再会
マルク王国に入った僕らは、王都ではなくカッセリアン城を目指す。崖沿いの危なっかしい道を進んでいくと城と城壁が見えてきた。
「ずいぶん……趣のある城だな」
僕は窓から覗いて、思わずそんな感想を漏らす。
「ここにお母様とイヴァンが……?」
オフェリアも窓を覗こうとするから、頭と頭がくっつきそうなほど近くなる。目が合って慌てて離れた。
「頑丈そうな城じゃないか。敵が攻め込んできても籠城にはもってこいだ!」
咄嗟にそう言ったけれど、よく考えてみればその〝敵〟がちょっと前まで、我らが帝国軍だったのだ。
失言だった――。
僕は自分の気の利かなさに呆れて、額を手で押さえる。
「ごめん……君の前で言う事じゃなかったよ」
「いいえ。今は敵同士ではありませんし……それに、私はもう帝国のイグナーツ様に嫁ぐ身です。お気になさらないでください」
オフェリアもちょっと焦った口調で言う。
その顔を見れば、頬が赤くなっている。確かに、彼女は僕と結婚するんだから、もう帝国の人間と言ってもいい。お互いに視線をかわして照れ笑いした。
馬車に同乗しているレーネとゲーラー卿は、まるで空気のように存在感を消しているけれど、ニマニマしているのは見なくても分かる。
「カッセリアン城は防衛拠点としての役割を果たしてきた重要な城だと聞いています。帝国と敵対する以前は、貴族同士の対立によって内戦が起こっていたようですからな」
ゲーラー卿がさりげなく話題を変えてくれた。彼はまったく空気の読める男である。
「そうなの?」
マルク王国の歴史をよく知らない僕は、オフェリアに尋ねた。
「はい。王都を追われた王女が籠城していたという話も聞いたことがあります。もうずっと昔の事ですけれど」
「悲劇の王女マリアンヌですな」
ゲーラー卿がオフェリアの話に頷く。オフェリアも「よくご存じなのですね」と、驚いていた。
「もちろん、マルク王国では有名な話ですからな」
「その……悲劇の王女マリアンヌって言うのは?」
僕の問いに答えてくれたのは、ゲーラー卿だ。
「王位継承争いに敗れた王女がカッセリアン城に落ち延び、わずか五十名ほどの騎士と一緒に籠城したのですよ。けれど、最後は信頼していた侍女の裏切りに合い、敵兵が城内に侵入して城門を開いたのです。その結果、城は陥落し、王女は自らの首に短剣を突き刺し、崖から飛び下りたそうです。その遺骨はいまだ見付かっていないと言いますな。ですから、この城の周囲の林では、すすり泣いて彷徨う王女の亡霊が現れるとか」
僕は「亡霊……」と、顔を強ばらせた。
「おや、閣下はその手の話は苦手でしたか? この城にまつわる怪談話は他にもございますよ」
ゲーラー卿はすっかり人の悪い顔をしている。
「臆病者の僕には刺激が強すぎるというだけさ。しかし……興味深いね。つまり、この城のどこかに隠し通路があるかもしれないということだ」
オフェリアは「あっ、そうですね」と、口元を押さえる。
「ご安心ください。私はそのような事態になっても、命に代えて姫様をお護りいたします。裏切るなど、侍女の風上におけません」
レーネが不愉快そうに顔をしかめて言う。オフェリアは「フフッ」と笑って、彼女の手に自分の手を添えた。
「レーネがそんな事をしないのは分かっています。でも……私なら、隠し通路があれば、レーネには城から出て生き延びてほしいと思います」
「いいえ、とんでもない! 私は姫様にお供します。それに、隠し通路があれば私は真っ先に姫様を逃がしておりますわ」
「じゃあ、一緒に逃げるしかなさそうですね」
オフェリアが楽しそうに目を煌めかせるから、レーネも「ええ、それなら」と恥ずかしそうに答えていた。
「しかし……悲劇の王女が籠城していた城か」
僕は窓の外を眺めながら呟く。馬車が城門の前で停まると、守衛が慌てふためいて駆け寄ってきた。外で何やら揉めている様子だ。
「突然の訪問はあまり歓迎されていないみたいだ」
僕が言うと、「私が出ましょう」とゲーラー卿が腰を浮かせて馬車を降りていく。
「大丈夫でしょうか……」
オフェリアは心配そうな顔になっていた。
しばらく待っていると、馬から降りたジャックがやってきて扉をノックする。
「どうなっている?」
「守衛が国王の許可がないとか何とか言って、通さないんですよ。ゲーラー卿が交渉していますが、責任者が不在で判断がつかないから、王都まで行って許可を取ってきてくれだそうです。どうします? 強行突破しましょうか?」
扉を開いて顔を覗かせたジャックは、好戦的な笑みを浮かべる。
どうして、帝国の騎士は血気盛んなんだろうな。みんな、体力が有り余っていて戦いたくてウズウズしているらしい。誰も彼もが皇帝の悪い影響を受けているようだ。もう少し、平和的な解決法というやつを学ぶといいよ。とはいえ、穏便にはいきそうにないんだけど。
僕は「ふむ」と、考えてから腰を上げた。
「僕が話すよ」
「イグナーツ様、私も!」
「いいや、君は中にいてくれ。レーネ、ジャック。オフェリアを頼むよ」
オフェリアは馬車から顔を覗かせて、心配そうに見守っている。
僕が行くと、守衛と話をしていたゲーラー卿とフェリックスが振り返る。守衛だけではなく、城内にいた兵まで出てきたようで物々しい雰囲気だ。うちの騎士や兵士も、すぐにでも剣を抜ける体勢になっている。本当に頭が痛くなるよ。
「イグナーツ様、お待たせして申し訳ありません。責任者が不在の一点張りで」
ゲーラー卿が話にならないとばかりに首を左右に振る。
「そのようだね」
僕は彼の肩を軽く叩いて、守衛の前に出た。
「なんと申されましても、お通しするわけには参りませんな。国王陛下より、不審な者は通すなと申しつけられているのですから」
守衛の男が不機嫌に言う。
「なるほど、不審な者は通すな……ね。僕らが帝国からやってきた使節団だという事は理解しているかな?」
「そのようですな。ですが、ここはマルク王国です。帝国ではない」
守衛がわざとらしく肩を竦めると、他の守衛や兵たちもせせら笑う。その態度にカチンと来たのは、僕だけではないようだ。うちの騎士や兵士たちが前に出ようとするので、僕は軽く手を上げて下がらせた。
今すぐにここにいるマルク王国の者の首を刎ねたいのだろうが、もうちょっとだけ我慢してもらいたい。
かわりに、僕を護るようにスッと横に立ったのはフェリックスだ。うん、彼なら冷静で頼りになる。それにフェリックスの威圧感に、守衛や兵士たちも怯んで一歩下がっていた。
「僕らはこの城にいらっしゃるルーラ様と、イヴァン殿下にお会いするために来たんだ。国王の許可など必要ないと思うけれど?」
「そのような話は聞いておりませぬ。使節団は王都に向かうと聞いておりますからな。なぜ、こちらに立ち寄られたのかは分かりませんが、いきなり来られても困るのです。ご理解いただきたいですな」
「君は責任者は不在だと言ったね。だとしたら、今この城にいる者の中で、一番身分が上の者が責任者だ。そして、その方はオフェリア姫の母君であられるルーラ様ではないのか? だとしたら、君たちの役目はここに立ち塞がっていないで、今すぐ城内に戻り、ルーラ様の意向をお尋ねする事だと思うけれどね。この城の主は、国王じゃない。違うか?」
僕が尋ねると、守衛たちは顔を見合わせる。どうするか判断に困っているのだろう。
「今すぐ、意向を尋ねてこいと言っているんだ。オフェリア姫が母君にお会いしたいと申していると。僕は辛抱強い性格の方だけど、他の者たちはそうではない。そしてここにいる者は全員、忠誠心が高い。守衛ごときが主に無礼を働くのを黙って眺めているような無能は一人もいないんだ。帝国の騎士がいかに勇猛かは、君たちも身を持って知っていると思うけれどね。せっかく戦争で生き延びたのに、こんなつまらない諍いで死ぬ事になるのは本望ではないだろう?」
僕が言い終えた時には、フェリックスはすでに剣を抜いて構えている。他の騎士や兵士たちも同様だ。剣を向けられた守衛と兵士は一斉に青ざめていた。
「お待ちください!! 私はただ役目を果たしているだけなのです……すぐに、伺って参りましょう」
「なるべく早くしてくれ。でないと、いい加減うちの騎士たちが城門をぶち破りそうだからね」
「もちろんでございます!! すぐに……」
守衛は慌てふためいて言うと城門の横にある出入り口から中へと入っていく。
「これで、穏便にすみそうだ」
僕が満足して言うと、全員の呆れたような視線が返ってきた。
まだ、誰一人ケガをしていないし、死んでもいない。十分に平和的に解決したじゃないか。
「閣下はやはり陛下のご親友ですな」
「カールなら話し合いの前に、城門に向かって突撃しているよ」
「さようですな」
ゲーラー卿はククッと愉快そうに笑っている。
守衛が息を切らしながら戻ってきて、城門を開けたのはそれからすぐの事だった。どうやら、話し合いは成功したようだ。
◇◇◇
「オフェリア!!」
城内に入った途端、美しい黒髪の美人が駆け寄ってくる。一目見ただけで分かる。この人がオフェリアの母君で、前国王の側妃だったルーラ様だ。オフェリアの姉と言われても不自然じゃないくらい若々しい美人だ。
ヴァーナ族の女性って、美人ぞろいなのか? 前国王が周囲の反対を押し切って側妃に迎えたくなる気持ちも分かる。ただ、迎えたのであれば、最後まで責任を持って面倒を見てほしかった。
「お母様!」
オフェリアは涙ぐんで、母であるルーラ様に抱きついた。
「ああ、無事だったのですね……本当に良かった。どれほど、案じたことか!」
「それはお母様の方です。離宮から移られたと聞いて、心配しておりました」
抱擁する二人に、レーネとフェリックスが歩み寄る。
「ルーラ様、ご無事で何よりです」
フェリックスが頭を垂れると、ようやくルーラ様は娘を離す。
「フェリックス、レーネ……娘を護ってくれたこと、心より感謝いたします。二人の元気な姿をまた見られるとは……これほど嬉しい事はありません」
「いいえ、私達よりもルーラ様の方が大変な思いをされていたのではないかと……」
涙ぐむレーネの肩を、ルーラ様がそっと抱き締める。
「私は大丈夫です。イヴァンも無事ですよ」
「ご不自由されているのではありませんか?」
「いいえ、このくらい……離宮の頃と変わりませんもの」
オフェリアたちが再会を喜んでいる間に、僕はゲーラー卿に歩み寄る。
「ゲーラー卿、少々思い付いた事があるのですが」
小声で話しかけると、ゲーラー卿は楽しそうに目を細めた。
「お伺いしましょう」
僕はゲーラー卿に耳打ちして、急いで書いたメモをその手に握らせる。
それをチラッと見たゲーラー卿は笑みを深め、「承知いたしました」と丁寧に頭を下げた。
「では、私は一足先に王都に向かいます。すべて、段取りはお任せください」
「頼もしい限りです。護衛のために数名、騎士と兵士を同行させましょうか」
「いいえ、それには及びません。護衛が必要なのは、私ではなく閣下と姫君でしょうから。私は……そうですな。地理に詳しいこの城の者たちに、王都まで案内してもらいましょう。道に迷っては困りますからな」
ゲーラー卿はニヤッと笑う。まあ、帝国の使者に手を出すようなバカな真似はしないだろう。それに、ゲーラー卿の思惑も分かる。僕の思い付きを、すぐさま実行に移す方法を考え出してくれるんだから。やっぱり、この人は切れ者だよ。
「その間、城の守りが手薄になるやもしれませんからな。王都に駐在している者たちをこちらの護衛に回すように手配いたしましょう」
「あははっ、卿が帝国の忠臣でよかったですよ」
「それは……私よりも、閣下の方かと」
「僕など大した者じゃありません。ただの世間知らずの若造なんですから」
笑って答えると、ゲーラー卿がフッと笑う。
「さすがは、陛下のご親友です」
「それを、喜んでいいのやら……」
僕は頭の後ろに手をやって苦笑いを浮かべる。
「では、行って参ります。閣下もお気をつけください。ここは今だ安心できる地ではありませんからな」
「ええ、ゲーラー卿も気をつけて。何かあればすぐに知らせをください」
「承知いたしました」
挨拶を済ませたゲーラー卿が城を出て行く。それを見送っていると、「クラッセン公爵様」と呼びかけられた。ルーラ様がやってきて、「初めてお目に掛かります。オフェリアの母でございます」と優雅に挨拶をする。
「ご挨拶が遅れました。イグナーツ=クラッセンです。お会いできて光栄です」
僕はルーラ様の手を取って、できるだけ礼儀正しく挨拶を返す。なにせ、僕にとっても義理の母となる人だ。
「安心いたしました……」
僕を見つめるルーラ様が、そう言って微笑む。
「えっ? ああ、道中の事ですか。何事もなく辿り着けてよかったです」
「それもですが……娘を帝国に送り出した時には、もう二度と会えぬものと覚悟しておりましたから。こうして、娘ともう一度会わせていただけて、帝国の皇帝陛下と、公爵様の寛大なお心遣いには、感謝してもしきれません」
「当然の事です。帝国に嫁いだとしても、母君と弟君がいらっしゃる以上、この国がオフェリアの祖国である事は変わりありません。いつでも望む時にお会いになればよいのですから」
ルーラ様は涙ぐみ、もう一度深く頭を下げる。
僕の方が慌てふためいてしまった。
「頭を上げてください。それと、イグナーツとお呼びください。オフェリアの母君なのですから」
「ありがとうございます。それでは……そう呼ばせていただきます。ごめんなさいね。こんなところで立ち話を。いきなりの事で驚いてしまって……何も準備が整っていないのです」
「当然の事です。こちらが、いきなり押しかけてきたのですから」
ルーラ様は年老いた家令と家政婦を呼んで、客間にお茶を運ぶように頼み、僕らが滞在するための部屋を整えるように指示をする。案内されたのは客間だ。
古い部屋で、絨毯やカーテン、ソファーにも痛みが見られた。城全体がそうなのだろう。修繕など行えていないようだ。昼間だというのに薄暗く、陰鬱とした雰囲気が漂っている。なるほど、幽閉にはもってこいの城だ。
部屋の中を見回してソファーに座ろうとした時、「お姉様!」と元気な少年の声がした。「お待ちください、殿下!」と、メイドが慌てたように呼び止める。その手をすり抜けるようにして部屋に飛び込んできた少年が、オフェリアに飛びついた。
「ああ、イヴァン。元気にしていた?」
オフェリアががしゃんで少年を抱き締める。弟君のイヴァン殿下なのだろう。オフェリアやルーラ様に似た黒髪の少年だ。オフェリアのドレスにしがみついた少年は、我慢しきれずに泣き出す。
「イヴァン、お客様の前です。お行儀良くしなくては」
母のルーラ様がたしなめて、イヴァン殿下をオフェリアから離していた。
「お母様! でも、お姉様が帰ってこられたのです。僕、どれだけ会いたかったか分かりません」
「ええ、そうね。それは私も同じ気持ちですよ」
ルーラ様は愛おしそうにイヴァン殿下の頭を撫でる。
「僕の事は気にしないで、存分に姉君に甘える時間を差し上げてください」
僕が言うと、オフェリアが「ごめんなさい、イグナーツ様」と恥ずかしそうな顔をする。
「いいや、いいよ。本当に家族水入らずの時間を邪魔するつもりはないんだ」
「あの……お姉様と結婚する帝国の方ですか?」
イヴァン殿下は母から離れると、警戒するように僕に尋ねる。
「イヴァン、ご挨拶が先です」
母に言われて、殿下はハッとしたように「初めまして。イヴァンと申します」と挨拶をしてくれた。
僕は立ち上がり、「初めまして、イヴァン殿下。お会いできて光栄です」と頭を下げる。
イヴァン殿下はそんな僕を驚いたように見上げてから、すぐにモジモジして下を向いた。
うっ、かわいいな。僕に弟がいたらこんな感じなんだろうな。いや、義理のとはいえ弟になるのか。うんとかわいがってあげたいが、いきなり距離を詰めると余計に警戒されてしまう。僕は彼にとって敵国の人間で、姉を奪った悪いヤツだと思われているかもしれないんだから。
「殿下のご推察通り、姉君のオフェリア姫と結婚する事になった男です」
ニコッと笑って言うと、殿下はますます目を見開いて後ろに下がろうとする。けれど、思いとどまるように足を戻した。
「お姉様は……帝国の人質にされたと聞きました。あなたは……お姉様を閉じ込めているのですか?」
僕が驚いてどう答えようか迷っている間に、オフェリアが殿下の前に出る。
「それは違います、イヴァン。私は帝国と王国の和平のために結婚を決めたのです。それに、あちらでは閉じ込められてはいません。とてもよくしていただけています」
きっぱり答えるオフェリアを、イヴァン殿下が戸惑うように見る。
「本当ですか? でも、城の者たちが言っていたのです……姉様はきっとあちらで、ひどい目に遭わされていると……」
「ひどい目に遭わされていたら、こんな風にイヴァンやお母様に会いに来られませんでした」
「そうですね……ごめんなさい」
イヴァン殿下は落ち込んだように下を向く。
「イヴァン。まずは、イグナーツ様にお詫びを。とても失礼なことを言ったのですから」
ルーラ様に優しく言われて、イヴァン殿下が僕を見る。
「申し訳ありません……思い違いをしていました」
僕の顔色を伺いながら小声で謝るが、心から納得してはいないようだ。すぐに疑いが晴れないのも当然だろう。
「殿下の懸念は当然の事です。僕はオフェリアを閉じ込めたりするつもりはありませんし、少しも悲しませないよう、僕と結婚してよかったと思っていただけるように、精一杯努力するつもりでいます。殿下にお約束しますよ」
僕は絨毯に膝を突いて、殿下の小さな手を取る。
「約束……本当に、約束してくださるのですか?」
「ええ、生涯をかけて、幸せにすると誓います。もし、誓いを破れば、神様の天罰が下さる事でしょう」
「絶対、絶対……ですか!? 僕はお姉様に幸せになってほしいのです。王宮でもみんなが……ひどい事ばかり言っていたのを知っています。帝国に行ったらずっと塔に幽閉されて、罪人のように繋がれると……ひどい拷問にもかけられるかもしれないと……」
殿下は声を震わせ、目を潤ませる。それを聞いて、小さな殿下はきっと不安で仕方なかったのだろう。
「申し訳ありません。ご不快に思われた事でしょう。私がかわって謝罪を」
ルーラ様が立ち上がって頭を下げようとするので、僕は「いいえ、かまいません」と遮った。今にも泣きそうな顔をしているイヴァン殿下の頭に手を伸ばす。
「イヴァン殿下……いや、イヴァンと呼んでもいいかな? 僕とオフェリアが結婚をしたら、君は僕の弟って事になるんだから」
あえて口調を変えて尋ねると、イヴァン殿下の濡れた瞳が戸惑うように僕を見る。
「僕が……弟……ですか?」
「普通はそうなるだろう? 嫌ならすぐにそう思う必要はないんだけど」
「あの……あなたは、お姉様の事が好きなのですか?」
いきなりの質問に、思わず言葉が詰まる。けれど、純粋な瞳で見つめられるては、答えないわけにはいかない。
「ええっと……それは……」
レーネとフェリックスの視線が突き刺さる。それにルーラ様まで、僕の言葉を待っているようだ。
うっ――これは、下手に誤魔化すわけにはいかないぞ。
「お姉様の事が……本当は……好きではないのですか?」
「いいや、好きだよ! すごく好きに決まっているじゃないか。大好きだとも。オフェリアはすごくかわいいし、素敵だし……君のお姉さんを嫌いになる人なんて、この世の中にいると思えないな」
僕が慌てて早口で答えると、ようやくイヴァンの瞳から警戒と疑念の色が消える。
「それなら、僕の事も弟と思ってくださっていいです!」
イヴァンは嬉しそうな顔で言うと、ギュッと抱きついてきた。
「もちろんだよ……うん、かわいい妻の他にもかわいい弟までできて、僕は帝国一の幸せものだ」
僕はぎこちなく笑って、殿下の頭にポンポンと手をやる。
「イグナーツ様……」
オフェリアが真っ赤に染まった顔を両手で覆っている。耳や首まで血色がよくなっていた。そうだった。本人の目の前だった。僕の顔までジワッと熱くなってきて、手で押さえた。
メイドや護衛の騎士たちまで、見てはいけないものを見たように顔を逸らす。
これはかなり、恥ずかしいぞ――。
ルーラ様は「やはり、安心いたしました」と、ニコニコしている。
「それは……よかったです」
僕はいたたまれず、苦笑いをしてそう答えるしかなかった。
お茶を飲んで、帝国でのオフェリアの様子や、結婚式の話などをしている間に、滞在する部屋が整ったようだ。オフェリアと僕は案内されて部屋に向かう。冷えた空気の漂う廊下を歩いていると、オフェリアがそっと僕の服の袖をつまんできた。
「あっ、部屋のこと? どうしようか……別に……」
「いいえ……その事ではなく。先ほどはありがとうございました。弟のイヴァンが失礼な質問をしたのに」
小声で言う彼女の頬や耳はまだほんのり赤い。
「ああ……いや。君を心配しての事だからね。それにかわいいじゃないか」
僕は頬を掻いて笑う。僕を見るオフェリアの口元が愛らしく緩んでいた。
「嬉しかったです。もちろん、弟を納得させるための言葉だと言う事も分かっていますが、それでも……」
袖を離す彼女の手を、つい引き留めるようにつかむ。その手に自分の指を絡めて少し強めに握ると、彼女が緊張するのが分かった。
心臓までドキドキしていて、初恋を知った未熟な若者みたいに僕も緊張してしまっていた。
まいったな。これでも女性に慣れていないというわけではないんだが――。
「思ってもいない事を言ったつもりはないよ」
「え……?」
全部、偽りない本心だ。そうでなければ、廊下の真ん中で人目もはばからずに抱き締めたくなったりはしないだろう。
こんな事なら、結婚式をできるだけで早く終えてから来るべきだった。そうすれば、遠慮する必要はなかったんだから。
僕は離しがたい彼女の手に軽く口づけした。オフェリアは目を丸くして僕を見てから、はっきり分かるほどに顔を赤らめる。そんな表情もかわいくて、余計に僕の心はかき乱されるんだ。どうしようもない程に。
「やっぱり……寝室は別に用意してもらおう」
「そ、そうですね……イグナーツもゆっくりお休みになりたいでしょうし」
オタオタして答えるオフェリアをチラッと見て、僕は苦笑した。
確かに、彼女が同じ寝台に横たわっていたら、多分ゆっくり休む事なんてできないだろう。
「ああ、うん……そうだね」
僕は視線を逸らしたまま、そう答えておいた。




