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第三話:丘の上の家

 熊谷弥栄子の葬式には、町のものたちがこぞって参列した。彼女に一度でも恋をしたことのある男たちはもちろん、そうでない男たちや、彼女ににがい想いをさせられたことのある女たちも、あの、丘のうえにある大邸宅へと向かったのである。


 そこは、かつては銀にも近い白色に輝き、窓は大きく、天井は高く、使いもしない暖炉にまでひどく優雅な装飾が施されていた。屋敷のまわりにはかたい鉄の門がぐるりと置かれ、いまではあまりにさび付いたその門の先に入られるものは限られていた。が、それでも、そこへと続く坂の道では、昼間、子どもたちの遊んでいるのを見ることが出来た。



 『摘めるうちにバラの蕾を摘みなさい。

  時という老人は、

  いまこの瞬間も、

  ただ飛ぶように去って行くのだから。』



 祖母や祖父に連れられ参列した子供たちのひとりが、迷い込んだ彼女の寝室で右のような詩を見つけた。若すぎる彼にはこれが何を意味するものか分からなかった。今日ほほ笑んでいるその花の、明日には枯れてしまうことにも。


     *


 生前の熊谷夫人、いや、わかい時代の弥栄子は、あの町でもっとも幸福な娘となるはずだった。なぜなら彼女は聡明で美しく、やさしい父と、たのもしい母を持ち、年のはなれた兄は、彼女を溺れるように愛していたのだから。


 弥栄子にはふたりの友人がいた。ひとりは若葉というボーリング玉のように丸くころころとした威勢のよい女で、ひとりは加奈子という、肌が黒くて背も高い、造船所の男たちの間に立っても遜色のない、力強い女だった。


 彼らは、わかい娘がいつでもそうであるように、暇さえあれば、愛について、恋した彼らの男について、よく語り合っていた。弥栄子を中央に、若葉と加奈子が彼女をはさむように、あるいは詰問するように。なぜなら弥栄子が、なかなか恋というものをしなかったからである。弥栄子はふたりによく訊いていた。「恋に落ちるって、どんな感じ?」


「空を飛んでく感じかなあ」若葉が答えた。顔を上げ、「あの、ほら、おっきな星とちっさな星がならんでるみたいな」


「わたしは、わたしは」加奈子が言った。若葉を押しのけ、「おなかのしたあたりがあつくなるの。それから胸のあたりがあつくなって、顔があつく、あかくなるのがわかるの」


 それからふたりは、顔を合わせてにやけると、たがいに恋した男を想い出したのだろう、目をつむって彼らを想い、首をゆっくり横にふった。


 弥栄子は、そんな彼らをうらやましく想うと同時に、彼らとはちがう意味で首をゆっくり横にふった。彼女は想った――だったら、


「だったら私は、いまだ恋というものをしたことがないのだろう」とそうして、「ひょっとすると私は、誰かに恋すること、誰かを愛することの出来ない人間なのではないか?」と若者特有の考え方で、「このままずっと、愛の、恋の、よろこびを知らないまま、年老い死んだらどうしよう」と。


 しかしもちろん、それは杞憂だった。なぜなら夏が来たから。お祭りさわぎの週末に合わせて、丘の上の大邸宅がパーティーを開いたから。弥栄子も、父や兄の仕事の関係で、そのパーティーに招かれたから。ただし、


「なんでそんなおばあさんみたいな顔してるのさ」と加奈子も言うとおり、最初彼女は、窓辺に立ち尽くし、ちびちびちびとお酒を飲み、丘の下から聞こえて来る太鼓や口笛、人々の笑いをとおくに聞きつつ、海にのぼる月なんかを眺めていた。父も兄もあいさつ回りで忙しく、母は家で留守番をしていた。


「若葉を見てごらんよ」加奈子は続けた。広間の向こうでは、たっぷりと着飾った彼女が、数人の男たちに囲まれていた。いつもの調子で、ころころころとよく話し、笑ってみせては、男たちを楽しませていた。弥栄子はおどろき呆れたが、加奈子が彼女の手を取って、彼らもその輪に加わった。


「あ、ねえ、弥栄子」とつぜん若葉が言った。彼女を中心としたひとの輪は、彼女のからだのようにさらに大きく太く広がっていた。弥栄子のわき腹をつついた。「左ななめ前方、気付いてる?」


 もちろん弥栄子は気付いていなかった。


 若葉は続けた。「あのひと、あんたに見とれっぱなしよ」


 加奈子が加わった。「海でまよっていた人が、ようやく陸地を見つけたみたい」


 それはひとりの、わかい、とても美しい顔をした青年だった。


     *


 熊谷夫人に子どもはいなかった。正確には、ひとりは流産、ひとりは死産、ひとりはいつかの地震に巻き込まれていた。遺体は上がって来なかった。「せめてあの子が生きてれば」と町の老人たちはよく話していた。彼らは夫人によくしてやったが、それでも結局、それとは別に、彼女と彼女の夫は、その最後まで、本当の意味で夫婦になることが出来なかったからである。


     *


 あの夜、弥栄子に「見とれっぱなし」になっていた男はもうひとりいた。ただし彼は、広間ではなく、二階の廊下から彼女を見ていたのだが。



 『摘めるうちにバラの蕾を摘みなさい。

  時という老人は、

  いまこの瞬間も、

  ただ飛ぶように去って行くのだから。』



 誰の作曲だろうか、簡素な、つたないと言ってもよいピアノを伴奏に、男が歌っていた。彼は、メロディにも声にもどこか自信なさげであったが、そんな彼の喉のかすれと躊躇いが、より歌詞とメロディに哀切味を加え、多くの聴衆の身を引き締めては、彼らを軽く震わせていた。月の下、海の表を音楽は流れて行った。弥栄子は幸福であった。先述の青年とふたり、庭に出て、そのあまりにロマンティックな風景にその身を溶け込ませていたからである。


 青年の名は――いや、これは伏せておこう。重要なのは、彼女がその夜、彼と別れてからも、何度も何度も、その名をこころの中でくり返したことにあった。彼らふたりが、手をつなぐ間もなく、その未来を確信したことにあった。青年は裕福でもなければ飛び抜けた才能を持っていたわけでもなかったが、彼女を幸福に出来るのは彼だけであると、そう彼らが信じたことにあった。



 『摘めるうちにバラの蕾を摘みなさい。

  時という老人は、

  いまこの瞬間も、

  ただ飛ぶように去って行くのだから。』



 同じ歌詞がくり返されて弥栄子は、いまなら加奈子たちの言葉が分かるように想えた。もちろん彼女は若すぎて、そこに流れる音楽の、意味するところは分からなかったが。今日ほほ笑むその花の、明日には枯れてしまうことにも。


 そうして、それから彼らは別れた。結局いちど、手をつないだだけで。次に会う時間と場所を取り決めただけで。くり返しになるが彼女は幸福だった。工場で大きな事故が起き、彼女の兄が亡くなるまでは。一番の希望も欲望も風に吹き飛ばされ、厳しい時代がやって来るまでは。


     *


「こらこら、こんなところにいたのか」背のたかいがっしりとした老人が言った。「おじいちゃんからはなれるなと言っただろう」


 問題の詩をくり返し見ているうちに少年は、自分がどこにいてどこから来たのかも忘れていた。あるいはこの寝室の主になんらかの挨拶をしていたのかも知れないが。


「しりあいだったの?」少年が訊いた。

「みんな彼女に恋をしたのさ」老人は答えた。


 彼らはあまり似ていなかったが、その歩き方と左手薬指のかたちから肉親であることは分かった。


「おじいちゃんも?」続けて少年は訊いた。

 老人はわらって答えなかった。


     *


 熊谷直哉は、肩幅は広いが背のひくい中年男で、顔は醜くもなければ美しくもなく、弥栄子とはひと回りほど年が離れていた。彼は、両親とともに例の大邸宅に住み、とても繊細で、やさしく、想いやりがあり、恥ずかしがり屋だけれど頭がよく、熊谷家の会社と工場をまわしていたのは、事実上彼だと言ってもあながち間違いではなかった。彼は、例のパーティーで弥栄子を見かけて以来、知り合いに会っては彼女の素性をたずね、なにか彼女のために出来ることはないだろうかと考える日々を送っていた。周囲はそれを恋と考えたが、彼にとってのそれは恋というよりは崇拝にちかいもので――そんなとき、問題の事故は起きた。


 直哉は事故の収束に、原因の究明に、再発防止の徹底に、そうしてなにより、ケガをした従業員や、家族を失くした遺族のケアに力を尽くし――そこに弥栄子の家族もいた。


 息子を失くした弥栄子の父は急速に老け込み、そんな彼に寄り添う母は娘のこころをよく読めてはいなかったし、それは弥栄子も直哉も同じだった。


 彼らは、自責や同情を愛と勘ちがいし、負い目や引け目、尊敬や崇拝、それに経済的不均衡――そう、それに経済的不均衡が、生涯をともにする理由になると勘ちがいし、ある晴れた棕櫚の日曜日、彼女は丘の上の住人になった。


     *


 晩春の花のうずたかくつまれたその下に、熊谷弥栄子はねむっていた。町の人々の告別は静かに、粛々と行われていた。


 庭に出たかつての女たちは、なにかやるせない表情でこそこそこそと話し合っていた。


 広間の隅に集まったかつての男たちは、まるで歴史を忘れたかのように、まるで自分も彼女に求婚出来たとでも言いたげに、彼女とまるで関係のない昔話に花を咲かせていた。


 かつての彼女の友人ふたり、加奈子はすでに亡く、若葉は押し黙ったまま、彼女のそばから離れようとはしなかった。


 広間の端から、調律の取れていないピアノが、二小節だけ、なにかの曲を鳴らした。


 若葉は顔を上げ、そちらを向き、誰もいないことを確かめると、ふたたびこちらを向き、不意にがばりっと立ち上がった。目の前の男性のほおを引っ叩いてやりたくなった。が、しかし、


「おじいちゃん?」と彼を呼ぶ少年の声にわれにかえると、ふたたび、そのボーリング玉のようなからだを低いイスのなかに沈めた。


 少年の手には、黄色のバラが、つぼみのままに握られていた。



(おしまい)

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