6.社交界の毒蜘蛛
王都ルアウムの貴族街。その一角に佇むロザリア公爵邸は、今日、異様な熱気に包まれていた。
美貌の大貴族ヴィクトリア・ロザリアが主催するティーパーティー。本来ならば、最新のドレスや政略結婚の噂話が飛び交う優雅な場だが、招待客たちの視線は、一点に釘付けになっていた。
「……お、お待たせしました」
場違いなほど質素な、しかし丁寧に洗濯された服を着た青年カラムが、恐る恐るエントランスに現れた。彼の肩には、漆黒の長毛を誇らしげに揺らし、真紅の瞳で周囲を睥睨する「それ」が座っている。
「フム。貴族の集まりか。まるで魂の抜けた操り人形が並んでいるようだな。ワシの気配を察して失禁せぬよう、括約筋を締めておくがいい」
渋い、あまりにも渋すぎる大人の声が響き渡った。
一瞬の静寂。そして──。
「「「きゃあああああ! 素敵ぃぃぃぃぃ!!」」」
令嬢たちの悲鳴に近い歓声が上がった。
「見て! あの小さな体であの声! 『魂の抜けた』ですって! なんて退廃的で素敵なセリフなの!」
「あの子が噂の『ケルベロスちゃん』ね! まるで悲劇の騎士のような設定……堪りませんわ!」
クロの物騒な発言は、王都の流行に敏感な令嬢たちによって「最先端のロールプレイ」として熱狂的に受け入れられた。
ヴィクトリアは、扇子で口元を隠しながら優雅に歩み寄った。
「ようこそ、カラムさん。そして……地獄の番犬様。今日はわたくしの屋敷の猫たちも、あなたの『設定』に敬意を表して、別室に隔離しておきましたわ」
「フン、賢明な判断だ。ワシの真の力が漏れ出せば、貴様の猫どもは一生、震えが止まらぬ呪いにかかるからな」
クロはそう言いながらも、ヴィクトリアが差し出した高級なクッキーを、前足で器用に受け取って「サクッ」と良い音を立てて食べた。その瞬間、尻尾がパタパタと左右に振れる。
(……美味しい。なんだこの食感。冥界の供物とは次元が違うぞ……!)
「あら、設定の割に、尻尾は正直なのね。ふふふ、可愛いわ」
ヴィクトリアの瞳に、コレクター特有の妖しい光が灯った。
パーティーが中盤に差し掛かった頃。
ヴィクトリアのコレクションに加えようとしている「喋る珍獣」を一目見ようと、招かれた貴族たちが輪を作っていた。カラムは緊張で紅茶の味も分からず、ただクロを「粗相のないように」と見守っていた。
だが、この華やかなパーティーの影で、ある「計画」が進行していた。
ロザリア家の政敵が送り込んだ、影の暗殺者集団「黒蛇」。彼らの目的は、ヴィクトリアの暗殺、そしてロザリア家の権威を失墜させることだった。
(……ターゲットを確認。まずはヴィクトリアが狙っているというあの喋る子犬だ。あれを奪い、挑発する)
庭園に潜んでいた暗殺者が、音もなく麻痺毒を塗った針を放った。
狙いは、カラムの腕の中にいるクロだ。
だが──。
「……チッ。ハエがうるさいな」
クロは、カラムに撫でられてトロけそうになっていた表情を一変させた。
クロが放たれた針にフッと息を吹きかけると、針は一瞬で塵となり消えた。
「クロ? どうしたんだ?」
「……カラム、動くな。ワシが今から、この屋敷の『大掃除』をしてやる」
「大掃除?」
「そうだ。そこで見ておれ」
クロはカラムの腕から飛び降り、庭園の中央へと歩み出た。
招待客たちは「あら、何かのパフォーマンス?」と楽しげに見守っている。
「……貴様ら、そこに隠れているのは分かっている。ワシの平穏なティータイムを邪魔した罪、その魂の欠片で償うがいい」
クロが低く唸った。
「こら、クロ、また物騒な事を言って……あんまり離れたら駄目だよ、戻っておいで」
カラムはクロを捕まえようと後を追う。
だが、クロは彼なりの「配慮」をした。
(……カラムがうるさいな。良かろう、今回は物理的な破壊ではなく、『恐怖の具現化』程度に留めてやるわ。ワシの魔力のほんの一部……そう、『お遊戯』レベルだ)
クロは、真紅の瞳を怪しく光らせた。
「──冥界の門よ、微かに開け……アビスゲート・オープン」
次の瞬間、庭園に異変が起きた。
物理的な衝撃波はない。しかし、屋敷を包む空気が、一瞬にして「この世ならざる冷気」へと変貌した。
暗殺者たちは、恐怖で全身が硬直し身動きが取れなくなった。
彼らの視界には、ただの黒い子犬ではなく、空を覆い尽くすほどの巨大な三つの頭を持つ魔獣──ケルベロスの真の姿が映し出されていた。
「ひ、ひぃっ……! た、助けて……!」
暗殺者たちは気を失い、泡を吹いてその場に倒れ伏した。
だが。
この絶望的な光景を見ているのは、暗殺者たちだけだった。
クロが「殺意を向けた対象」にだけ真の姿を見せ、それ以外の人々には「ちょっとした特殊演出」に見えるよう、魔力を極限まで繊細に調整したからだ。
貴族たちの目には、クロの周囲から紫色の美しい煙が立ち上がり、空中に幻想的な冥界の城がホログラムのように浮かび上がったように見えていた。
「「「まああああ! 素晴らしい演出ですわ!!」」」
令嬢たちが立ち上がって拍手を送る。
「見て! あの暗殺者役の人たち、泡まで吹いて……なんて迫真の演技なの!」
「あの子犬、魔法具を使わずにこれほどの幻影を……! さすがヴィクトリア様が目をつけた珍獣ですわ!」
ヴィクトリア自身も、一瞬感じた「本能的な戦慄」を、持ち前のプライドと好奇心でねじ伏せた。
(……今のは何? 幻影……? いいえ、もっと根源的な……。でも、あれほど可愛く尻尾を振っているのよ? まさか……ね)
「お見事ですわ、ケルベロスちゃん」
ヴィクトリアは、震える膝を隠しながら拍手をした。
暗殺者たちは、衛兵によって「パーティーの興を削いだ不届きな役者」として、失禁したまま引きずられていった。
パーティーの終わり。
カラムは疲れ果てた様子で、クロを抱き上げた。
「……クロ。あんな派手なことしちゃダメだってば。俺、心臓が止まるかと思ったよ」
「フン、ワシが守ってやったのだ、感謝せよ。あの虫ケラどもは、今頃冥界の悪夢にうなされているはずだ」
「はいはい、お疲れ様。……でも、凄かったな、あの煙。クロ、本当に手品が得意なんだな」
カラムは、クロが放ったのが「本物の地獄の門」の一部だったとは、最後まで気づかなかった。
ヴィクトリアは、帰路につこうとする二人の前に立った。
「カラムさん。今日のパフォーマンスで、わたくしの決心は固まりましたわ。……その子犬を譲ってという話は、撤回します」
カラムがホッとしたのも束の間、彼女は妖艶に微笑んだ。
「その代わり、わたくしは決めました。……あなたごと、わたくしの『お抱え冒険者』として、コレクションに加えることにしますわ」
「ええっ!? お抱え冒険者!?」
「ええ。ロザリア家の援助があれば、あなたはコツコツと働く必要もありません。最高級の肉も、毎日用意して差し上げますわ。……その代わり、次のティーパーティーでも、その素敵な『厨二病設定』を披露していただきますけれど」
ヴィクトリアの目的は、クロという「個体」から、カラムとクロという「異質なコンビ」そのものへと移り変わっていた。
「フム。貴族のパトロンか。ワシの威光を広めるには悪くない足場だ。カラム、許可してやってもよいぞ」
クロが満足げに尻尾を振る。
「……えーっと、考えさせてください」
カラムは困惑しながらも、クロを抱きしめる力を強めた。
そして、真実を知る者は誰もおらず、ただ「最強に可愛い厨二病の子犬」の伝説だけが、王都の社交界を席巻し始める。
──その裏で。
気絶した暗殺者たちの尋問から、この「可愛い子犬」の正体に近づこうとする影が、密かに動き出そうとしていた──。




