アリの一穴
村が王国からの離反を決めて3ヶ月が過ぎました12月のある日、王城では次兄エックハルトが小さな異変に気づいておりました。
「あれだけ何度も手紙をよこしていた村が、このところ1通も手紙をよこさないのは、どういうわけでしょう?」
これを、国王ジークフリートや長兄ライナルトは、まるで気にしませんでした。
「ふっ……。なぜそんな小さな事を気にするのだ、エックハルト?
元々ろくに税も納められぬ村1つ、冬を越せずに全滅したところで王国の経済にはいささかもダメージにならぬ。」
「そうだぞ、エックハルト。我ら王族は、他にもっと見るべきものがある。
ライナルトのように、常に大局を見るのだ。些事に囚われてはならぬ。」
ところがこの次兄エックハルトといいますのは、相手の立場を悲観して自分の優位性を誇示する性質がございますので、物事を悲観的に見るのが得意でございます。価値のない村が1つ黙っただけのこと、そんな村が潰れたところで何でもない……とは考えませんでした。
「アリの一穴という事もございます。」
千丈の堤もアリの一穴から。あるいは、アリの一穴天下の破れ。
つまり、強固な堤防がアリの穴1つから連鎖的に崩れて全体が崩壊する様を表した言葉で、巨大な組織も小さな事から全体を揺るがす不祥事になったりする。そういう意味の言葉でございます。
「世論は今、我々への批判が高まっています。
もし村のことを騒ぎ立てるような輩が現れれば、世論の批判はさらに激しくなるのでは?
村人が大人しく諦めているのか、親戚筋でも頼って逃げ出したのか、そのあたりを確認しておいても損はないかと。もし後者なら……。」
次兄エックハルトがそう言いますと、国王ジークフリートと長兄ライナルトもいくらか不安を覚えてまいります。なにしろ世論の批判をかわすために、貴族に責任転嫁して処刑しておりますので、それ以上の批判が向けられるとなると、今度はどうやってその批判を躱したものか……と頭を悩ませることになります。
「ならば、村の動向を調べてみるか。」
と国王ジークフリートが調査を命じます。
そうして報告が上がって参りますと、結果はエックハルトの予想よりもさらに悪いものでございました。村は王国からの離反を決めていたのでございます。
「どういう事だ!?」
「何があったと……?」
「思ったよりも深刻な状態ですね。」
国王ジークフリートはいつも通りに怒りますが、長兄ライナルトは驚きのあまりいつもの笑いが出てきませんで、表情を失っておりました。次兄エックハルトも、予想より悪い状況に深刻な顔をいたします。ある意味、いつも通りに振る舞える国王ジークフリートは、年季が入っていると言えましょう。
「どうも何者かが村を支援しておりますようで……。」
と報告が続けられます。
税の取り立てと称して奪えるだけのものを奪ってやったというのに、村人たちはどこからか食糧を手に入れており、特に困った様子もなく過ごしている。そればかりか、王族への批判を堂々と口にしてはばからず、離反したというのも村人たちが自分から喧伝しているというではありませんか。
その内容に、国王らは驚くやら怒るやら焦るやら、めまぐるしく表情を変えて参ります。報告を聞き終えて、3人はしばらく無言でおりましたが、そのうち搾り出すように、
「……けしからん。」
「……ふっ。愚かな事をしたものだ。」
「……これで村の未来は決まりましたね。」
と、3人それぞれがいつもの様子を取り戻しまして、虚空を見つめたままの国王ジークフリートに、王子2人の視線が集まります。
「……出陣だ。裏切り者を殲滅せよ。」
村を滅ぼせ。
国王ジークフリートは、そう命令を下したのでございます。
1週間後、村に軍隊が迫っておりました。
この軍隊の接近は、イレーネが「探知」のスキルを持っておりますために、肉眼ではまだ見えない距離にいる段階から発見できておりました。
「1時間もしないうちに到着するはずです。」
距離にして4kmほど。村は山に囲まれておりますので、肉眼で見えるのは、見通しのよい場所でも1km程度でしょう。イレーネが「探知」していなければ、気づいた時には逃げる暇もなく惨殺されているところでございました。
しかし、わずか1時間では村人全員に説明して避難を呼びかけるのは不可能。避難する時間だけでも30分は欲しいところ、状況説明のために集合してもらうだけで30分はかかりますし、集合を呼びかけるためにはさらに時間がかかります。ヘルマンがいかに素早く動けても、村人のほうが通常速度しか出ませんので、これはもうどうしようもない事でございます。
「何か方法は……?
村人全員に一気に周知して、即座に避難させられるような方法は……。」
あるわけない、とイレーネは口元まで出掛かった言葉を飲み込みます。
具体的な案が浮かばないまま、気持ちだけが焦り、言葉もなく沈黙が流れました。もうヘルマンもイレーネも頭の中はグチャグチャで、まとまる考えもまとまりません。
2人がうんうんと無闇やたらにうなっておりますと、
「…………。」
のそり……とシルムが立ち上がります。
「……僕に考えがある。」
シルムは拠点の小屋を出て、それから2人を振り返りますと、
「これで僕の人生は、意味のあるものになった。」
神妙な顔で意味の分からない事を言いますので、ヘルマンとイレーネは何やら嫌な予感がしてまいりました。
その表情の変化を読み取ったシルム、2人に何も言わせないうちに、
「今までありがとう。」
と言い残しまして、だっ……! と山を駆け下りていきます。
「ウオオオオオオオオオオ!」
木々を震わせる大声で吠えまして、シルムが村に向かって一目散。
3mの巨体を躍らせて迫り来るオーガに気づきました村人は、大慌てで家の中へ飛び込もうとしますが、
「ウオオオオオオオオオオ!」
と、再び吠えましたシルム、村人たちが作りました防壁を渾身の力で殴りつけまして、見事に砕いてみせます。続けざまに、近くにありました農具を納めてあります小屋へ腕を振り回しまして、これをバラバラにしてしまいます。
「だ、ダメだ! 逃げろ!」
「家の中に隠れても無駄だ! 家ごと潰されるぞ!」
「オーガだ! オーガが出たぞ! みんな逃げろ! 家ごと潰されるぞ!」
騒然となりました村人が、取るものも取りあえず必死の形相で逃げていきます。
シルムのあとを追ってきましたヘルマンとイレーネ、これを見て「なるほど」と感心しますが、シルムに合流することなく自分たちの役割を演じ始めます。つまり、近衛部隊を指揮しまして村人の避難誘導に回るわけでございます。村には年寄りなどもおりますので、近衛部隊はそういった村人を手分けして避難させる事に奔走いたしました。
「はぁ、はぁ……! もう、ここまで来れば……。」
「お、おい! 見ろ! 村が……!」
オーガから逃げて反対側の山の中へ逃げ込みました村人たちが、山の斜面から村を振り向いて見下ろしますと、そこには王国軍の姿がありました。
ただし、オーガと戦う姿はごく一部で、ほとんどは無人になった村の家々を壊したり燃やしたりしておりました。
「とうとう本性を現したな。」
「いいや、やってる事は今まで通りじゃねえか。やり方が変わっただけさ。」
村人たちは、村を蹂躙する王国軍を冷ややかに見ておりました。
ヘルマンは王国軍に囲まれて討伐されるシルムを、助ける事もできずに見ておりました。シルムを助けるより先にやる事がございます。その順序を間違えますと、シルムが何のために悪役を買って出てくれたのか、その意味がなくなってしまいます。
「このまま山を越えて、隣村まで行きましょう。
その先は、落ち着く先も必要でしょうから、みなさん散り散りに逃げてください。親戚筋など頼る相手を探してください。散り散りに逃げれば、追ってこられても多くの人が逃げ切れるでしょう。」
隣村まで村人を護衛しまして、それぞれ散り散りに逃げていくのを見送りましてから、ヘルマンとイレーネは来た道を急いで引き返します。
村に戻ってみますと、すでに王国軍の姿はどこにもございませんでした。建物という建物はすっかり壊され、燃やされ、廃村というより戦場跡といった様相でございます。すでに火は消え、燃え残った瓦礫の中を進んでいきますと、まるで旗を掲げるようにして棒の先に高々と掲げられましたシルムの首がございました。首から下は、近くでそのまま打ち棄てられておりまして、かなりの攻撃に耐えたらしく、無数の切り傷・突き傷をつけられ、血まみれになっておりました。
これを見ましたヘルマン、ガクッ……と膝から崩れ落ちまして、そのままヘナヘナと座り込みます。それから呆然とシルムの遺体を見つめていたかと思うと、
「……っ……! うおおおおおおおおおお!」
とうとう耐えきれなくなりまして、男泣きに泣き出しました。
その背中を、イレーネが優しく抱きしめまして、ヘルマンが落ち着くまで黙ってそうしておりました。
そのうちに雨が降り出しました。だんだんと降り方が激しくなっていきまして、ヘルマンの泣き声をかき消すような横殴りの土砂降りになってまいります。それはちょうど、シルムと出会った時のようでした。ですが今の2人には、傘になるものがございません。
こうして、シルムの自己犠牲で村人たちは救われました。シルムはこの時に初めて「自分で自分の生き方を決める」という自由を手に入れました。そして自分の人生の価値を高めるために、自分を使い切ることができました。前世の経験がございましたために、死ぬまで痛みに耐え抜く根性が身についておりましたし、オーガに転生しましたために村人を避難させることができました。シルムにとりまして、今回の死は決して不幸なものではございませんでした。
==ヘルマンの歩数==
実績:3ヶ月がすぎた。
合計:240万歩
歩行速度:9万6000km/h
走行速度:48万km/h