8.王都の異変
先日のティーパーティーで受けたヴィクトリア・ロザリアからの「お抱え」の誘いを、カラムは丁寧すぎるほど丁寧に辞退した。
「すみません、ヴィクトリア様。俺、やっぱり地道に依頼をこなす、普通の冒険者でいたいんです。コツコツ頑張るのが、一番自分に合ってる気がして……」
ヴィクトリアは、そのあまりの物欲のなさに呆れ返ったが、同時にその「純朴さ」こそが、自分の高価なコレクション棚に並ぶ名剣や宝石にはない、希少な輝きであると感じ始めていた。
「……いいでしょう。ならば、わたくしの個人的な『友人』として、一つ依頼を受けていただけますかしら?」
そうして提示されたのが、今回の依頼『王都地下水道の怪異調査』である。
最近、王都の地下から地響きのような唸り声が響き、下水が逆流するなどの異常事態が続いていた。衛兵部隊が調査に向かうも、誰もが「形容しがたい恐怖」に当てられて逃げ帰ってくるという。
「地下水道か。……汚そうだな、カラム。ワシの美しい漆黒の長毛が下水で汚れたら、貴様の魂を洗濯板でこすり洗いしてやるからな」
クロはカラムの肩で、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「大丈夫だよクロ。汚れないように俺がずっと抱っこしてるから。それに、ヴィクトリア様が『解決したら、王都一の精肉店特製の極厚ステーキを十枚出す』って言ってたぞ」
「……フン。貴様、ワシが食べ物で釣れると思っているのか? 侮るなよ。……さあ、早く行くぞ。肉の鮮度が落ちる前に終わらせるのだ」
クロの尻尾が、期待でぶんぶんとカラムの頬を叩いた。その仕草は、どこからどう見ても食いしん坊な子犬のそれだった。
王都の地下水道は、迷宮のように入り組んでいた。
松明の火が揺れ、湿った重い空気が肌にまとわりつく。カラムは慎重に足を進めたが、ある地点から、空気が急激に冷え込んでいくのを感じた。
「……ねえ、クロ。なんかここ、南の森やダンジョンの時と同じような……心臓がギュッとなるような感じがする」
カラムが剣を握り直したその時、奥の暗闇から、異形の影が這い出してきた。
それは、かつて数層に渡る迷宮を一夜で死の都に変えたとされる凶悪なA級モンスター、『千眼の魔大蛇』だった。
本来、深層迷宮にのみ生息するはずの「厄災」だ。何らかの理由で地下水道の奥底に根を張り、王都の魔力を吸い取って巨大化していたのである。
「な、なんだあいつ……! 目がいっぱいあるぞ……!!」
カラムは腰を抜かしそうになった。
数千の瞳が怪しく光り、見た者の精神を破壊する呪いの視線を放つ。
これこそが、衛兵たちを恐怖させた正体。普通の冒険者パーティーなら、戦う前に発狂して終わりだ。
だが。
「……チッ。目障りな虫ケらめ。王都の排水溝に巣食い、コソコソと魔力を啜るとは、卑しいにもほどがあるな」
クロがカラムの腕の中から、ひらりと地面に降り立った。
「ちょ、ちょっと! クロ! 危ないよ!」
「あの目はお前には少し厄介だ。そこで見ておれ」
その小さな体から、地下水道の全域を凍りつかせるほどの「絶対的な王の威圧」が放たれる。
「ギ、ギギッ……!? ギュルル……!!」
先ほどまで王者のように鎮座していた魔大蛇が、突如としてガタガタと震え出した。
数千の瞳が恐怖で血走り、巨体が石壁に激突しながら逃げ場を探し、パニックを起こした。
「クロ……? なんだ、あいつ……もしかして、クロを見て怯えてるのか?」
「フン。当然だ。ワシの気配を感じてなお頭を垂れぬ不届き者は、この世に存在してはならん。……さて、カラム。あまり見ているな。少々、汚い掃除になるからな」
クロが低く唸った。次の瞬間、クロの口から漆黒の炎──『冥界の業火、ステュクス・フレイム』がほんの一筋だけ放たれた。
炎は水流を蒸発させ、レンガをドロドロに溶かし、巨大な魔大蛇を一瞬で「蒸発」させた。
爆発音も、断末魔もない。ただ、そこにあったはずの巨大な物が、一瞬にしてこの世界から消去されたのだ。
カラムは、その光景を呆然と見守っていた。
目の前で、巨大な怪物が塵にさえならず、存在そのものが消し飛んだ。
そして、その中心に立っているのは、今まさに「ふぅ、埃っぽいな」と言わんばかりに後ろ足で首筋を掻いている、モサモサの黒い子犬だ。
(えっと……あれ、モンスター……クロが……やったのか?)
カラムの脳裏に、これまでの出来事が走馬灯のように駆け巡る。
南の森でアビス・タランチュラが黒い粉になったこと。
レイドで骸骨龍が「お手」一つで粉砕されたこと。
そして今、王都を揺るがすA級モンスターが、一瞬で消えたこと。
「クロ……お前、本当に……」
カラムは震える声で呟いた。
「ん? なんだ、カラム。ワシの活躍に惚れ直したか? ならば今夜はステーキに加えて、あの甘い香りのするパンも要求するぞ」
クロが振り返り、いつものように不遜に、しかしどこか甘えるように首を傾げた。
その瞳は、深淵の闇ではなく、カラムだけを映す澄んだ紅だった。
「もしかしてお前、本当に……伝説の、ケルベロス……なのか?」
初めて、カラムが「厨二病の設定」としてではなく、現実の疑念としてその名を口にした。
クロは一瞬、足を止め、真剣な眼差しでカラムを見つめ返した。
「……ようやく認めたか、カラム。ワシは嘘など一度も吐いておらん。ワシは死を司り、冥府の門を守護する──」
「…………でも」
カラムは、クロの小さな、温かい体をそっと抱き上げた。
「でも、ケルベロスって、もっと怖くて、頭が三つあって、おやつを食べてしっぽを振ったりしないんじゃなかったっけ? さっきもステーキのこと考えて、しっぽ、プロペラみたいに回ってたし……」
「……っ!? それは……! 肉のタンパク質を効率よく循環させるための……物理的な挙動だ!」
クロが慌てて尻尾を押さえる。
カラムは、そのドタバタとしたやり取りを見て、ふっと力が抜けたように笑ってしまった。
「あはは、ごめん。……でも、クロが何者でもいいや。お前が俺を助けてくれて、俺と一緒にいてくれる。それが、俺にとっての真実だからさ」
(……阿呆め。貴様という男は、真実の淵まで辿り着いておきながら、結局そこから飛び降りるのか)
クロは呆れたように息を吐いたが、その内心には、安堵と、言葉にできないほど温かい感情が広がっていた。
自分の力を目の当たりにしてもなお、自分を「ただのクロ」として抱きしめてくれる。
その愚かさが、今のクロにとっては一番の宝物だった。
地下水道の異変は、こうして完全に解決した。
地上に戻ったカラムは、ヴィクトリアに報告した。
「ヴィクトリア様! 解決しました。……なんだか、すごい大きな蛇みたいなのがいたんですけど、クロが『ワン!』って言ったら、どっかに行っちゃいました」
「……『どっか』に、ですか……?」
ヴィクトリアは、地下水道の壁面がドロドロに溶け、巨大な空間がぽっかりと空いているという調査報告を部下から受け取り、目の前の「もふもふ」を見つめた。
(……『ワン!』と言って蛇が蒸発するわけがないでしょう。でも、現に脅威は去り、王都の魔力流は安定した……。やはりこの子犬、わたくしの想像を超える、神域の希少種だわ……!)
ヴィクトリアは、もはや「厨二病」という解釈さえ捨て、クロを「王都の守護獣」として密かに崇めることを決意した。
「お見事ですわ、カラムさん。……さあ、約束のステーキをご用意させましたわ。今日はわたくしも、あなたたちの『祝宴』に同席させていただいてもよろしくて?」
「え、ヴィクトリア様も!? 俺のボロ家に来るんですか?」
「構いませんわ。わたくしのコレクション──いえ、友人の門出ですもの」
その夜、カラムの狭い部屋は、最高級の肉の香りと、二人と一匹の笑い声で満たされた。
「クロ、ほら、ステーキだぞ!」
「ぬおっ! 素晴らしい肉質だ! カラム、貴様も食え! ワシの分け前を半分だけくれてやる!」
「あはは、ありがとうクロ。……でもやっぱり、ケルベロスがステーキでこんなに喜ぶわけないよな。やっぱりお前は、俺の自慢の相棒だ」
「……フン、まだ言うか。まあよい……今は肉だ。肉の深淵を覗くのだ……!」
カラムは、クロの正体が「ケルベロス」であることを半分信じかけ、そして半分は「でも、うちのクロに限ってそんなことはない」と否定した。その曖昧な、しかし絶対的な信頼が、二人の絆をより強固なものにしていた。
その夜。
カラムが眠りについた後、クロは窓辺から王都の夜景を見下ろし考えていた。
(……カラムよ。貴様がワシを信じようが信じまいが、ワシは貴様を守るとしよう。たとえ、天界の神々が貴様を害そうと、地獄の王が貴様を奪おうと……このワシが、全ての『死』を焼き尽くしてやろう)
クロの瞳に、本物の「神」の力が宿る。
だが、次の瞬間、寝返りを打ったカラムの手がクロの背中に触れると、クロは「ひゃうんっ」と情けない声を漏らして、いそいそとカラムの横で幸せそうに丸まって眠りにつくのであった。




