プロローグ〜セフィロトにようこそ〜
雨の匂いが染みついた古いアパートだった。
四畳半の部屋に置かれているのは、折り畳み机と安物の寝具、それに湯気の消えたカップ麺の容器だけ。窓の外では、深夜の道路を走るトラックの音が、絶え間なく壁を震わせていた。
彼女は、薄暗い部屋の中でスマートフォンの画面を閉じる。
「……今月も、ギリギリか」
口に出してみても、誰も返事はしない。
学生時代に親を亡くし、借金だけが残った。高校を出てからは昼も夜も働き詰めで、食費を削り、睡眠を削り、人付き合いを削り続けた。
誰かを頼るという選択肢は、早い段階で捨てていた。
頼れば、相手に負担を背負わせる。 甘えれば、いつか見捨てられる。
だから彼女は、一人で考え、一人で耐え、一人で生き延びる方法ばかり磨いてきた。
けれど――。
「……あー、もう」
彼女は小さく笑った。
その日、職場の後輩が泣きながら相談してきたのだ。家賃が払えず、弟の学費も足りない、と。
断る理由はいくらでもあった。
自分だって余裕などない。 貯金だって、ようやく積み上がり始めたばかりだ。
それでも彼女は、財布から生活費を抜き取り、後輩へ振り込んでいた。
『なんで、そこまでしてくれるんですか』
震える声でそう聞かれた時、彼女は少し考えてから答えた。
『今のあんたを放っとくと、昔の私を見てるみたいで嫌だから』
結局、その月はまたカップ麺生活に逆戻りした。
だが不思議と、後悔はなかった。
苦しい人間を見捨てる方が、自分にはずっと苦しかった。
窓の外では雨が降り始めていた。
彼女は古い電気ケトルのスイッチを押し、壁にもたれかかる。
昔は、ただ生きるだけで精一杯だった。
けれど最近は違う。
借金はほとんど返し終えた。資格も取った。職場でも頼られるようになった。
少しずつだが、自分の人生を取り戻せている実感があった。
「……そのうち、海でも見に行くか」
そんな独り言を漏らした、その時だった。
部屋の明かりが、不意に消えた。
「え?」
瞬間。
視界が白く染まる。
雷ではない。停電でもない。
光だった。
どこまでも透き通った、終わりの見えない白光。
彼女は立ち上がろうとして、身体が動かないことに気づく。
音が消えた。
空気が消えた。
重力さえ、消えていく。
意識だけが、果てのない白の中へ落ちていく感覚。
『――見つけた』
声が響いた。
男とも女ともつかない、不思議な声だった。
『苦境の中で己を磨き』
『力を得てもなお、他者へ与えることを選び』
『燃えるような困難の中で、生を切り開いた魂』
白い世界の奥で、何か巨大な存在がこちらを見ている。
姿は見えない。
だが、理解だけはできた。
自分とは比べ物にならないほど大きな“何か”だと。
『来るか』
その問いに、彼女は眉をひそめた。
「いや、説明くらい――」
『汝には資質がある』
「人の話聞いて?」
『新たな世界は、お前を必要としている』
「ブラック企業のスカウトみたいな言い方やめて」
思わずそう返した瞬間、白い空間が静まり返る。
数秒の沈黙。
やがて、その存在はどこか愉快そうに告げた。
『面白い』
「いや、だから説明を――」
その瞬間、世界が反転した。
落下。
轟音。
熱。
焼けるような風が全身を叩く。
「っ――!?」
彼女は硬い地面に転がり落ちた。
鼻を突く硫黄の臭い。乾いた熱気。赤黒い空。
見上げれば、遠方で火山が噴煙を上げていた。
大地には黒い岩肌が広がり、地熱の蒸気が白く噴き出している。
「……は?」
混乱したまま身体を起こした彼女の耳へ、遠くから鐘の音が届く。
海の方角だった。
振り向けば、赤銅色の巨大な港湾都市が見える。
無数の煙突。立ち昇る黒煙。鉄を打つ轟音。海を行き交う大型船。
灼熱の荒野と、鉄と炎の街。
その異様な光景を前に、彼女は呆然と立ち尽くした。
すると。
頭の奥に、静かな声が響く。
『セフィロトへようこそ、転生者』
彼女はしばらく黙り込んだ後、乾いた声で呟いた。
「……とりあえず、水欲しい」
その言葉と共に、異世界での彼女の人生が始まった。




