第六話:フランキー・ティアドロップ
交通課の巡査があきらを止めたとき、彼はしらふで、酒もクスリもやってはいなかった。止めた理由は、彼の車のブレーキランプが壊れていたのと、満月だけれど暗い夜道を、微妙に蛇行し、速度も気持ちはやかったからだった。
車の窓越しに巡査が話を聞いていると、あきらは突然ドアをあけ、外に飛び出して来た。当然巡査は身構えたが、そんな彼の動きは気にせず、気付かず、あきらは道ばたの、すこし大きな、平たい石に腰を下ろした。空を見上げると、そこには途方もなく大きな月が上っていた。
「水を」あきらは言った。胸がとても締め付けられて苦しい、そんな声だった。「水をいっぱいくれませんか? おまわりさん」
「いったいなにがあったんだ?」巡査は訊いた。パトカーの助手席に置いておいたペットボトルをあきらに渡した。
「家族を」あきらは答えた。しっかりとした体格の、二十代後半の若者だった。「ぼくは家族を、捜してるんです」
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露崎あきらは高校野球のピッチャーだった。彼の地元で、彼以上に速く、彼以上に精確なボールを投げられるピッチャーは他にいなかった。仮に時間を巻き戻して、あなたがバッターボックスに立ったとしても、当時の彼の速球には、かすることすら出来ないだろう。当時の彼の同級生たちは、相手の三振見たさに、こんなエールをよく送っていた。
『フレー、フレー、あきら!
フレー、フレー、あきら!』
しかし結局、彼は肘と膝を壊したし、壊れた肘と膝で野球関係の仕事に就けるほど彼の実家は太くなく、彼の地元も時代もゆるいものではなかった。彼が生まれ育った土地には大きく黒い川が流れていて、とおくには大きな工場が見えた。そこからこちらに向かって平野や小盆地、田園風景なんかは広がっていた。
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「すみません。もう行きます」ペットボトルを巡査に返しながら彼は言った。「家族を、家族を捜さないと」
「ああ、いや、待って、待って」車にもどろうとする彼を巡査は止めた。「そんな状態で行かせられないよ」と。「まずは免許証と車検証を見せて下さい」と。
「車検証?」あきらは聞き返した。
「言ったろ、ブレーキランプが壊れてるって」巡査は答えた。
車検証はグローブボックスに入っていたが、あきらは免許証を持っていなかった。と言うか、着の身着のまま、サイフもスマホも持ってはいなかった。白のTシャツに安物のジーパン、会社支給の安全靴を履いていた。あきらは言った。
「急いでたんです、すみません。みのがして下さいよ、おまわりさん」
ぼくは家族を捜してるんです。
ぼくは家族を、捜してるんです。
ぼくは、家族を、捜してるんです。
「そうは言ってもね、おにいさん」巡査は答えた。「車検証はディーラー名義だし、使用者欄は女のひとになってるし――なに? これが奥さん?」
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露崎はるかは高校ではテニス部に所属していた。これと言った成績をのこしたわけではないが、彼女のいた町では、彼女が一番の美人だと言われていた時期もあった。実際、何人もの男の子が彼女に愛を捧げては、彼女にハートを壊されていた。なぜならその頃、彼女が愛を捧げた相手は、露崎あきらただひとりだったから。当時の彼女も、彼にエールを送っていた。他の女ともだちと一緒に、
『フレー、フレー、あきら!
フレー、フレー、あきら!』
そうして結局、彼女は彼と結婚した。肘と膝を壊した彼、大きな工場には入れず、地元の自動車解体業者で働き始めた彼と。なぜなら、彼女は彼女でこの地にふかく縛られていたし、彼らはわかく、“オール・ユー・ニード・イズ・ラブ”。愛さえあればどんな困難でも乗り越えられると簡単に考えていたからである。厳しい時代が去ってはまた来る、こんな時代と世界であっても、と。
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「こまったなあ、どっちも出ないよ」と、交通課の巡査は言った。「あんたの携帯も、奥さんの携帯も」
依然として道は暗かったが、こちらを向く彼のうしろ、フロントガラスのずうっと先では、途方もなく大きな月がのぼったままになっていた。すこし左に目をやれば、例の大きな工場の、いまだ働く人々の灯りが見えた。巡査が訊いた。
「奥さんのご実家にもどってるとかはないの?」と、パトカーの後部座席に座るあきらに、「お子さんも小さいんでしょ? そんな遠くに行けるものでもないんじゃないの?」
あきらは無言で、ちいさく首を横にふった。ぼくは家族を捜してるんです。と誰にも聞こえない声でつぶやいた。ぼくは家族を捜してるんです。と、まるでなにかの懺悔か祈りか念仏のように。ぼくは家族を、捜してるんです。と、まるで歌でもくちずさむかのように。
フロントガラスの先の先を、二匹の白い蝶が月へとのぼって行くのが見えた。
「うーん? こまったなあ」巡査がつぶやきふり向いた。二匹の蝶は、ふつ。と消えて見えなくなった。
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はるかと結ばれ、冗談のように慎ましい生活が始まった。あきらは必死で働いた。重機の扱いにも慣れたし、ガス切断やアーク溶接の技術も学んだ。三級の整備士資格も取ったし、もう少し頑張れば、二級の試験を受けることも可能だろう。がしかし、ただ、この頃になると、
『フレー、フレー、あきら!
フレー、フレー、あきら!』
と、彼にエールを送るものはいなくなっていた。しょせん仕事は仕事だし、みんながみんな生活に苦しく、みんながみんな、人生に忙しくなっていたからである。必死で稼いだその給料も、(まるで泥棒のような)国家に取られていたからである。妻のはるかも妊娠し、彼にエールを送る余裕をなくしていたからである。
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「それじゃあ、そうだね、旦那さん」と、交通課の巡査は続けた。「そしたらいちど、お宅に戻ってみましょうよ。送って行きますから、わたし」
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あきらの父親は三十年働いた工場を首になった。技術はあるし、からだも動く。やる気だって人一倍あるが、どこも彼を雇ってはくれなかった。年齢を理由に門前払いを喰らわされていた。いまでは彼は、ポツンとひとり、公園のベンチに座っている。彼にはあきらのような輝かしい時代はなかった。いや、この国にそんな時代はなかった。あったと想っているやつらは、ただただ、この父親のような人々を食い物にしては目を閉じ耳をふさいで来ただけだった。彼にとって息子は希望だった。新たなる希望? いまでも彼は、ポツンとひとり、こうつぶやく。
『フレー、フレー、あきら!
フレー、フレー、あきら!』
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その日の朝、あきらは夜勤明けの重たい身体で家にもどって来た。ベビーベッドには生まれて半年の我が子がねむっていた。はるかは、きっと育児疲れだろう、ちかくのソファで泥のようにねむっていた。点けっぱなしのテレビには、女の顔の悪魔がひとり、うすら笑いで映ってた。
ぷつ。とテレビを消すとあきらは、息子にもはるかにもなにも言わず、ただいまも言わず、ただただ彼らの顔を見るのもしのびなく、奥の部屋へと入っていった。そのままひとり、倒れるようにねむっていった。
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「ついてますね、電気」交通課の巡査は言った。「台所? だけですけど。帰ってるんじゃないですか? 奥さん」
巡査はパトカーを降り、後部座席のあきらにも降りるよううながした。が、あきらはただただうつむくだけで、降りる気配はなかった。仕方がないので巡査は、パトカーのカギを確認すると、
「そしたらちょっとね」と、あきらの家へと向かって行った。「おうちのようす見て来ますから、わたし。奥さんいたら、旦那さんも降りて来て下さいよ」
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赤ん坊の泣き声に目をさますと、寝室の窓一杯に、晩い秋の夕日はさしていた。さあ、みんなもあきらにエールを送ろう。
彼は結婚をしていた。彼は膝と肘を壊していた。半年前には子供も生まれていた。精一杯働いていた。汗をながし、ほこりにまみれ、朝から晩まで、晩から朝まで、ただただ生き延びようと頑張っていた。どうした? エールが足りないよ。さあ、みんなもあきらにエールを送ろう。
彼は必死で生き延びようとしていた。しかし、それはあまりにも難しいゲームだった。なにもかもが辛すぎた。彼は十分な金を稼げず、十分な食料を買えず、家賃はいつまで払えるか分からなかった。公園のベンチに座る父親の姿を想い出した。さあさあ、どうした! みんな! 彼に! エールを! 送ってやれよ!
『フレー、フレー、あきら!
フレー、フレー、あきら!』
たしかに彼には子どもがいた。愛する奥さまもいた。しかし、彼が持つ唯一のものが、彼をもっとも悩ませてもいた。秋も終わりに近い、とてもきれいな、夕暮れのことだった。
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「すまない。すぐに応援をよこしてくれ」交通課の巡査は言った。声をひそめて、警察無線に、「絞殺された遺体がふたつ。二十代の女性と、たぶん彼女の赤ん坊だ」
ベビーベッドにはあきらの息子が、目を閉じ、眠っているように見えた。ちかくのソファでははるかが、まるで泥のように横になっているのが見えた。どこからかエールが聞こえた。
『フレー、フレー、あきら!
フレー、フレー、あきら!』
交通課の巡査は、急に息苦しくなると、家の外へと飛び出した。夜道は暗いままだったが、その道の先には途方もなく大きな月がのぼっていた。ふと我に返りパトカーの後部座席を見た。あきらはいなくなっていた。道の先の先では、さきほどあきらが見たのとはちがう、一匹のしろい蝶が、ゆっくり月へと、のぼって行くのが見えた。
(おしまい)




