第一章 第一節〜誰かの隣に立つために〜
白き鐘の音が、朝靄のように空へ溶けていく。
雲海の上に広がる「白き天空の領域ケテル」は、今日も穏やかだった。
白亜の街路。空へ架かる橋。ゆるやかに流れる水路。そして遥か上空へ伸び続ける巨大な塔――世界柱。
ソフィアは神殿前の石段を掃き終えると、木製の柄を壁へ立てかけ、小さく息を吐いた。
「……よし、終わり」
朝の清涼な風が金髪を揺らす。
雲海のすぐ上に位置するケテルは、空気こそ澄んでいるものの、肌を刺すような寒さはない。風は柔らかく、どこか水の香りを含んでいた。
神殿の脇を、白衣姿の僧侶たちが行き交っていく。
「おはようございます、ソフィアさん」「おはようございます」
自然と笑顔が返る。
気づけば、ここへ来てからもう数カ月が経っていた。
◇
転生直後のソフィアは、まず冒険者ギルド ケテル支部へ所属した。
この世界について何も知らなかった以上、情報と生活基盤が必要だったからだ。
ケテル支部は、世界柱の探索や護衛依頼を扱う大規模な拠点だった。
世界柱。
空の果てまで伸びる白い巨塔。
その内部は、異界セフィロト最大級のダンジョンとして知られている。
地上から雲海の上まで続く主要経路こそ安全が確保されているものの、未踏破領域はいまだ無数に存在していた。
だからこそ、探索者は絶えない。
だが。
「……ごめんな。お前が悪いわけじゃないんだが」
そう言って困ったように頭を掻いた戦士の顔を、ソフィアは今でも覚えている。
冒険者としての彼女は、決して弱くなかった。
剣も使える。
簡単な治療もできる。
索敵も荷運びも交渉も、ある程度はこなせる。
けれど、“ある程度”だった。
専門職には届かない。
前衛なら騎士や戦士。
治療なら僧侶。
斥候なら盗賊や狩人。
固定パーティというものは、それぞれの長所を組み合わせて成り立つ。
だからこそ、何でもできる者は、逆に居場所を得にくかった。
即席の依頼では重宝された。
不足役を埋められるからだ。
だが長期活動となると、“必須”にはならない。
それが「放浪者」という適性だった。
ソフィア自身、その事実を責めてはいなかった。
むしろ納得していた。
自分は元々、“誰かに合わせる”ことが得意だったのだから。
△
▽
「ソフィアちゃん、これ運ぶの手伝ってくれないかい?」
「はい、今行きます!」
市場通りで声を掛けられ、ソフィアはすぐ駆け寄った。
木箱を抱え上げる。
中には果実酒の瓶が詰まっていた。
「重くないかい?」「大丈夫です」
笑いながら答える。
本当はもっと簡単な方法がある。
足元へ小さな魔法陣を開き、そのまま収納してしまえばいい。
けれどソフィアは、あまりその力を人前で使わなかった。
便利すぎるからだ。
人は便利なものへ役割を固定したがる。
きっとそれは悪意ではない。
けれど、“荷物袋”として扱われる未来を、彼女は望まなかった。
だからこそ、その力は必要最低限だけ使う。
人知れず。
静かに。
それが、いつの間にか身についた処世術だった。
「助かるよ、ほんと」「また困った時は呼んでください」
そう言うと、果物屋の店主が笑う。
「ソフィアちゃんが来てから、この辺ずいぶん明るくなったねぇ」
そんな風に言われることも増えた。
神殿の掃除。
市場の荷運び。
迷子探し。
世界柱へ向かう商人の護衛補助。
街の雑務。
そうした依頼をこなしていく内に、気づけば彼女の顔はケテルの街へ広く知れ渡っていた。
◇
「神殿へ来てみませんか?」
最初にそう声を掛けたのは、高位僧侶の女性だった。
白銀の法衣を纏った、穏やかな人物だった。
「あなたには、人を安心させる力があります」
その言葉に、ソフィアは少しだけ驚いた。
僧侶。
神へ祈り、人を癒し、導く者。
もし「放浪者」を捨て、僧侶となれば。
固定パーティでも、明確な役割を得られる。
今の生活と大差もない。
むしろ選択肢は増えるだろう。
「……やってみたいです」
そう答えたのは、半ば直感だった。
◇
神殿での日々は、不思議と性に合っていた。
朝の祈祷。
回廊の清掃。
巡礼者への案内。
傷病人の看護補助。
水路の管理。
時には世界柱へ向かう調査団への祝福儀式も行った。
ソフィアは器用だった。
何をやらせても一定以上にこなせる。
さらに、誰かの話を聞くのが上手かった。
疲れた僧侶の愚痴。
新人見習いの不安。
旅人の悩み。
彼女は否定せず、急かさず、ただ自然に受け止めた。
だから気づけば、人が集まる。
「ソフィアさん、少し相談が……」「今日、一緒に食堂行きませんか?」「この前のお茶、美味しかったです」
そんな日常が、少しずつ増えていった。
そして数カ月後。
夕暮れの神殿回廊で、ソフィアは再びあの高位僧侶に呼び止められた。
「あなたに、お話があります」
朱に染まる空。
白い床へ長い影が落ちる。
「正式な僧侶になる気はありませんか?」
静かな声音だった。
けれど、その言葉の意味は重い。
「正式な……」
「ええ。ただしそのためには、“放浪者”を捨てる試練を越えねばなりません」
クラスの転換。
それは単なる技術習得ではない。
在り方そのものを変える行為だ。
万能である代わりに曖昧だった自分を、一つの道へ定める。
ソフィアは少しだけ黙った。
風が吹く。
遠くで飛空艇の鐘が鳴っていた。
「……試練の場所は?」
「黒き凍土の領域ビナーです」
雪と氷の山脈地帯。
厳しい自然と海運によって成り立つ辺境領域。
かつてなら、世界柱内部を地上まで降りる必要があった。
だが現在は違う。
飛空艇によって、ケテルと「知恵と創造の領域コクマー」が結ばれている。
まずコクマーへ渡り、そこから陸路でビナーへ向かう。
それが現代の主流ルートだった。
「行きます」
ソフィアは迷わなかった。
高位僧侶は、静かに微笑む。
「……あなたなら、そう言うと思っていました」
△
▽
旅立ちの日。
飛空艇発着場には、白い風が吹いていた。
巨大な浮遊桟橋。
係留された銀色の船体。
船腹に刻まれたコクマー式の紋様が、淡く光を放っている。
「忘れ物はありませんかー!」
乗員たちの声が飛ぶ。
ソフィアは肩掛け鞄を軽く叩いた。
「うん、大丈夫」
一見すれば、随分軽装だった。
旅装束に、小さな荷物だけ。
だが実際には違う。
保存食。
水。
防寒具。
工具。
予備武器。
薬品。
そして、浮遊橋や外周歩廊を渡る際に使われる、ケテル製の丈夫な命綱用ロープ。
旅に必要な物資は既に、異空間の中へ整然と収められている。
誰にも知られないまま。
静かに。
ソフィアはタラップの前で一度だけ振り返った。
白い街並み。
雲海。
空へ伸びる世界柱。
自分が新しい人生を始めた場所。
「……行ってきます」
小さく呟き、彼女は飛空艇へ乗り込んだ。
白き天空を離れ、新たな領域へ向かう旅が、今始まる。




