怖がらせるのは、あまり趣味ではないんだ。
「分かってくれたらそれでいい。ああ、そうだ。近々……大勢客人が来る事になりそうだからね。他の空き部屋もしっかり掃除しておいてくれるかな?」
僕はニコッと微笑んで、ポケットから取り出した金貨を指で弾く。咄嗟に手を伸ばして受け取ったメイドは、他のメイドと顔を見合わせる。分かりやすく目が輝いていた。
「はい、畏まりました!!」
彼女たちは嬉しさを隠し切れない様子で、また頭を下げる。僕は「頼んだよ」と、手を振って階段を下りていった。これで、僕らがここに滞在している間は、オフェリアの悪口は控えてくれるだろう。それに、清掃にも手を抜かないはずだ。もし、それでも怠けるようなら、ルーラ様に言いつけて叩き出すけどね。
それと、家令と家政婦長を呼んで、滞在費と食費の相談もしなければならない。この城の維持費は最低限しか出されていないようだ。村や街から雇ったような躾けもされていない娘を使用人として雇っているくらいなんだから。その件は、ルーラ様に相談かな。
僕は広いホールに下りて歩きながら、額を指で押さえる。
やることが多い。これでは、せっかく休暇をもぎ取ってやってきた意味がないじゃないか。カールが聞いたから、「当たり前だ。俺が帝国のために身を粉にして働いているのに、お前だけ簡単に休めると思うな」と大笑いしそうだ。とはいえ、今回の使節団の費用はかなりもらっている。遠慮なく使わせてもらうかわりに、それなりの成果を持ち帰る必要はある。
「これも、仕事の一環か」
僕は一階のホールを歩きながら呟いた。
オフェリアは母君と居間にいるのかな。
「イグナーツ様!」
呼ばれて足を止めると、イヴァン殿下が走ってやってくる。
一緒にいるのはフェリックスだ。
「どうしたの? 僕を捜していた?」
「はいっ! お願いがあるのです」
「僕に?」
何の事か分からなくて、僕は殿下の後ろにいるフェリックスに視線を移す。フェリックスが珍しく困った顔をしていた。
「いいよ。どんな事?」
僕は膝に手をついて身をかがめる。イヴァン殿下の目が、キラキラ輝いていた。
「僕に剣術を教えていただきたいのです!」
いきなりの申し出に、僕はびっくりする。そんな頼み事をされるとは予想外だ。
「それなら、僕よりもフェリックスに頼む方がいいんじゃないかな?」
僕は生憎と、剣術を教えるのに向いていない。むしろ、それは騎士の役割だ。
「フェリックスから聞いたのです。イグナーツ様は、フェリックスよりお強いのでしょう?」
「えっ! そんな事はないよ。僕なんてフェリックスの足元にも及ばないよ」
「でも、イグナーツ様はフェリックスから一本取ったと聞きました。僕はイグナーツ様の剣術を見てみたいのです!」
「なるほど……そういう事か」
僕が苦笑いすると、フェリックスが反省したように目を伏せる。
「申し訳ありません……殿下の好奇心を刺激してしまいました」
そのようだ。イヴァン殿下はオフェリアによく似た黒い瞳を僕に向けている。その目を見れば、期待を裏切ってがっかりさせるのは忍びなくなる。
「イヴァン。僕よりフェリックスの方が強いのは本当だよ。あの時には、確かに一本取れたけれど、それはフェリックスが油断していたからだ。言ってみれば、作戦勝ちってやつさ」
僕は片膝をついて殿下と目線を合わせる。
「作戦勝ち……ですか?」
よく分からないのか、イヴァン殿下は首を傾げていた。
「そう。相手より弱くても、勝つ方法はいくらでもあるんだよ。その一つが、相手が油断して侮っている間に、攻め込むっていう方法だ。でも、残念ながら、この方法は一回しか通用しない。なぜか、分かる?」
「……二度目は、油断してくれないから?」
じっくり考えてから、イヴァン殿下は自信がなさそうな声で答える。僕はニコッと笑って、小さな肩を叩いた。
「その通り! あの時は、僕が騎士じゃないから、フェリックスは本気じゃなかった。でも、次は僕がそこそこ剣を扱える事を知っているから、用心してくるだろう? そうなると、僕の勝ちはもうない。本気になったフェリックスじゃ、僕は太刀打ちできないからね。だから、僕がフェリックスより強いなんて事はないんだ」
分かってくれたかなと、僕は賢そうな瞳を覗き込む。
「……分かりました」
「君が剣術を習いたいなら、フェリックスが適任だよ。彼なら、このマルク王国の剣術を習得しているからね」
僕が立ち上がると、イヴァン殿下が見上げてくる。その手が、上着をギュッとつかんできた。
「でも、やっぱり僕はイグナーツ様に教わりたいです! ここにいる間だけでもいいのです。ちょっとだけでも……」
真剣な顔をして言われると困ってしまって、僕はフェリックスに助けを求めた。どうやらフェリックスはすでに説得に失敗しているらしい。首を小さく横に振る。やってみせなければ、納得しないという事だろう。
「分かったよ。じゃあ、ちょっとだけ……僕から変な癖を学んでしまうのは良くないからね」
「本当ですか!!」
嬉しそうに声を弾ませるイヴァン殿下の髪を、クシャッと撫でる。
「もちろんだ。稽古場に案内してくれる?」
「はいっ!! こっちです」
イヴァン殿下は僕の手を引っ張って歩き出す。
「ちなみに、イヴァンは今まで剣の稽古はどうしていたんだい? 誰かに教わっていた?」
「いいえ……僕に教えてくれる先生はいないのです」
手を繋いで歩きながら、イヴァン殿下は落ち込んだように首を振る。
「えっ、先生がいないの!?」
いくら側妃の子とはいえ、イヴァン殿下も立派に王位継承権を持つ王子だったはずだ。それなのに、剣術の稽古もさせてもらえていないなんてあり得ない。
「それじゃあ、確かめてみないといけないな……」
僕は前を向いて呟いた。
◇◇◇
イヴァン殿下が案内してくれたのは、見習いの騎士たちの稽古場だった。いきなりやってきた僕らを見て、稽古中だった見習い騎士たちが動きを止める。
「ああ、すまない。ちょっと場所を借りるよ。君たちの邪魔をするつもりはないから、気にせずに続けてくれ」
僕は軽く手を上げて言う。見習いの騎士たちは顔を見合わせ、場所を空けてくれた。「あれって、帝国の……」とか、「殿下がどうしてここに?」とヒソヒソ話す声が聞こえてくる。
「木剣を借りていいかな?」
僕が大きな声で尋ねると、一番若そうな見習い騎士が取ってきてくれた。長さも重さもちょうどいい。殿下には一番軽くて短い木剣を渡している。ここにいる見習い騎士は真面目な子が多そうだ。僕がお礼を言うと、ペコッと頭を下げて稽古の続きに戻っていた。
「基礎的な事はフェリックスから教わっているんだよね?」
僕が尋ねると、フェリックスが「はい、少しですが」と答える。
「じゃあ、それを思い出しながら打ち込んでみてくれる?」
僕が木剣を低めに構えると、イヴァン殿下は緊張したように頷く。両手でしっかりと柄を握っている。姿勢も悪くない。フェリックスがいなくなった後も、自分で練習していたのかな。
イヴァン殿下は「やぁ!」と、かけ声とともに打ち込んできた。体はあまり鍛えていないからか、木剣の当たる音は軽い。僕が受け止めただけで、殿下はふらついてしまっていた。体幹は鍛えたほうがよさそうだ。
「うん、いいね。そのまま続けて」
僕が言うと、殿下は体勢を立て直して同じように打ち込んでくる。僕はそれを軽く返す。できるだけ、おかしな癖がつかないように、僕は打ち込む剣の角度や踏み込むタイミングなどを微調整する。大事なのはまず、打つという動作に慣れること。剣に慣れること。カールは指南役からそう教わっていた。
気付けば、他の見習い騎士たちも稽古を中断してこっちを見ている。
殿下もそもそろ息が上がってきて、汗が滴っていた。それを袖で拭って木剣を構える。最初より真剣な顔つきになっていた。疲れを感じているようだけど、下手に休憩を入れると、せっかくの集中力が切れてしまう。こういう時にはとことんやった方がいい。カン、カンッと木剣が当たる音が響く。
フェリックスは邪魔にならないように壁際で見ている。
本職の騎士に見られるのはひどく恥ずかしいけれど、まあ――おかしいところがあれば、言ってくれるだろう。黙って見ているという事は問題ないという事だ。
打ち込んだ拍子に汗で手が滑ったのか、イヴァン殿下は剣を取り落としそうになる。姿勢が崩れて前のめりに倒れそうになっているから、僕は咄嗟に腕でその体を抱きとめた。
「ご、ごめんなさいっ!」
慌てたようにイヴァン殿下が言う。
「いいや、かまわないよ。まだ、続けられる?」
「はい!! 続けたいです!!」
いい返事だ。僕はハンカチでイヴァン殿下の手を拭ってやって、落ちた木剣を拾って渡す。
距離を取ってから、もう一度お互いに木剣を構える。
イヴァン殿下は呼吸を整えながら柄をしっかり握って踏み込んだ。
その姿に、ふと懐かしさを覚える。
幼い頃、こうやってカールの相手をさせられていたっけ。
朝から晩まで飽きずに剣を振るカールに付き合わされて、うんざりしたものだ。今にして思うと、けっこう楽しかったのかもな。
イヴァン殿下の木剣を受け止めるタイミングを、少しだけずらす。殿下は自分が振り下ろした木剣が空を切ったものだから、驚いたように目を見開いていた。急に僕が動きを変える事を予測できなかったのだろう。僕はニッと笑って、殿下の木剣を打ち返した。
反動でよろめいた殿下が、パッと僕を見る。その目が好奇心で煌めいていた。
「今の動き……どうやったんですか!?」
「知りたい?」
「はい! 教えてほしいです!!」
「簡単な事だよ。小手先の技だけど……まあ、一回くらいは不意をつけるかな?」
僕は笑って答える。身を護る術も殿下には必要だろう。
いつの間にか、僕らの周りに見習い騎士たちが集まっていて、真剣な顔で見物していた。
「ええっと……君たちも、一緒にやる?」
なんだかソワソワした雰囲気を感じて尋ねると、見習い騎士たちが「はい!」と元気よく返事する。
この場には指導する騎士の姿はない。自主練習だけやっていたのだろう。教えてほしそうに、期待を込めて見ている。
これは、まとめて面倒を見るしかなさそうだ。
「フェリックス、すまないけど……手伝ってくれる?」
「もちろんです」
フェリックスは僕がそう言うのを予想していたのか、笑いを堪えて進み出る。
年齢が低くて基礎がまだ身についていない子たちとイヴァン殿下は、僕が見ることにした。
その子たちよりも年齢が上で基礎ができている子たちは、フェリックスに指導を任せる。
殿下も一緒に切磋琢磨する子たちがいる方が張り合いがあるだろう。
それに、この子たちの中から、イヴァン殿下に忠誠を誓う騎士が現れるかもしれない。そうなればいいなという勝手な期待を込めての先行投資だ。信頼できる友と味方は多い方がいい。この先の事なんて、分からないんだから。
◇◇◇
二時間ほど稽古を付き合うと、さすがに疲れて休憩をとる。見習い騎士とイヴァン殿下は、すっかり打ち解けたようで、一緒になって剣の打ち合いをしていた。
はぁ、子供の体力には敵わないよ。
ベンチに座って一息吐いた僕は、シャツで汗を拭おうとした。その時、タイミングよくタオルが差し出される。
「ああ、ありがとう。助かるよ……」
タオルを受け取って顔を拭ってから、ふと横を見る。
「オフェリア!」
いつの間にか稽古の様子を見に来ていたらしい。
「お疲れ様です。イヴァンの相手をしていただいて、ありがとうございます」
オフェリアはニコッと微笑んで、カップを差し出してきた。喉が渇いていたから飲み物はありがたい。蜂蜜とレモンの果汁が入った冷たい水だ。ゴクゴクと飲めてしまう。
「おいしいね、これ」
「よかったです。レーネが作ってくれたんですよ」
「レーネ、ありがとう。すごくおいしいよ」
僕はオフェリアの後ろに控えているレーネにもお礼を伝える。
「皆様にもお菓子と飲み物を用意したのですが、お配りしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、もちろん」
フェリックスは、まだ見習い騎士の子たちを指導している。教える方も、教わる方も熱心だ。
僕は「お菓子と飲み物を用意してもらったから、休憩にしよう」と、呼びかけた。見習い騎士たちが賑やかな声を上げて集まってくる。
フェリックスも後からゆっくりした足取りでやってきた。
僕は「ご苦労様」と、声をかける。
レーネがフェリックスにもカップを渡していた。
見習い騎士たちもイヴァン殿下も、一緒になってお菓子に手を伸ばしている。瞬く間にカゴからはお菓子が消えていた。
「全然、足りませんでした……」
見習い騎士たちの食欲に恐れをなしたように、レーネが呟く。何かに敗北したような顔だ。
「食べ盛りの子たちだからね」
「厨房で、軽食を作ってもらってきます」
レーネは急ぎ足で稽古場を出て行った。
「お兄様!」
イヴァン殿下にいきなり呼ばれて、僕は飲み物をふきそうになる。
「イヴァン、イグナーツ様がびっくりするじゃありませんか」
オフェリアが慌ててそう言った。
「そう呼んでも間違いではないと思うのです。ダメ……ですか?」
イヴァン殿下が僕の顔色を伺うようにチラチラと見てくる。
僕は笑って汗で濡れているその頭を撫でた。別に悪い気はしない。
「どうやら、君の結婚相手としてようやく合格がもらえたみたいだよ」
イヴァン殿下――いや、イヴァンはくすぐったそうに笑って、僕に抱きついてくる。
「お兄様、明日も剣術を教えてくれますか?」
「そうだなぁ……」
「少しだけでもいいのです。お願いします。僕、お兄様に教わりたいです!!」
「イヴァンは今日一日で随分強くなっただろう? もう、僕が教える事なんてないんじゃないかなぁ?」
「そんな事ありません! 僕などまだまだ足元にも及ばないのですから。お兄様が少しも本気じゃない事くらい、分かっているんです」
強請るように言われては、ダメだなんて言えるはずがない。
「分かった、分かった。じゃあ、明日はとっておきの技を教えてあげよう」
「わぁ、やったーっ!!」
イヴァンは兎みたいにピョンピョンと跳びはねる。
「イグナーツ様は、イヴァンに甘いです……」
オフェリアが拗ねたように小さな声で言う。
「え? そうかな? 今日だって、厳しく指導したつもりだよ?」
「そうじゃありません。私だって………………にいたいのに……」
「オフェリア?」
「なんでもありません。イグナーツ様は、イヴァンと一緒にずっと稽古をしていればいいのです」
プイッと横を向いたオフェリアは、スタスタと稽古場を出て行ってしまった。
僕は弱ってフェリックスの顔を見る。
「……機嫌を損ねたかな?」
賢明なフェリックスは返事をせず、スッと視線を逸らしていた。




