9.帝国の影
アルテニア王国の隣に位置する軍事大国、ガルヴァニア帝国。そこは「力こそが正義」を標榜し、魔導科学と暗殺術に長けた覇権国家である。
帝国の情報部には、最近ある不可解な報告が相次いでいた。
「アルテニア王国の南の森で生態系が一時停止」「S級冒険者ジャイルが心酔する謎の黒い獣」「王都地下のA級モンスターが一瞬で消滅」。
「……フン、アルテニアが隠し札を手に入れたか。あるいは、古代兵器の類か」
帝国の諜報長官は、闇の中で低く呟いた。彼が召喚したのは、帝国最強の隠密部隊『冷灰』の筆頭、ヒクウ。感情を排し、任務遂行のためなら自らの命さえ顧みない、美しき暗殺者である。
「ヒクウよ。王都ルアウムに潜入し、『守護獣』と呼ばれる存在の正体を暴け。可能ならば奪取、不可能ならば……消せ」
「……御意」
ヒクウの返答は冷たく、鉄のようだった。彼女はその夜、音もなく国境を越えた。
──王都ルアウム、下町の安アパート。
ヒクウはその屋根裏に潜み、ターゲットである青年カラムと、その相棒である黒い子犬を観察していた。
(……ターゲット、確認。飼い主はカラム・アルブラスター。魔力量は平民並み、戦闘技能も特筆すべき点なし。だが……問題は、あの個体だ)
ヒクウの視線の先には、古びたソファで仰向けになり、無防備に腹を晒して飼い主に毛繕いされているクロがいた。
(……漆黒の長毛、真紅の瞳。見た目は愛玩用の子犬だが……暗殺者としての直観が、最大級の警報を鳴らしている……あそこにいる得体の知れないモノはなんなんだ……「力」そのものだ)
ヒクウは冷や汗を流した。
彼女がこれまでに仕留めてきたどんな高位魔族よりも、目の前でブラッシングされ「くうぅぅん……」と声を漏らしてしっぽをパタパタさせている子犬の方が、圧倒的に底知れない。
(寝込みを襲う)
ヒクウは夜になり、ターゲットが寝るのを待ってから音もなく窓から侵入した。
手には、神をも殺すとされる帝国の秘宝『イビル・ダガー』。
彼女がクロの首筋に刃を寄せようとした、その刹那。
「……ほう。貴様、死に場所を探しに来たのか?」
クロの目が、カッと見開かれた。
それは昼間に見た愛くるしい表情とは似ても似つかぬ、全てを跪かせるような威圧と眼光だった。
「なっ……!?」
ヒクウの身体が硬直した。金縛りではない。
クロが放ったコンマ数秒の『殺意』だけで、彼女の脳が「死」を受け入れ、肉体の全機能が停止したのだ。
「フン。貴様、何者だ? そんなおもちゃで何をしようとしているのだ?」
「こ、このイビル・ダガーをおもちゃだと!? 侮るな! このまま首を落としてやる!」
「よかろう。ワシの安眠を妨げた罪、万死に値する。カラムが起きる前に、貴様の魂を冥界の最下層へ送り届けてやろう」
クロが低く唸り、その小さな口から、空間を歪ませるほどの魔力が漏れ出した。
ヒクウは覚悟した。抗う術はない。これは帝国が……いや、人が手を出してはならない神域の怪物。
だが、その絶望的な沈黙を破ったのは、隣のベッドから聞こえてきた暢気な声だった。
「……んん、クロぉ……? また寝言か……?」
カラムが目を擦りながら起き上がった。
「あ……れ? クロ、誰か来てるの?」
ヒクウは絶望した。正体がバレた。今すぐこの青年を殺して逃げるか、あるいは……。
しかし、カラムの反応は、彼女の予想を遥かに超えていた。
「うわっ、お、女の人? クロ、もしかしてお友達? それとも道に迷って窓から入ってきちゃったのかな?」
「……は?」
ヒクウは呆然と立ち尽くした。
(隠密服に全身を包み、抜き身のナイフを持った女が「友達」だと? ましてや「道に迷った」などと、誰が思うだろうか? ……どういうつもりだ……試されているのか?)
「カラムよ、貴様はどこまで阿呆なのだ。こやつはおそらくワシらの命を奪いに来た──」
「こらクロ、そんな怖いこと言っちゃダメだろ! 夜道は冷えるから、きっと暖かい場所を探してたんだよ。あっ、そうだ! ちょっと待っててください!」
そう言ってカラムは台所の方へと消えていった。
「おい、女。正直に答えるのだ。何をしにここへ来た?」
(……最早、生きて帰ることは叶うまい……今、私に出来ることは帝国の情報を漏らさないという事のみ……)
「沈黙を通すか……ならばここで塵となるがよい」
クロがヒクウに向けて魔力を放とうとしたその時、カラムが暖かいお粥を手に戻ってきた。
「えーっと、よかったら、これ食べてください。夕食の残りなんですけど」
カラムは、ヒクウの手にあるナイフを「珍しい形の装飾品」とでも勘違いしたのか、全く警戒せずに近づき、湯気の立つお粥の器を差し出した。
(……ど、毒か? 毒が入っているのか!? それを強制的に食べさせる!? そういう拷問か!?)
「あの……どうかしましたか? そんなに震えて……よっぽど外が寒かったんですね……さあ、遠慮しないで温かいうちにどうぞ」
眩しいほどに純粋な笑顔をヒクウに向ける。
「……え、あ……」
ヒクウの脳が処理落ちを起こした。
最強の暗殺者として育てられ、愛も慈悲も知らずに生きてきた彼女にとって、見ず知らずの他人が向けてくる「純粋な善意」は、クロの咆哮よりも破壊力があった。
「お粥には、うちの村特産の卵も入ってるんです。遠慮せずに食べてください。お腹が空いてると、元気が出ませんし、身体も暖まりませんよ」
「女、変な真似はするなよ?」
「クロ、変な真似って何言ってるの? きっと、この人は外があまりにも寒くって我慢できずに窓から入ってきちゃっただけなんだよ」
カラムの天然勘違いが炸裂する。
「さあ、どうぞ」
ヒクウは震える手で、お粥を受け取った。
「温かい……」
その温もりが、冷え切っていた彼女の心に、暴力的なまでの安らぎを与えていく。
一口、口に運ぶ。
「……美味しい」
ヒクウの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
帝国の過酷な訓練、裏切りの日々、孤独な夜。それらすべてが、この一杯の温かいお粥によって浄化されていくような気がした。
「あはは、よかった! クロ、お粥気に入ってくれたみたいだぞ!」
「フン。肉も入っていないような安物を食って泣くとは、安い女よ。……まあ、カラムの飯は、稀に魂の芯まで温めることがあるからな」
クロは呆れたように言いながら、ヒクウの足元にトコトコと歩み寄り、その豊かな長毛を彼女の脚に擦り付けた。
「クゥ……」
(……カラムに免じて命は奪わずにおいてやろう。これ以上はやめておけ。もう一度問おう。貴様、何者だ?)
「……ヒクウ……私の名だ。あるお方の命でここに来た……が、それも今日で終わりのようだ……」
「ヒクウさんですね! 僕はカラム、でこっちがクロ、よろしくお願いします!」
(ヒクウよ、どうだ? この男の側で、貴様も少しは『生』を味わってみるというのは?)
クロの小さな声が、ヒクウの心に直接響いた。
それは先ほどの死の宣告ではなく、慈悲深い神の赦しのように聞こえた。
──翌朝。
王都ルアウムの公園のベンチで、ヒクウは呆然と空を見上げていた。
「……私の任務は……今までの人生は何だっただのだろうか……」
手元には、カラムが「お土産に」と持たせてくれた、クロの抜け毛で作ったという、少し不恰好だが温かみのあるストラップ握られていた。
「……正体を暴け、と言われた。……正体は、ただの最高に優しいお人好しの青年と、恐ろしく強く、そして可愛いもふもふした神だった……奪取は不可能……消すなど、もってのほかだ」
ヒクウは、帝国の諜報部へ送るための魔導通信機を取り出した。
彼女は迷うことなく、嘘の報告を打ち込んだ。
『ターゲットの正体を確認。アルテニア王国に守護獣などはいなかった。いたのは黒い長毛の子犬とその飼い主で、見た目の可愛さから民衆に守護獣と呼ばれている模様。飼い主の青年とその子犬は無害と判断し監視対象から外す。しかしながらアルテニア南の森の異変の原因はいまだ不明。そのため暫く帝国へは戻らず引き続き調査を続ける』
この報告を最後と決め、ヒクウは通信機を握りつぶし、晴れやかな顔で立ち上がった。
彼女の目は、もう暗殺者のそれではない。
「……まずは、あの部屋の隣の部屋を借りるための、お金を稼がなくては。……カラム様にお粥の御礼を言わねばならないし、クロ様のブラッシングの権利も勝ち取らねば」
一方、カラムの部屋では。
「クロ、ヒクウさん、元気になったかな?」
「フム。あの女、ワシの抜け毛を見て『家宝にする』と言っていたぞ。貴様の甘やかしは、時として最強の暗殺者すら廃人にするな」
「あはは、ヒクウさんが最強の暗殺者だって? また怖い事言って〜。さあ、クロ。今日もギルドへ行くぞ!」
カラムの明るい声に応えるように、クロが「ワン!」と元気に吠える。
帝国最強の暗殺者を、お粥一杯ともふもふで無力化してしまったことに、カラムは最後まで気づくことはなかった。
こうして、王都ルアウムに、また一人、カラムとクロの「絶対的な信者(守護者)」が増えることになったのである。




