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第八話:あの日僕はついに、愛の謎が解けていたんだろう

 片井巧は、自動車整備には詳しかったが、その他のことはあまり知らないまぬけな男で、なので当然、女心なんていう奇妙奇天烈不可思議怪奇なものの前では、彼のそのまぬけさ加減はより一層鮮明なものになったし、おかげでいま彼は、自分で整備したふるいタイプのホンダ・シビックに乗って、北へ向かう高速道路を時速160kmでかっ飛ばしているところだった。


 時間は早朝、燃料は満タン、左をみると工業地帯、右をみると水平線に、朝のひかりがきらきらくるくる輝いていた。


 グローブボックスに手を伸ばしてサングラスを探した。いつか彼女に笑われたやつだが、CDだけしか出て来ない。仕方がないのでラジオをつけた。さんさんとなびくひかりに、ほんのすこしだけブルース。


『魔法を信じるかい?』背広姿のロックスターが歌っていた。ああ、そうだな、もしもほんとにあるんならな、巧は想った。ぜひとも信じてみたいもんだね、こんちくしょう!


     *


 一宮千里は、東北地方の出身で、関東には進学のために出て来た。息をのむほどの美人――とは到底言い難かったが、顔のパーツのひとつひとつはとても美しく、黒目がちな瞳にちょっと太めな眉、ぽってりとして肉厚な唇なんかは、なんとかって大河にも出たことがあるなんとかって女優にそっくり――とは言わないまでも、「あー、どことなく似てますね」と言われるほどには印象的な感じで、つまり彼女は、普通にとってもクールで魅力的な顔立ちをしていたし、そこに加えて笑うと一転、「あっはははは」とまるで無邪気な少女のような笑顔を見せるので、それってつまりは、出会ったばかりの片井巧を、そのハートを、鷲づかみに鷲づかむには、十分すぎるほどに十分な魅力を彼女は持っていた、という意味でもあった。


     *


 ロックンロールが鳴り止んで、すてきな声のアナウンサーが「趣味の園芸のお時間です」と言い始めた。「本日はここ、※※市ガーデニングクラブから生中継です」とか、「ここのクラブでは港で残った小魚を肥料に」とか、「花に囲まれた※※市は子育てにもぴったり」とかなんとか。


 片井巧はふたたびグローブボックスに手を伸ばした。時代遅れのCDでも構わねえや、古くて新しけりゃフォークソングだ。そうだよな、デイブ、たしかにそうだったよな。カツッ。なにかが手に当たった。


 探していたサングラスだった。片井巧は口ぶえを吹いた。どうせ行くなら、カッコつけて行こう。


     *


 巧が恋に落ちてから、こまったことに、一宮千里も恋に落ちた。「こまったことに」と書いたのは、彼女がまだまだ学生で、彼もまだまだ駆け出しの整備士だったからだ。友人に「将来のこと考えてるか?」って訊くと、「おまえ将来あんのかよ?」って返されるほどに、彼らの前途は茫洋で、彼らの未来、彼らの波の行きつく先は、多様で多難で茫洋で、それはあまりにボーヨーボーヨーに過ぎた――と書いて済ませられれば少しはカッコも付くのだが、あなたも経験しただろう、あの若者特有の、未来の未知性/過去の既知性、それらがもたらす恐れや怖れや畏れを無視して進む衝動、恐れや怖れの欠如がもたらすあの衝動、きっと俺たちふたりなら、いつでも歩き出せるだろう、という根拠のない楽観主義。それが彼らを突き動かした――と書いてもいまいちピンと来ないだろうから、ザクッと書くと、つまりは彼らは付き合って、同棲をして、まあ、その、年相応のなんやかんやを経験してから、千里の妊娠が発覚したのである。


     *


 二台のトラックが積み荷を道路にぶちまけていた。どうやらひとつはパン生地で、どうやらひとつは茶色いまだらの鳥だった。20cmほどの。いったい何が起きたのか? そいつはまさに、警察官が調べているところだったが、どうやら局所的な大雨が降ったとかで、路面はすっかり濡れていた。巧もいきおい速度を落とし、小さな渋滞に車を並べた。どうやら彼の行く先は、曇天模様に変わろうとしていた。


     *


 健康保険が利かないことを、そのとき巧ははじめて知った。自由診療、自己負担。巧の親には借りられないし、千里は千里で、田舎の親に相談出来ない。初診料から術前検査、手術費用や術後検診もろもろ含めて10万ちょっと。彼や彼女の未来を考え、結局ふたりは堕ろすことにした。費用は巧がかき集めたが、「ごめん、ひとりで行かせて」という千里の言葉を尊重して、手術当日、クリニックには彼女ひとりで行った。幸い――という言葉は使いたくないが――妊娠初期の中絶手術で、日帰りで済むと聞かされていた。「手術が終わってひと息着いたら、すぐにメールを送るから」そう、彼は彼女に聞かされていた。


     *


 頭上の電光掲示板が西向き道路の閉鎖を伝えていた。即席で並べられたオレンジ色の三角コーンが北行きのドライバーに高速から降りるよう指示していた。速度を落とせ、とかなんとか。


 巧は、カーナビの地図を見て、舌打ちをして、パトカーの数と警察官の数を数えた。追い越し車線はがらがらだ。車軸をながすような雨? 次のインターまでなら大丈夫だろ? 巧はいきなりバックして、うしろのレクサスにぶつかりそうになった。ブヨとかアブみたいなおっさんが、おどろきクラクションを鳴らしたが、彼はそれを完全無視した。追い越し車線に飛び出して、想いっ切りアクセルを踏んだ。どうどうどうどう。道路の下をものすごい勢いで川が流れるのが見えた。まるで水が血のようだった。大量のカエルが陸へとあがるのが見えた。ライトを点け、カスタムしといたフォグランプも点けた。前後とも。クラクションを鳴らし、それからさらにアクセルを踏んだ。


     *


 結局あの日、千里からのメールは来なかった。やわらかい月がのぼっていた。巧はいくつか電話をかけたが、もちろん彼女は出なかった。何度も鳴らしてみたけれど、最後はそのまま着信拒否。メールもメッセもSNSでも、彼女に連絡するどころか、彼女の動向すら分からなくなった。しばらくしてから偶然、彼女の女ともだちと会った。彼女は千里の妊娠を知らなかった。その子は、「あの子、実家に帰ったわよ」と巧を非難するような目つきで言った。


     *


 大雨警戒の合間を縫って、ラジオが音楽を流した。『あの日ぼくはなにか、ヘマをしでかしていたんだろう』? 知ってるよ、おっさん。俺はただのまぬけ野郎だ。


     *


 街から千里が消えてしばらく、妙に忙しい時期が続いた。夏なのに雹が降ったり、大雨で冠水した車が何台も持ち込まれたり、疫病かなんかで鶏肉の値段が妙に上がったり、社長の顔にでっかい腫れ物が出来たり。おかげで巧は、仕事や日常の忙しさを言い訳に彼女のことを忘れることが出来た。深夜、洗面台の前にひとり立って、なみだをながすことなんかはあったけど。『あの日ぼくは何故か、素直なことばが言えなかった』? うっせえな、おっさん。俺はほんとは! 子どもが! 欲しかったんだよ! ちくしょうっ!


     *


 そこでも雹は降っていた。大雨に混じって。巧のシビックを容赦なく襲った。ボンネットにへこみが出来るくらい大きなものすらあった。ヘッドライトが割れるかも知れない。タイヤのハブキャップはもうないだろう。暗闇がやって来た。道路の上には彼と彼のシビックしかいなかった。ずっと向こうの田園地帯を、黒い何かが横切って行くのが見えた。イナゴの群れ? 巧は、ごしごしごしと両目をこすった。視界はいよいよ見えなくなった。音が消え、まるで世界を丸三日間、雨と雹と暗闇が覆っているような気さえした。ラジオはもう聞こえない。グローブボックスに手を伸ばした。なんでもいい、趣味の悪いJポップだろうがなんだろうがなんでもいい、音楽をかけたい。


 ピカッ!


 と突然、大きな稲光がして、彼はそれらを床に落とした。ブレーキを踏もうとした。瞬間、


 ゴロゴロゴロゴロゴロゴロゴロ!


 と、大地を割るような雷鳴が遅れてやって来た。彼は、片井巧は、怒りをおぼえた。本物の怒りを。ふっざけんなよ! くそ野郎! と誰に聞かせるでもなく悪態を吐いた。アクセルを踏んだ。雨と雹と暗闇が彼と彼のシビックを包み込んだが知ったことか、彼はさらにアクセルを踏んだ。踏んで、踏んで、踏みまくった!


     *


 妙に忙しい時期が終わり、終わったと想ったら冬が来て、年が明けて、春が過ぎ去って行った。夏はほとんど記憶になかった。そうしてようやく秋が来て、巧は偶然、例のクリニックの医療事務員に声をかけられた。彼女は、ブレーキランプが壊れたとかで、巧の工場を訪れていた。彼女は訊いた。


「一宮千里さんの彼氏さん? 旦那さま? ですよね?」あまりに突然のことに巧は固まってしまった。が、それに構わず彼女は続けた。


「やっぱり。いちど奥さまと来られてましたよね? 手術の件で、話を聞きに」固まった頭のまま巧は首を縦に振った。続けて彼女は訊いた。


「あのときのお金、どこにお返しすればよろしいでしょうか?」彼にはいったい、なんのことだか分からなかった。彼女は続けた。


「当日自分は来れないからって、前払いで現金置かれていかれたでしょ? で、奥さまにお返ししようとしたんですけど、会計処理が終わる前に奥さまもお帰りになられ――」


「ちょ、ちょっと待って下さい」ようやく巧は声を出した。「お金? 手術の? なんで? どうしてそれを返してもらう必要が?」


「え? それはもちろん」彼女、産婦人科クリニックの医療事務員は答えた。「結局手術はやめたのに、お金を頂くわけにはまいりませんよ」


     *


 雨が止み、暗闇は去っていた。ようやく巧は、ここまで来た。目の前のインターを降りれば、彼女の町まで……30km? どこか時間が狂っているような気もするが、夜明け前の海岸を横目に車の速度を落とした。ヘッドライトにこの土地の星空が映っていた。ラジオも戻っていた。


『魔法を信じるかい?』


 ああ、そうだな、信じるよ、おっさん。さんさんとなびく光に、ほんの少しだけブルース。


『あの日ぼくはついに、愛の謎が解けていたんだろう』


 片井巧は、ゆっくり窓をあけると、外の空気を車内に入れた。彼女の町まで……20km? こちらもゆっくり、ハンドルを切った。



(おしまい)

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