第五話:洪水に流されて
『正気を戦場に置き忘れたのか?
それとも洪水に流されたのか?』
堀井丈一郎はまじめで、優秀な警察官で、そうしてなにより家族想いのやさしい兄だった。
彼の所属は、警視庁第※方面本部**警察署。今回のお話は、彼がそこの**交番に勤務していたころのお話で、そのころ彼は巡査長になったばかりだった。
彼には瑛二郎という名の弟が――とその前に。先にお断りしておくが、ふたりの名前はもちろん仮名で、以下の話もわたしが彼から直接聞いた伝聞である。もちろん、事実に即して、出来得る限りの忠実な再現を試みはするが、こまかい部分での瑕疵や、私の技術不足による誤解を招く表現や誇張、あるいは、話の整合を取るために行なった少々強引な省略、場面転換などが見られることについては、どうかご容赦頂きたい。
また、今回の主役である堀井丈一郎(仮名)は、先ほども書いたとおり、大変まじめで、これまでもそうしてこれからも、出来得る限り正直に生きていくであろう青年で、今回お話する中に、なにか警察官として問題があるような内容が含まれていたとしても、けっして、彼の本名を検索したり詮索したり、ましてや彼の罪を糾弾するような言動や行動は是非とも慎んで頂ければと想う。なぜならそれこそが、死者に対する礼儀であるように、この作者には想われるからである――そう。彼にはひとりの弟がいた。
彼の名前は堀井瑛二郎といって、彼は、子どもの頃からごたごたの絶えない男だった。血の気が多く、情にもろく、口より先に手が出るようなタイプだった。
「五年前の秋でした」と彼、堀井丈一郎は私に話した――とは言っても、彼と交わしたこの会話も、すでに十年ちかく前のことなのだが、それでも――「ある晩、私は無線の連絡を受けたんです」と彼の話ははじまった。
*
無線は、駅前のアーケードで男たちがさわぎを起こしているというものでした。わたしは同僚とふたり、現場に向かいました。
現場に到着すると、どうやら相手は逃げたあとで、そこには彼が、弟の瑛二郎がひとり、地べたに下を向いて座っていました。甘ったるいアルコールのにおいと、左目には大きなあざが出来ていました。
*
周囲の状況や彼のケガの具合、それに、あきらかに人をなぐった拳の傷とシャツに付いた赤い染みなどから、「本来ならすぐにでもぶち込むところですが」彼は弟を見逃してしまったのだと言う。
*
もちろんあんなことはあれが一度きり――あ、いえ、たとえ一度きりでも、駄目なものは駄目だったと、いまではそう想っていますし、もちろんその後も何度か、その件――だけではないですが、弟ともっときちんと話をしようとしたのですが――、
*
それからしばらくして瑛二郎さんは東北へ、ボランティアとして被災地へ赴くようになり、彼ら兄弟の話し合いはついぞ持たれることがなかったと言う。
*
わたしの方は仕事もありましたし、正直ちょっとこわい気持ちもありましたので、ボランティアはもちろん、瑛二郎に会いにむこうに行くようなこともありませんでした。
*
彼ら兄弟には真理さんという幼なじみがいて、震災の数ヶ月後、前述の問題が起こる数ヶ月前、丈一郎さんは彼女に結婚を申し込み、所帯を持つことになった。
*
これがその頃の写真です。ドレスはもちろん借り物で、式も披露宴もかたちばかりの簡素なものでしたが、時期も時期でしたし、厳しい時代が過ぎてもまたやって来るだろうことは、私も真理もはだで感じてい――あ、これこれ、こっちの写真は同じころ、瑛二郎がむこうから送って来てくれた写真です。結婚式には出てくれませんでしたが、穴を掘ったり、がれきを片付けたり、なんだかすこし、楽しそうじゃありませんか?
*
しかし、丈一郎さんも言うように、厳しい時代は過ぎてもまたやって来る。絶望のふちに咲いた希望にも、いずれ守銭奴や政治家、運動家が群がりはじめて食い尽くす。ひとは歴史からなにも学ばないし、歴史は歴史で我々人類をそこから排除したがっている。きっとそれはもう手遅れなのだろう。いずれすべては、高速道路や駐車場、“ふたつの塔”へと作り替えられ、また壊される――ヴェリタス!
*
その後もあいつは、色んなところを行ったり来たり、感謝もされ、色んな人との縁もむすんで行ったようなのですが、最後の頃には――あ、いえ、べつに、あれをどうこう言うつもりもないんですが、必要な仕事ですし――それでも最後には、なにがどうなり、なにをどう想ったのか、あいつは、廃炉作業の現場で働くようになっていました。
*
が、しかし、それも、そこでの仕事も長続きはしなかったようで、結局彼、堀井瑛二郎は、2014年の暮れごろ、この街、彼らが生まれたこの街にもどって来たのだと言う。500マイルも彷徨い続けた旅人のように。駅前のアーケードで酔っ払いの浮浪者が彼に訊ねた。
『正気を戦場に置き忘れたのか?
それとも洪水に流されたのか?』
*
弟がもどって数ヶ月が過ぎたころでした。あいつは仕事が見つからず、そもそもあまり探さず、生活リズムも狂っていました。が、ただ、これと言った問題は起こしていませんでした。その日わたしは非番で、妻の病院が遅番だったので、ひとりで夕食を取りに外に出ました。歩道の桜がちらほらと咲き、ああ、そろそろ春なんだな、と考えたのを憶えています。帰り道で偶然、パトロール中の同僚に会いました。しばらく一緒に歩いていると、道端の酔っ払いが、「なあ、おい、おまわりさんたちよ」と我々に声をかけて来ました。続けて彼はこう言いました。
『あんたらあれが油に見えるか?
あれは血なんだ油じゃねえよ?』
同僚も私も彼の言っている意味が分からず、この酔っ払いをどうしようかと考えました。が、その結論が出る前に、同僚の無線に連絡がはいりました。たしか時間は、20時を15分ほど過ぎていたかと想います。同僚が言いました。「すまない。行かないと」防災公園近くの飲み屋で騒ぎがあったと言うのです。「何人か怪我人も出ているみたいだ」と。さっきの酔っ払いはすでにすがたを消していました。
*
それから丈一郎さんは、お酒も飲んでいなかったし、妙な胸騒ぎもおぼえたので、私服のまま、同僚の警察官と一緒に、問題の飲み屋へと向かった。
*
まず最初に見えたのは、二十歳くらいの女の子が、大きな声でなきじゃくっているところでした。彼女はどことなく妻に似ていました。それから、床に倒れた同い年くらいの男性。頭からの出血がひどく、意識もあるのかないのか、救急車の手配や、他に怪我人がいないかの確認をしていると、そこに昔からの友人が数人いることに気付きました。彼らは口々にこう言いました。「やったのは瑛二郎だ」――わたしは店を飛び出していました。
*
どうして彼が瑛二郎さんを見付けられたのかは不明だが、私の質問に丈一郎さんは、ただただ「兄弟だからでしょうか」とだけ答えていた。「あいつが線を、境界線を越えようとしたら引き戻してやる」それが兄弟というものだから、と。
*
川沿いの道を走ります。橋をわたって斜向かいのスーパーを見ました。弟がいました。青いシャツが赤い血で汚れていました。「瑛二郎!」と私は叫びました。と同時に、例の遊園地の花火があがりました。きっと夜のパレードが始まるのでしょう。その明かりであいつは私を見つけ、そうして走り出しました。
中央通りを南へと下って行きます。運送会社の建物が増えて来ます。子どもの頃、あいつとよくした追いかけっこを想い出しました。心臓が痛くなるくらいの速度で走ったのです。あんなにはやく走れるなんて想ってもいませんでした。目の前には湾岸道路と、そこを行き交う大量の車が見えました。あいつがこちらをふり返りました。「あぶない!」と、私は想いましたが、息が切れていて大きな声が出せませんでした。あいつは……たぶん、わらっていました。しずかに、ちいさく。直後、
ドンッ!
と大きな音がして、あいつが大きなトラックに弾き飛ばされるのが見えました。
*
このときの事故報告書と検死報告書は私も読ませてもらったが、このとき死亡したのは――それは歯型の記録で分かったそうだが――間違いなく瑛二郎さんご本人で、事故の状況についても――時間に三十分から一時間ほどの乖離が見られるものの――右で丈一郎さんが語ったとおりで間違いないようだった。
そうして、そこで、私は改めて彼にお悔やみを言うと、冷めてしまったコーヒーのお代わりを頼むかどうか彼に訊こうとして――、
*
それから一年ほど経った、今年の春のことです。私があいつに会ったのは。
*
そう丈一郎さんは言っ――すみません。いまなんて? 私は訊き返した。
「今年の春のことです」彼はくり返した。「たしか、三月最後の日曜でした。私があいつに会ったのは」
「あ、いえ」私は言った。ウェイトレスを呼ぼうと上げかけていた右手を下ろした。「“あいつに会った”? って、だれに?」
彼は答えた。「もちろん弟にです」と。それから、
「まあ、とは言っても、約束をして会ったわけではなく、家内と、真理と入った居酒屋に、あいつが後からはいって来たんですけどね。ほんと、まったく、偶然に」と。
私はしばらく、だまって彼の顔を見ていたのだが、「樫山さん、お代わりは?」という彼の言葉にハッとすると、「あ、はい、そうですね」と下ろしてしまった右手をあげ、その店のウェイトレスを呼んだ。彼は続けた。
「それがあいつ、すっかりたくましくなっていて、日にも焼けて、まあおかげで、私が子どものころに付けてしまった右目の傷、それが目立っちゃってましたけど、それも別にこわい感じもなく――」とかなんとか。
ウェイトレスが来て、彼はコーヒーを、私はカフェオレのお代わりを頼んだ。丈一郎さんの話は続いていた。
「それからあいつ、いまは仙台にいるとかで、いい会社に拾ってもらって、そこの社長さんにも奥さんにもよくしてもらっている、今日は仕事の関係で来たが、明日の朝にはまた戻らないといけない」とかなんとか、延々と。
コーヒーとカフェオレのお代わりが届き、耐え切れなくて私は訊いた。「フクイチへは?」
「ああ、それもですね」彼は答えた。目も合わせずほほ笑んで、「あいつ、廃炉作業だなんてウソ吐いてたんですよ。おもしろくもない、不謹慎なウソですけど。私や真理の手前、なんかやってる感じを出したかったんでしょうね」とかなんとか。
ふたたび私は、だまってしばらく彼の顔を見ていた。なにを、どのように訊けばいいのか分からなかった。どこからなにをどう見ても、彼がうそを吐いているようには想えなかった――それで?
「それで?」と私は彼に訊いた。まるで口から自然に息がもれるような感じだった。「それから?」
「それから?」彼は考え、くり返し、「ああ、そう、それから」とふたたびほほ笑み、「それから三人、そこでの食事は軽めにすませて、友人がやってるバーに行ったんですよ。あいつが入れてるボトルがあるからって」
ここですこしの間があった。彼は必死でなにかを“想い出そう”としていた。喫茶店のラジオの番組が変わった。古いアメリカのフォークソングが鳴り始めた。彼は続けた。まるでなにかを“想い出した”かのように。
「そうそう、これこれ、これとおなじ曲が流れたんですよ」右手をくるくるさせながら、「そしたら真理が突然、『ねえ、ほら、踊りましょうよ』って弟に言って、その店には、こう、ちょっとしたスペースがあって、すこしくらいなら踊ったりも出来たんです」
おなじ曲? こんなふるい、マイナーなフォークソングが? 偶然?
「それから、そこで、私とあいつは交代で真理と踊りました。ボトルの酒はすぐになくなったので、代わりをいれて、三人でわらって、飲んで、またわらって、そしたらまた真理が、『踊りましょうよ』って言って、私とあいつは交代で彼女と踊った――」
ドンッ!
とここで、喫茶店の前で、窓を隔てた前の通りで、なにか大きな音がした。が、私も彼も、そちらを見ることが出来なかった。彼は続けた。
「あの時、アーケードに座るあいつを見付けた時、私はあいつを見逃すべきではなかったんですよ。あいつが線を、境界線を越えようとしたら、殴ってでも引き戻すのが、本当の兄弟だったんですから」窓の向こうが騒がしくなっていた。誰かが言った。
『あんたもあれを見たんだろう?
あいつが道に投げ出されるの?』
丈一郎さんの話は続いていた。彼は言った。
「私はあのとき、あいつを見逃すフリをして、結局あいつを見捨てていたんです」境界線がぼやけて行くのが分かった。ふたたび、誰かが言った。
『正気を戦場に置き忘れたのか?
それとも洪水に流されたのか?』
「これと同じ曲が流れていたんです」丈一郎さんは言った。「ボトルの酒はすぐになくなりました。代わりを入れて、そいつを飲んで、三人でわらって、そしたら真理が、『踊りましょうよ』って僕らをさそって、私とあいつは、飲んで、わらって、それからまた、交代で彼女と踊ったんです」
(おしまい)




