pier8 ヴィーナスの夢
──数えること十一年前。
初めて知り合った小学校の教室で、怜菜と将来の夢の話をした。
当時、スイミングスクールに通っていて水泳を得意としていた里花子は、あまり考えずに『水泳選手』と答えた気がする。怜菜の答えがあまりにも印象的だったものだから、自分の記憶はうろ覚えだ。まだ小学一年生の小柄な女の子だった怜菜は、ありもしない胸を張って、堂々と答えたのだ。
──『私ね、ヴィーナスになりたいの』
──『ヴィーナスってなに?』
──『さいえんを守る女神さまなんだって。すごくきれいで、みんなのあこがれで、いざという時にはみんなを守る、やさしくてつよい神さまなの。お母さまにそう教えてもらった』
ヴィーナス、またはウェヌス。ローマ神話に登場する菜園の女神で、古代ローマ建国の祖と伝えられる存在だという。菜園をつかさどることから作物の豊穣をもたらす地母神としての性格もあり、国民すべての母と仰がれ、広く尊崇を集めてきた──。そんな話を両親から聞かされた怜菜は、みずからも「やさしくてつよい」存在でありたいと無邪気に願い、堂々と里花子に語って聞かせたのだ。あまりに堂々としていたものだから、里花子自身もすっかりこの話を信じてしまった。ローマ神話の登場人物やエピソードが基本的に前身たるギリシア神話のそれに準じており、ヴィーナスの場合はアフロディーテ、すなわち愛や性、美をつかさどる大人向けの女神を下敷きにしていることは、あとから調べて知って愕然とした。
夢の由来はともかく、怜菜は有言実行の少女だった。テストでは常に一番を取り、スポーツでも仲間を引っ張り、学級委員長や日直の仕事も自発的に引き受け、どんな迷惑をこうむっても笑顔を絶やさない彼女は、その人柄とは裏腹に当時、ちょっぴり浮いていた。クラスの誰もが怜菜を尊敬、いや畏敬の目で見ていた。誰の助けも必要としない、正真正銘の高嶺の花になった怜菜には、かえって誰も迂闊に近づけなくなってしまったのだ。放課後の教室でひとり黙々と学級委員の仕事をこなし、学習塾に行くといって慌ただしく帰ってゆく怜菜のことが心配で、そのうち一緒に帰るようになった。そうして、あれから十年の時が流れた今も、ともに連れ立って家路を歩いている。
十一年前、みずからの夢に女神の名前を挙げたことを、彼女は覚えているだろうか。
もしも覚えているなら、何度でも言い聞かせなきゃいけないと思う。
幼馴染として、友達として、怜菜には孤高な女神であってほしくない──と。
けれどもその忠告が、努力家でひたむきな怜菜の十七年間の生き様を否定してしまうなら、それは里花子の本意じゃない。だからこれまでだって一度も言えなかった。代わりに怜菜のそばを離れず、彼女が無茶をしようとすれば横から手を出して助け、その生き様を支えてきた。そうこうしているうちに怜菜は親の経営するお嬢様学校の扉を叩き、成績トップの生徒会長として君臨し、身体つきも顔つきもいよいよ美しくなり、全校生徒の頼りにされる正真正銘の女神に成り果てつつある。挙げ句の果てには今日、生徒会の後輩に『人間じゃない』とまで言わしめた。
人間に戻ってきてよ、怜菜。
昔みたいに無邪気な夢を語り合おうよ。
そう願うことは、きっと里花子の傲慢だ。
里花子が祈っていいのは道中の無事だけ。──女神を志す怜菜の翼が、どうか途中で折れてしまわないように。疲れ果てた彼女が地の底まで堕ちてしまわないように。陽だまりの照らす教室で、沈黙の満たす生徒会室で、カラスの渡る帰り道で、里花子はいつも声を殺して祈り続けてきた。
車体に青と赤の帯を巻いた路線バスは、大きな交差点を右折して小岩大橋を渡り、新中川を跨いで走り出した。次は小岩駅、小岩駅と、自動の車内放送が案内している。SS07系統、通称「シャトル☆セブン」。環状七号線を利用して縦長の江戸川区内を縦断する、急行運転のシャトルバスだ。
「次のバス停で降りるのよね。起こさなきゃかしら、この子たち」
「まだいいよ。着くまで九分もかかる」
「それならゆっくり寝かせてあげられるな」
並んで座る後輩三人の姿をうかがった怜菜が、そっと口元に微笑みを浮かべた。
悠紀も、瑛子も、麻希も、おのおののカバンを抱えたまま、互いにもたれかかって寝息を立てている。乗車してから寝落ちるのに数分もかからなかったあたり、よほどはしゃぎ疲れていたらしい。車窓を彩る優しい橙色の景色、線路から伝わる小刻みな揺らぎ、爽やかな汗の香り──。油断していると里花子まで意識を飛ばしてしまいそうだ。
「なんかもう、このまま解散でいいかもね。いまさら学校に戻ったってクタクタで仕事にならないだろうしさ。だいたい学校も閉まっちゃう」
呆れと疲れのない交ぜになった吐息を漏らしたら、「そうね」と怜菜もうなずいた。
とうとうまるっきり仕事も進まないまま、長い一日が終わろうとしている。けれども後輩どもはともかく、怜菜の普段の頑張りを考えれば、彼女に休息と気分転換を与えられただけでも上々だ。この海遊びの遂行こそが生徒会副会長に課せられた今日のミッションだったのだと、里花子は勝手に思い込むことにした。
ほっそりとした怜菜の指が悠紀の頬を撫ぜる。寝ぼけた悠紀が「ママ……」とつぶやいたのを里花子は聞き逃さなかった。この小生意気な後輩に対する切り札として、今の発言はしっかり覚えておかねばなるまい。スマートフォンを開いてメモ帳アプリに書きつけていたら、隣の怜菜もおもむろにスマートフォンを取り出した。
「地図アプリ?」
「学校までの道、検索しなきゃと思って」
「なんでそんなもん調べる必要あんの」
「私、方向音痴なのよ。いまだに学校の周りで迷うことがあるの」
そっちじゃない! ──里花子は今日一番のツッコミを無言でこなした。いや、常軌を逸した怜菜の方向音痴っぷりにも突っ込みたいところは多々ある。これまで三年間どうやって通学していたんだとか。しかし今、重要なのはそこではなかった。
「まさか今から学校に戻って仕事するつもり?」
「ええ。いろいろとやりかけのものを放置してしまったから。遊びに出たからって仕事しないわけにはいかないわ。生徒会長がだらしなかったら下の子たちにも示しがつかないし」
「待ってよ、もう午後六時だよ。着く頃には守衛さんが校門を閉めてるでしょ」
「校門の合鍵は持ってるから大丈夫よ」
「そういう問題じゃないってば! だいたい今から仕事に取り掛かったら何時までかかるか……」
「家族が迎えの車を回してくれるから心配ないわ。道に迷うこともないしね」
こんな場面で理事長令嬢パワーを発揮しないでほしい。顔をしかめた里花子は「ねぇ」と怜菜の腕にすがりついた。なんだか急に怜菜が恐ろしいものに思えてきた。あれだけ炎天下で遊び回って心身を使い果たしながら、それでもなお学校に戻ろうとする根性の強さ。底知れない完璧性の渇望。どれをとっても里花子では怜菜に及べない。その冷酷な現実を、里花子はまともに目の当たりにしてしまった。
「あのさ、冷静になりなよ。それはどうしても今日、これから頑張らなくちゃいけないこと? そこまで無理してやるべきことなの? そうじゃないでしょ?」
「期限が迫ってるわけじゃないわ。でも、自分で自分に課したノルマはあるの。半分以上も積み残した状態で家になんて帰れない。自分との約束も満足に守れない人間が、他人との約束を守れるはずがないでしょう?」
弩級の正論を叩きつけられた里花子は黙り込むしかなかった。
首元に手をやった怜菜が、汗のにじんだうなじをそっと指で拭う。水着姿の時は後ろ髪をポニーテールにしていたおかげで、彼女の首元は珍しくガラ空きだった。着替えとともに襟足はふたたび黒い長髪でおおわれてしまい、もはや里花子の手では触れられない。怜菜の魅せる美しさの核心が、あまりにも深い慈悲と覚悟の核心が、あの場所に隠されている。ずっと前から里花子にはそう思えてならなかった。そこが里花子の指では決して触れられない不可侵の聖域であることも、同じくらい前から分かっていた。
「里花子は先に帰ってくれていいわ。無理して付き合ってもらったら悪いもの」
「でも……」
「地図アプリがあるから道にも迷わないし」
スマートフォンを掲げた怜菜が口角を上げる。まさか、これまでは私と一緒に登下校してたから迷わなかっただけなのか──。呆れ果てた里花子はいつものツッコミを発することもできなかった。
代わりに、いつか怜菜がヴィーナスになりたいと語った日のことを思い出した。
あらゆる感情を押し潰して描いたような笑顔で、怜菜は静かに地図アプリを眺めている。記憶の中の怜菜は今とは違う笑い方をしていた。背負うものなんて何もない、未来への希望にあふれた軽やかな笑顔だった。学力も、運動能力も、美貌も、地位も、当時の怜菜と今の怜菜では比較にさえならない。けれどもあの頃の怜菜の方が、もっと女神みたいな笑顔をしていた気がする。
「……あのさ」
「なに?」
「ずっと聞きたかったんだけど。……怜菜はさ、何を怖がってるの」
流れゆく車窓の景色に心を委ねながら、里花子は静かに尋ねた。問いただす好機は今しかないと思った。
問われたことの意味が分からなかったみたいに怜菜がこちらを見た。
「答えてくれなくてもいいよ。なんとなく想像つくから。大人にならなきゃっていうプレッシャーとか、周囲からの重たい期待とか、自分の理想像とのギャップとか、きっとそんなところだよね」
「……そうね」
「図星?」
「怖いのかもしれない。失望されたり見限られたりして、私の存在価値がなくなってしまうのが。だけどそれは大きな期待の裏返しだし、私にはその期待に応える義務があると思ってるわ。里花子になら理由も想像つくでしょう?」
「女神をこころざす人は言うことが違うね……」
投げやりにぼやいた途端、怜菜が真っ赤な顔で里花子を見た。思わず里花子まで「え」と狼狽した。
「やっぱ覚えてたの?」
「当たり前じゃない! もう忘れて! 私の唯一の汚点なの! 黒歴史なの! いまだにお母さまにもからかわれるんだから!」
彼女の両手にぐらぐら揺さぶられ、怜菜は膨らんできた笑いを噛み砕くのに躍起になった。思わぬウィークポイントを発見したものだと思った。今後、怜菜が言うことを聞かずに無茶を始めたら、耳元に「ヴィーナス」とささやいてやろう。悪魔と罵られたって構うものか。女神の暴走に抗うためなら、鬼や悪魔にだってなってやる。
「ひとつ教えてあげようか、女神様」
いたずら心のままに話しかけたら、怜菜は両手に顔を埋めたまま、縦にも横にも首を振った。その所作がちょっぴり可愛らしかったものだから、里花子は肩の力を抜いて、苦笑して、怜菜にもたれかかった。
「女神様ってのは何もしなくても慕われるんだからね。神様なんだから当たり前でしょ。歴代の神様が好き勝手に暮らして、世の中にたくさん迷惑をかけたことなんか、神話や聖書を読み返せばいくらでも書いてある。それでも人々が女神への敬愛を忘れるわけじゃない」
「…………」
「仕事ができるから、勉強ができるから、運動が得意だから、ご尊顔がお美しいから……そんな表面的な理由で怜菜に近寄ってくる連中のことなんか、適当にあしらって失望させちゃえばいいんだよ。本当に怜菜のことを大切に思ってる人は、ちょっとやそっとのことじゃ簡単に離れていかない。そういう人の中では、怜菜は永遠に女神様のまま。そうじゃないの?」
もちろん、私も。
なんて付け加えたら負担になるから、言わない。
代わりに里花子は笑い飛ばしてやるのだ。大人にならねばならない、立派にならねばならないと声高に叫んで怜菜を追い詰める、無数の外圧を。
「今日、一緒に海に行ってみてさ、ちょっと安心したんだ。怜菜にも年相応の少女な部分があるんだなってこと、少しだけ垣間見れたから」
「……そんなにはしたなかったかしら」
「はしたなくなんてないよ。むしろ、忘れないでほしいなって思うくらい。日頃の頑張りすぎな怜菜を見てるぶん、余計にそう思う」
「でも……」
「そんなに生き急いで大人にならないでよ。私たちはまだ、子供のままでいていいんだから」
里花子は上目遣いに怜菜を見た。頬を染めた怜菜はそっぽを向いてしまった。それでいい、と里花子は思った。見栄で照れを隠してしまう大人より、素直に赤らんでくれる人の方が美しい。
大人と子供の端境期を生きる里花子たちは、いずれ嫌でも大人になるための選択肢を選ばされる。いつか来るべき選択の日までは、いや──たとえそれを過ぎてしまっても、透き通った水のような子供心を忘れたくない。忘れないでほしい。たまには大人ぶることを忘れて、思いっきり羽を伸ばす日があってもいい。恐れることなんて何もないのだ。無理をしなくとも大人らしく振る舞えるようになれたなら、そのとき里花子たちはきっと、正真正銘の大人になっている。
「……里花子が言うなら、そうしようかしら」
決してこちらは見てくれないまま、怜菜が静かにつぶやいた。
ああ、やっと言えた。ずっと言ってやりたかった。つかえていた想いがするすると喉を抜け出して、夕陽色の窓際に優しい匂いを漂わせながら滞留する。そっと里花子が笑い返したところで、バスはゆるやかな右カーブを曲がり始めた。行く手に小岩駅前の高層ビル群が伺える。マイクを口元へ持っていった運転手が、終点の接近を声高に告げる。もはや車窓に海の景色は見えない。見慣れた建物の無数に連なる日常の世界へ、里花子たちは戻ってきた。
「んー……」
目をこすりこすり、悠紀が顔を上げた。
そうして惚けた顔のまま、怜菜と里花子のあいだを何度も見交わした。
「……なんか話してましたか、先輩たち」
「寝ぼけて生徒会長をママって呼んじゃう可愛い甲和女子生徒会庶務の話はしてないから心配しなくていいよ」
「なっ────!?」
悠紀は爪の先までピンク色に染まった。
「秘密に決まってるわね」
「うん。秘密」
もそもそと起き出した残りの後輩を伺いつつ、怜菜と向かい合って、交わした約束のありかを確かめる。いつもの挨拶のくせで、そっと怜菜が手を挙げた。里花子も右手を開いて掲げた。触れ合った手のひらが無邪気な音を弾けさせて、ほのかな潮と、心地よい汗の匂いが立った。
忙しないバカンスの一日が終わった。
真夏の陽が西空に沈んでゆく。
日に焼けて少しだけ大きくなった、令嬢たちの長い影を引きながら。
……コロナ禍で外遊びができない鬱憤を晴らすために書いた短編ですが、読んでくれた方が少しでも夏の陽気に浸ってもらえたなら作者としては感無量です。たまに書くコメディくらい楽しいものってないですね。
あと可愛い子は至高。
性別も年齢も問いません。
異論は認めます。
感想お待ちしています
■2021/8/22
蒼原悠




