第二章 第三節〜地底湖調査〜
二日間の休息期間が終わった。
長期遠征者用宿舎の食堂には、久しぶりに遠征隊らしい緊張感が戻っている。
研究員達は観測機材の点検を行い、冒険者達は装備の最終確認を進めていた。
そしてソフィアもまた、その輪の中にいた。
◇
今回地底湖へ向かうのは九名。
調査研究員であるクレイス。
研究員三名。
護衛の騎士、赤髪の女狩人、盗賊、小柄な女僧侶。
そしてソフィア。
主任研究員と研究員二名は宿舎へ残る。
大書庫から借り受けた資料の調査を行うらしい。
どうやら選定の回廊そのものは調査できなくとも、大書庫の蔵書については閲覧が許可されているようだった。
◇
「さて、準備はいいか」
クレイスの声に研究員達が頷く。
その背には大きな観測機材が背負われていた。
金属製の箱。
測定器。
採取容器。
記録装置。
どれも重そうだ。
ソフィアは少し考えた後、遠慮がちに手を挙げた。
「あの」
「どうした?」
クレイスが振り返る。
研究員達も視線を向けた。
「それ、私の能力で運んだ方が安全じゃありませんか?」
一瞬、沈黙が落ちる。
ソフィアは続けた。
「地底湖まで持っていくだけなら、異空間に収納しておいて必要な時に出せますよね?」
本来なら人前で積極的に使いたくない能力だった。
便利すぎるからだ。
だが今回は事情が違う。
研究員達は重たい機材を背負う。
動きも鈍くなる。
護衛する冒険者達にも負担が掛かる。
ならば自分に出来ることをするべきだと思った。
◇
研究員の一人が苦笑する。
「気持ちは本当にありがたい」
研究員は苦笑した。
「本音を言えば今すぐお願いしたいくらいだ」
「じゃあ……」
「ただ、収納したことで計測結果に影響が出ない保証が無い」
ソフィアが首を傾げる。
「影響ですか?」
「温度かもしれないし、魔力かもしれない。原因は分からないが、異空間を経由したことで結果が変わったと言われたら研究として成立しなくなる」
研究員は背負った機材を軽く叩いた。
「俺達が持ち帰りたいのは機材じゃない。正しい調査結果なんだ」
「なるほど……」
ソフィアは納得した。
確かにそうだ。
便利だから使うでは済まない話だった。
◇
「ただし」
研究員が続ける。
「命の危険があるなら話は別だ」
「え?」
「機材を抱えて死ぬくらいなら、収納して逃げる」
騎士が豪快に笑った。
「そりゃそうだ」
「研究は生きてりゃやり直せるからな」
研究員達も苦笑する。
「だから、その時は頼む」
ソフィアは小さく笑った。
「はい」
◇
遠征隊はトンネル都市を出発した。
地底湖へ続く坑道は、都市周辺の道より遥かに狭い。
馬車など到底入れない。
研究員達が機材を背負い、徒歩で進むしかなかった。
最初のうちは黒い岩肌が続いていた。
トンネル都市周辺で見慣れた景色だ。
だが進むにつれ、空気が変わる。
「寒くなってきたな」
赤髪の女狩人が肩を竦めた。
壁面に薄く氷が張り始めている。
◇
「この辺りから先が本来の姿だ」
騎士が言う。
「都市の近くは人が多いからな。熱で溶ける」
「なるほど」
ソフィアは壁へ触れた。
冷たい。
指先が痺れるほどだった。
◇
さらに奥へ進む。
やがて氷は増え。
岩肌は姿を消し。
周囲は青白い世界へ変わった。
「綺麗……」
思わず声が漏れる。
天井。
壁。
床。
全てが氷で覆われていた。
青い光が揺らめいている。
まるで巨大な宝石の中を歩いているようだった。
「氷鏡の洞窟だ」
盗賊が答える。
「トンネル都市じゃ有名な場所だな」
◇
やがて壁面の一角が鏡のように磨かれた場所へ出る。
自然に出来た氷らしい。
透き通った氷面には、通路を進む遠征隊の姿が映り込んでいた。
研究員達。
護衛の冒険者達。
ソフィア。
そしてクレイス。
誰も足を止めることなく、その前を通り過ぎていく。
ただそれだけの光景だった。
◇
だから誰も気付かなかった。
全員が通り過ぎた後も。
氷面の中に映るクレイスだけが。
そこへ立ち続けていたことに。
△
▽
地底湖を目前に控えたところで。
先頭を歩いていた盗賊が、不意に片手を上げた。
「止まれ」
遠征隊の足が止まる。
盗賊は身を低くし、地底湖の方向を窺った。
「どうした?」
クレイスが小声で尋ねる。
「地底湖の周辺に魔物がいる」
盗賊は短く答えた。
「数は数体。水棲種だな」
騎士が眉をひそめる。
「気付かれてるか?」
「いや」
盗賊は首を横に振った。
「まだこっちには気付いてない」
クレイスは研究員達へ視線を向けた。
全員が観測機材を背負っている。
研究員達を危険に晒す前に、先行して魔物を排除する。
◇
クレイスは即座に判断した。
「騎士」
「おう」
「盗賊」
「了解」
「研究員を守れ」
二人が頷く。
続いてソフィアを見る。
「君も残れ」
「え?」
「今回は防衛側だ」
反論しかけたソフィアだったが、研究員達を見て納得した。
「……分かりました」
◇
「狩人」
「はいよ」
「僧侶」
「準備できてます!」
「行くぞ」
三人は静かに前進した。
◇
湖畔。
黒い水面。
その近くを大型の水棲魔物が徘徊していた。
氷魚と呼ばれる魔物だ。
巨大な牙。
分厚い鱗。
冷気を纏っている。
◇
最初に動いたのは赤髪の女狩人だった。
矢が飛ぶ。
一直線。
魔物の目へ突き刺さった。
絶叫。
同時にクレイスが魔力を解放する。
青白い光。
雷撃。
轟音と共に二体目が吹き飛んだ。
残った個体が水面を割る。
飛び掛かる。
だがその動きを読んでいたように、小柄な女僧侶の支援魔法が発動した。
光がクレイスを包む。
身体能力が強化される。
「そこだ」
クレイスの一撃が魔物を沈めた。
◇
戦闘は短時間で終わった。
奇襲。
連携。
判断。
全てが噛み合った結果だった。
◇
その後、遠征隊は地底湖へ到着した。
地下とは思えないほど巨大な空間。
静かな湖面。
青白い氷の反射。
幻想的な景色だった。
◇
研究員達は観測機材を設置する。
採水。
温度測定。
魔力測定。
サンプル採取。
黙々と作業が進んだ。
その間、ソフィア達は周囲の警戒を続ける。
◇
「ビナーには昔から変な言い伝えがあってな」
待機中、騎士が話し始めた。
「無限の可能性が一つへ収束する時、削ぎ落とされた光が眠る場所があるって話だ」
「光?」
ソフィアが首を傾げる。
「今じゃ冒険者の間で『氷の中にはお宝が埋まってる』って噂に変わっちまったがな」
盗賊が笑う。
「まあ夢はある」
◇
夕方。
調査は無事終了した。
遠征隊は宿舎へ帰還する。
持ち帰った記録とサンプルは主任研究員へ提出された。
◇
主任研究員は資料へ目を通す。
数分。
沈黙。
やがて顔を上げた。
「水そのものに特異性は見られない」
研究員達が息を呑む。
「少なくとも、保存や継承に関わる反応は確認できないな」
肩を落とす者もいた。
だが主任研究員は冷静だった。
「結果が出ないことも結果だ」
机へ資料を置く。
「次を考える」
◇
その夜。
宿舎ではそれぞれが自由時間を過ごしていた。
研究員達は今日の記録を整理し。
騎士と盗賊は馴染みの酒場で旧友達と酒を酌み交わし。
赤髪の女狩人は弓の手入れをし。
小柄な女僧侶は神殿への報告書を書いている。
ビナーへ到着して四日目の夜。
遠征隊にも少しずつ日常が生まれ始めていた。
◇
その頃。
誰もいない氷鏡の洞窟で。
静かな異変が起きていた。
鏡のような氷面。
そこへ光が走る。
まるで水面のように揺らぎ始めた。
映し出される。
遥か昔の光景。
クレイスの記憶。
いや。
器だった頃の記録。
見知らぬ冒険者達。
賑わう街。
巨大な魔物との戦い。
仲間達との旅路。
笑い声。
歓声。
そして――
同じ場所に立つ、金髪の少女の姿。
◇
氷面は静かに揺れる。
まるで誰かに見せるために。
あるいは。
失われた記録を再生するために。
氷鏡の洞窟は、ただ静かに過去を映し続けていた。




