第九話:樫の木
「なにがあろうと最後までいっしょだって言った。夕闇がおとずれ、たとえ道にまよっても、と。木が生い茂る山のなか、ほそく、ながい道を歩いていた。とても寒かった。俺はコートの上から毛布をかぶっていた。雪が積もっていて、肩を並べて歩こうって言った。歩調を合わせて、たがいの呼吸が聞こえるようにって。だけど、どうしても、知らず知らずのうちに差がつくんだ。親父の方が歩くのがはやかったからね。親父は若くて、俺はいまよりちょっと若いくらい。足のながさや体格に差はないはずなのに、それでも、親父だからだろうな、『父さん!』って俺は叫んだ。『待ってくれよ』と。親父は立ち止まり、帽子をこう、ちょっとあげて、俺の方を見た。山のなかは暗く、親父の顔はよく見えなかった。帽子のつばに雪がすこし積もっていて、それが落ちて行くのが見えた。『下を見ろ!』親父は言った。『俺の足あとの上を歩け』って。『この先にでかい樫の木があるはずだ』そこで待ってるって、『そこで焚き火でもしよう』それだけ言って、また前を向いて歩き始めた。そこで俺は、これが夢だって気付いた。でなきゃ親父が、俺よりあんなに若いはずがないからな。なにがあろうと最後までいっしょだって言った。夜がおとずれ、たとえ道にまよっても、どっちかが遅れたら、どっちかがその先で待っていようって。俺には確信があった。きっとこの先にはでかい樫の木があって、そこで親父は待っていてくれる。ほそい道だったよ。ほそくて、暗くて、曲がりくねった道だったんだよ、先生。そうして、雪はまだまだ降っ――」
とここで男は言葉につまった。しばらくの間沈黙が続き、
「それで?」と先生が訊いた。
「それで?」男は答えた。「そこで、目が覚めたんです」
*
白石孝雄の父親は溶接工だった。大きな工場に勤めていて、そこでしか作れない製品の溶接なんかもよくやった。腕のよい職人だった――と書いてもいいのだろうが、そのころ、その工場には、腕のよい職人は他にもいたし、本当に腕のよい職人は自らそんなことは言わない。まわりにも言わせない。なので、孝雄や孝雄の母親はそのことを知らなかった。父親は毎朝、同じようなシャツを着て、同じような足取りで工場に向かった。ポケットに昼飯用の小銭を数百円入れて。事務や現場でも若い人たちの中には、作業着を着て出勤するような者もいたが、孝雄の父親は、決してそれをしなかった。汚れた服で町を歩くことは失礼なことだと考えていたし、そんなことをすれば、途端に溶接の腕が落ちるだろうと考えていたからだった。自分の仕事に外部からのものがはいって来るような隙を作りたくなかったということもあった。彼は毎朝、工場のロッカールームでその日の作業着に着替えた。彼の作業着は、その工場の誰のものよりも汚れていなかった。
孝雄の父親は、酒もたばこも遊びもやらなかった。もちろん付き合いで飲みに行くこともあったが、そんな時でもビールかチューハイを一杯だけ、チビチビチビと飲んでは、他のひとの話ににこっと笑って応えるだけだった。たまにはマイクを向けられることもあったが、そんな時には古いフォークソングを、かなり独特な節回しで歌って、困った顔をするだけだった。彼は、大変な音痴でもあった。
孝雄の父親は、口には出さなかったが、家族のことを大変に愛していた。特に彼の妻のことを。しかし、彼女の目には、彼はとても退屈な男に見えた。若い頃には、そんな彼の無骨さがすてきに見えたこともあったが、年を重ねるに連れ、生活の塵が積もり続けて行くに連れ、彼があまりに見慣れた風景になって行くに連れ、そんな彼の無骨さ、愛情表現の希薄さが、彼女の息を苦しくさせたのかも知れなかった。
孝雄が、小学校を卒業する年に両親は離婚。父と母どちらについて行くのか、その判断は孝雄本人に任せられたが、「母さんには」という父親の言葉で彼は、父親と離れることを決めた。「母さんにはお前が必要だ」ポツリと父は、息子に言った。
*
「先週も親父の夢を見た。俺はすっかり子どもにもどっていた。例のほそい山道を歩いていた。いや、ちょっと進んでいた。のぼりがすこしきつくなって、雪も止んでいたからね。暗闇が濃くなって、親父の足あとも、よく見えなくなっていた。暗闇を歩いた。かぶっていた毛布を捨てた。木々の間を幽霊みたいな風が通り過ぎた。俺は走り出したかったが、走り出せば途端に親父の足あとを見失う気がした。ゆっくり、一歩ずつ、地面の下の悪魔に気付かれないように、これ以上道が崩れないようにと、そのほそい山道を歩いた」
ふう。
とここで白石孝雄は呼吸を置いた。手にしたハーブティーを、慣れない感じでひと口飲んだ。乾いた風が療法室の窓を叩いた。彼はそちらに目をやって、なんの考えもないままに、もう一度ハーブティーを口に運んだ。目の前の先生を見た。彼女は彼女で、なんだかよく分からない顔でこちらを見ていた。ほほ笑んでいたのかも知れないし、ただただ、話の続きを聴きたかったのかも知れない。
トントントントントン。
と、まるで誰かが窓を叩くかのように、乾いた風が窓を叩いた。彼らはそれをまったく無視した。孝雄は続けた。
*
「坂をのぼり切ると、そこはすっかり夜の中だった。たしかに樫の木は立っていた。大きなのが一本。道はずれに。きっとその辺の白樺よりも、十倍も二十倍も長生きしてそうなのが、不格好に、節くれだらけの巨大な手を、左右非対称に広げて、こちらを向いて、まるで俺をバカにするように、まるで俺に怒りをぶつけようとでもするかのように。いくつもの樹の皮が、傷つき、剥がれかけた樹の皮が、痛々しく、まるで俺を責め立ててくるかのようだった。おそろしくなって俺は親父を探した。いや、はっきり『父さん!』と叫んだ。『どこに行ったの?! 父さん!』と。しかし、返事はなかった。樫の木がこちらを見ていた。まるで俺たちの希望や欺瞞や勝手気ままを見透かし、絶対それらを信じない、認めないとでも言うかのように。『父さん!』もういちど俺は叫んだ。『なにか言ってよ! 父さん!』と。右の腕が痛んだ。いったいどこでついたのだろうか、いばらかなにかが俺の服をやぶり、そこに傷を付けていた。血が流れていた。怖くなって俺はそこから逃げ出した。夜の闇の中を、走って、走って、走り続けた。川が見えて来た。どうしてあんな暗闇で川があると分かったんだろう? でも、たしかに川はあった。親父が立っていた。『父さん!』もういちど俺は親父を――」
ここで突然、白石孝雄は口を閉ざした。ふたたび。しばらくの間沈黙が続き、
「それで?」と先生が訊いた。
「それで?」白石孝雄は答えた。「そこで、目が覚めたんです」
*
妻子と別れてからも孝雄の父親は、毎朝、同じような時間に起き、同じようなシャツを着て、同じような足取りで工場に向かった。昼飯用の小銭をポケットに入れることも忘れなかった。毎朝、工場のロッカールームでその日の作業着に着替えた。彼の作業着はずっと、工場の誰のものよりも汚れていなかった。妻子と別れたからといって、酒やたばこや遊びを始めるような男でもなかった。たまにマイクを向けられても、音痴な歌を、皆に一曲聞かせるだけだった。
一度、いや、正確には二度、再婚話が持ち上がったこともあった。一度は会社の同僚から、一度は飲み屋のオーナーから。しかし彼は、そのどちらの紹介も断った。あいまいな、答えにもならないような言葉で。
ひょっとすると彼は、自分の仕事や、こころの大事な領域に、なにか別のものがはいって来る隙を作りたくなかっただけかも知れないが、そう言えば、このころ一度、若い職人を激しく叱りつける彼の姿が目撃されている。大変基礎的な安全手順を飛ばしたとかなんとか、若い職人も反省し、それ以上のことにはならなかったが、それでも、「あんな**さんはじめてみたよ」という同僚の言葉が残されている。
*
「目が覚めてから会社に連絡を入れた。休ませて欲しいって。有休ならいくらでも残っているからって。シャワーを浴びて、服を着替えて、親父の家の住所を確かめた。この三十年、向かったこともない場所だ。敢えて地図から消しておいた場所だ。小さな、古ぼけた家だった。道の反対側の、適当な場所に車をとめた。道を渡るか渡らないかで三十分は悩んだ。いや、ひょっとすると三分くらいだったかも。で、とにかくブザーを鳴らした。親父は待っていてくれるはずだ。『はい? どちらさま?』若い女の声がした。いや、親父は待っていてくれるはずだ。俺は自分が誰で、どうしてここに来たのかを彼女に伝えた。扉を開けて彼女は言った。『ごめんなさい』とても困った顔をしていた。『でも私たち、ここには十年以上前から住んでいるんです』」
ここで突然、白石孝雄の告白は終わった。しばらくの間沈黙が続いたが、それでも何故か、
「それで?」と先生は訊いた。
「それで?」白石孝雄は訊き返した。「それで――?」
*
『だれもが永遠の愛を夢見ている。
これこそ真実っていう名の愛を。
だけどこの世界の残酷さを、
ぼくらは知ってしまった。
足あとをのこしておこう。
互いの姿が見えるように。
なにがあろうと最後までいっしょだ。
夜がおとずれ、たとえ道に迷っても、
どちらかが遅れたら、
どちらかがそのさきで待っていよう。』
*
「わるいことが起きて」先生は言った。「それをやり直そうとしてるんですよね?」と。「何かうまくいかないことがあって、それを修復しようと、どうにかして正しい道に戻そうと、あなたはそう、考えているんですよね?」先生は続けた。「だから何度も、そこにもどってしまうんですよね?」
孝雄は考え、なにか反論出来ないかとも想ったが、どうにも無理なような気がした。彼女の言っていることは、まさしく本当のことだった。孝雄は答えた。「はい。まさにその通りです」
「でもね、白石さん」大丈夫、と彼女は言った。「でも、それは、きっと出来ないことなんですよ」
*
クリニックからの帰り道、白石孝雄は、妙な既視感に襲われた。車の窓越しに、道の右側を見た。「ここは?」彼は想った。「そうだここは」
しばらく進み、適当な場所で車をUターンさせた。それは、夢でみたあの山だった。道のこちら側に車を停めた。冬は過ぎ去り、外はまさにいまが花の盛り。彼は車を下り、ひとり、山の中へとはいった。ほそく、明るい、曲がりくねった道があった。雪もなければ、当然足あともなかったが、それでも彼には進むべき道、のぼるべき場所が分かった。彼はひとりではなかった。すくなくとも、きっとこの先で誰かが待っていてくれる、そんな無謀な確信が、彼にはあった。いばらか木の枝か、なにかが彼の腕を切ったが、彼はそれを気にしなかった。夜がおとずれ、たとえ道に迷っても、どちらかが遅れたら、どちらかがそのさきで待っていよう。そう約束したではないか。
坂をのぼり、あたりを見まわした。道のはずれに大きな樫の木が一本。いまもしっかり、そこに立っていた。が、しかし孝雄は、最初それを、あの樫の木だとは気付けなかった。気付けず、ただただそれを、感嘆の眼差しで見上げていた。なぜならそれは、すっかり変貌し、瑞々しいみどりの葉を天空いっぱいに広げていたから。左右非対称な、節くれだらけだったあの両手から、いくつもの若い芽を生み出していたから。
孝雄は、驚いた顔のまま、樫の木を見上げ、そのまわりを歩いた。途中、なにかにつまづき、樫の木の幹に寄りかかった。それは、誰かが燃やした、焚き火のあとだった。突然、すべてのことが、すべての夢が、彼の中でひとつながりにつながった。そうだよ、父さん。想い出を、怒りに変えてはならない。
「よお」誰かが言った。「おそかったじゃないか」
(おしまい)




