第一章 第一節〜冒険者ギルド ゲブラー支部〜
熱い。
異世界に放り込まれて最初に浮かんだ感想が、それだった。
「いや暑っっっ……」
彼女は額を押さえながら、黒い岩場をふらつくように歩く。
空気が熱風そのものだった。
地面の割れ目から白い蒸気が噴き出し、靴底越しにも熱が伝わってくる。遠くで火山が低く唸り、赤黒い雲が空を覆っていた。
日本の夏など可愛いものだ。
これはもう、災害だった。
「水……あと日陰……」
唇が乾く。
汗は出ているはずなのに、途中から身体の感覚が鈍くなってきていた。
だが立ち止まるわけにはいかない。
遠くには港湾都市が見える。
煙突から黒煙を吐き出し続ける、鉄と火の街。
少なくとも人はいる。
水もあるはずだ。
「……海あるし……最悪、海水を……」
数秒考え。
「いや駄目だわ」
冷静に自分で却下した。
そんな事を考え始めた辺りで、かなり危険な状態なのだろう。
彼女は肩で息をしながら歩き続ける。
途中、荷車を引く大男とすれ違った。
角のようなものが頭から生えた大柄な男だったが、向こうもこちらを見てぎょっとしていた。
「おい嬢ちゃん!? その格好で外歩いてんのか!?」
「……水……」
「駄目だこりゃ!」
何か叫ばれた気がした。
だが、もう意識がぼやけて聞こえない。
視界が揺れる。
身体が傾く。
「あ、これ熱中症のやつ――」
そこで意識が途切れた。
◇
次に目を覚ました時。
鼻をくすぐったのは、薬品の匂いだった。
「……ん」
柔らかな感触。
白い天井。
布団。
そして、涼しい。
「生きてる……」
「お、起きたか」
低い声が聞こえた。
視線を向けると、浅黒い肌の女性が椅子に腰掛けていた。
短く切った灰色の髪。腕には革製の防具。背には大剣。
いかにも歴戦の冒険者、といった雰囲気だった。
「道端で倒れてたんだよ。巡回中の連中が見つけて運んできた」
「……ありがとうございます」
「礼ならギルド職員にも言っときな。ここ、冒険者ギルドの看護室だから」
彼女はゆっくり身体を起こした。
まだ頭は少し重い。
だが、水差しを見つけた瞬間、反射的に飛びついた。
「うま……」
「どんだけ干からびてたんだお前」
「死ぬかと思いました」
「実際かなり危なかったらしいぞ」
女性冒険者は呆れたように笑う。
そこへ、制服姿の女性が部屋へ入ってきた。
「目が覚めましたか。よかった」
眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の女性だった。
手元には書類束。
彼女を見る目は、どこか仕事慣れしている。
「体調は?」
「だいぶ楽です」
「なら安心しました。ここは冒険者ギルド・ゲブラー支部です。あなたは街道脇で倒れていた所を保護されました」
「はぁ……」
「まず、確認のために名前を教えていただけますか?」
名前。
その言葉に、彼女は少しだけ黙る。
前の世界で使っていた名前が、頭に浮かんだ。
だが。
妙な感覚があった。
もう、その名前ではない気がしたのだ。
あの世界で、苦労して、耐えて、生き抜いてきた自分。
その人生は確かに本物だった。
けれど。
ここは、あの世界ではない。
なら。
新しい名前くらい、自分で決めてもいいのかもしれない。
ふと、白い空間で聞いた声を思い出す。
『面白い』
あの得体の知れない存在に対して、妙に啖呵を切ってしまった自分。
あの時の、自分らしくもある投げやりさに、彼女は少し笑った。
「……マギル、で」
◇
「マギルさん、ですね」
女性職員はさらさらと書類へ記入する。
「姓は?」
「……ないです」
「記憶障害の症状でしょうか……」
「え?」
気づけば、女性職員は真面目な顔になっていた。
「ご自身の出身地や家族構成は?」
「いや、えっと」
「思い出せませんか?」
「……あー」
マギルは察した。
これ、完全に記憶喪失扱いされている。
異世界転生しました、などと言っても信じてもらえないだろう。
むしろ危ない人扱いされそうだ。
「……多分、覚えてないです」
結果、乗ることにした。
女性職員は深刻そうに頷く。
「転移時の衝撃で記憶に異常が出る例はありますからね……」
「転移」
「はい。この世界――セフィロトでは、稀に外界から人が流れ着く事があります」
さらりと、とんでもない事を言われた。
「外から来た人、結構いるんですか?」
「頻繁ではありません。ただ、前例はあります」
女性職員は説明を続ける。
この世界には十一の領域が存在すること。
そのうち九の領域には冒険者ギルドの支部が置かれていること。
“王国と繁栄の領域マルクト”に本部があり、各領域の支部を統括していること。
そして、ここ“赤き焦土の領域ゲブラー”は、火山資源と工業、海上交易で栄える領域であること。
「なるほど……」
マギルは静かに聞きながら、頭の中を整理していた。
少なくとも。
完全な世紀末ではない。
組織も文明も存在している。
なら、生き延びる余地はある。
「あと、保護時に適性確認を行いました」
「適性?」
「ええ。この世界では、誰もが何らかの“役割”に適性を持っています」
女性職員は書類をめくる。
「マギルさんの適性は“魔術師”でした」
「魔法」
「後衛戦闘と支援弱体化に優れた適性です。ただし近接戦闘能力は低めですね」
「インドア派向きだ……」
「?」
「いえ」
女性職員は小さく首を傾げた後、説明を続けた。
「魔術師は比較的人気の高い適性です。希少な術式を扱える者もいますし、戦闘では重要な後衛戦力になります」
「へえ……」
マギルは曖昧に頷きながら、自分の掌を見る。
特に何か変わった感じはしない。
火も出ないし、雷も走らない。
今のところ、ただ暑さで倒れた一般人である。
「ちなみに、適性ってどうやって使うんです?」
「訓練です」
「現実的」
「才能があっても、扱えなければ意味はありませんから」
それは妙に納得できた。
前の世界でも、結局最後に物を言うのは積み重ねだった。
◇
「マギルさんのような転移者は、初期能力が不安定な場合もあります。最初は無理に外へ出ない方がいいでしょう」
「外って、火山地帯の方ですか?」
「はい。この領域の外縁部は魔物の出現も多く、初心者には危険です」
「魔物いるんだ……」
ファンタジーだなぁ、と他人事のように思う。
いや実際、他人事では済まないのだが。
「なので、ギルドとしては都市内依頼から始める事を推奨しています」
女性職員は別の書類を差し出した。
依頼一覧らしい。
『港湾倉庫の荷運び補助』 『鉱石運搬の人員募集』 『工房街の炉灰処理』 『帳簿整理補助』
思ったより地味だった。
「もっとこう、スライム退治とかじゃないんですね」
「死にたいんですか?」
「働きます」
即答だった。
女性冒険者が横で吹き出す。
「賢明だな」
「命綱なしで異世界デビューしたくないので……」
「その判断できるだけ新人にしちゃ上等だよ」
どうやら無謀に外へ出て死ぬ新人は珍しくないらしい。
世知辛い。
「マギルさんは身元保証もありませんし、当面はギルド簡易宿舎を利用するといいでしょう」
「宿あるんですか」
「最低限ですが」
「屋根と水があるだけで神です」
切実だった。
職員は少し困ったように笑う。
「では、仮登録手続きを進めますね。正式なギルド所属は、基礎講習後になります」
「講習」
「この世界の常識を知らないようですので」
「ごもっともです」
むしろ助かる。
今のマギルは、この世界について知らなすぎた。
貨幣価値も。危険地帯も。文字すら読める保証がない。
……と思った瞬間。
「あれ」
「どうしました?」
「文字、読めますね」
依頼書の文字が自然に理解できている。
見たこともない文字のはずなのに。
「転移者には時々あります。言語理解の補助ですね」
「便利」
「生存率に関わりますから」
そこは親切設計らしい。
マギルは小さく息を吐いた。
異世界。
転移。
冒険者ギルド。
魔術師適性。
情報量が多すぎて現実感が薄い。
だが。
喉を潤した水の冷たさも。ベッドの柔らかさも。身体に残る熱疲労も。
全部、妙にリアルだった。
「……働くかぁ」
結局そこへ戻る。
生きるためには金がいる。
世界が変わっても、その辺りは変わらないらしい。
「何か言いました?」
「いえ。社会はどこでも厳しいなって」
「?」
女性職員はまた首を傾げた。
マギルは誤魔化すように笑い、差し出された登録書へ視線を落とす。
こうして。
異界セフィロトに流れ着いた少女・マギルは。
冒険者ギルド ゲブラー支部の新人冒険者として、生きていく事になった。




