10.平穏を乱す者
帝国最強の暗殺部隊『冷灰』の筆頭であったヒクウは、今、人生最大の戦術的困難に直面していた。
場所は王都ルアウムの下町。安アパート「二〇二号室」──カラムとクロの住む部屋の、真隣である。
「……周辺状況、クリア。半径五十メートル以内の全潜在的脅威、無力化完了」
ヒクウは薄暗い室内で、機能性を重視したタクティカルな平服に着替えながら、淡々と独り言を漏らした。
彼女の瞳には、標的を仕留める時以上の、冷徹で鋭い光が宿っていた。
ヒクウは、カラムに命を救われた(と思い込んでいる)恩義を返すため、そして「測定不能の脅威の個体」たるクロを近距離で観察し、懐へと入り込み、もふもふのブラッシング権を得るため、帝国を離脱し、この街の住人となったのだ。
「カラム様は、著しく防衛本能が欠落している。そしてクロ様は、あまりにも力が強大だ。……私のようなプロの『掃除屋』が、その境界線を管理せねばならない」
ヒクウは、壁に設置した超高感度の集音器に耳を寄せた。
「さあ、クロ。今日の朝ごはんは上手に焼けた目玉焼きだぞ!」
「フム。黄身の焼き具合が、冥界の深層に棲む『粘王ネザースライム』のような食感……完璧だな。褒めてやろう、カラム」
隣から聞こえるあまりに無防備な会話に、ヒクウの口元がわずかに綻ぶ。
「……この平穏を乱す者は、たとえ神であろうと排除する」
その日の午前中。カラムがギルドへ向かうため外へ出ると、ヒクウの「徹底護衛」が開始された。
ヒクウの護衛に派手さはない。徹底した「気配の消去」と「効率的な排除」である。
まず、カラムが道端の石に躓きそうになった。
その瞬間、物陰から音もなく放たれた極細の鋼糸が、カラムの足元にあった石を瞬時に「細断」。カラムが足を地面につく頃には、石はただの砂利へと姿を変えていた。
「あれ? 今、足元で何か……気のせいか。それにしても、なんだか今日は道が歩きやすいな」
「ワン!(貴様、今の切断術、一歩間違えればカラムの足の指ごと飛ばしていたぞ、ヒクウよ)」
クロだけは、路地裏の影に同化したヒクウの殺気に気づいて呆れていた。
さらに、市場でカラムが強引な客引きに絡まれた時のことだ。
「おい兄ちゃん、この新鮮な魚、全部買っていけよ!」
そう言ってガラの悪い商人が鮮度の欠片もない腐りかけの魚を売りつけるべく、カラムの肩を掴もうとした瞬間──。
商人の足元に、音もなく一滴の特殊な劇薬が滴り落ちた。直後、猛烈な悪臭を放つ煙が立ち込め、商人は白目を剥いて卒倒した。
「ひ、ひぃっ!? 急に倒れた!? 大丈夫ですか、おじさん!」
クロはため息をついた。
(……おい、ヒクウ。非致死性とはいえ、神経ガスを使うな。市場がパニックになるだろうが)
夕方。ギルドで依頼を終えたカラムが、困り顔でリリアに相談を持ちかけた。
「リリアさん……最近、なんだか怖いんです。俺が行く先々で、物が勝手に粉々になったり、俺に話しかけようとした人が急に泡を吹いて倒れたり……。まるで見えない何かに憑りつかれてるみたいで」
リリアは驚いて身を乗り出した。
「ええっ!? 怪我は無いですか!?」
「はい……怪我はないんですが、なんだか不安で……」
「それって、もしかして……暗殺者に狙われてる……とかじゃないかしら!?」
「あ、暗殺者……? 俺みたいな平凡な冒険者が!?」
「……うーん。きっとカラムさんは優しすぎるから、悪い組織に目をつけられたのよ! そう、きっとそうよ! その背後にいる『見えない影』が、カラムさんの周りから人を遠ざけて、一人になったところを仕留めるつもりなのよ!」
リリアの過剰な想像力に、周囲の冒険者たちも色めき立った。
「おい、聞いたか? カラムに帝国の暗殺者がついてるらしいぞ」
「見えない影……暗殺者……『呪いの死神』といったところか……」
「呪いの死神か……許せねえ。あんないい奴と、可愛いケルベロス(設定)を狙うなんて卑劣だぜ!」
その話を、ギルドの天井裏で通気口から盗み聞きしていたヒクウは戦慄した。
(……な、何ということだ。私の完璧と思っていた護衛の隙をついて、カラム様の命を狙う暗殺者が近づいていたというのか……!? 全く気づかなかった……気が緩んでいたのか……失態だ……!)
ヒクウは自責の念に駆られ、拳を強く握りしめた。
(名誉を挽回せねばならない。カラム様の平穏を脅かす邪魔者──すなわち、暗殺者『呪いの死神』を特定し、カラム様の前に無力化して差し出すのだ!)
だが、ヒクウは気づいていなかった。
現時点で、カラムにとって最大の「恐怖」は、精密すぎるヒクウの暗殺技術による護衛そのものであり、『呪いの死神』とは自分のことであるのを。
──その夜、アパートの周辺。
ヒクウは『呪いの死神』をおびき寄せるため、あえて微弱な殺気と魔力を放ちながら、建物の周りを徘徊していた。
一方、リリアは「カラムが『呪いの死神』という暗殺者に狙われている」とジャイルに相談を持ち掛け、自警団と共に魔導探知機を携えてアパートを包囲していた。
(……っ! 微弱な魔導反応アリ! 二階のテラスを移動中! 逃がさないわよ、呪いの死神!)
リリアが標的を指差しながら周りに伝える。自警団に緊張が走り、リリアの指差す方向へ視線を向けると、月光を反射する特殊繊維のスーツを纏い、周囲を警戒するヒクウの姿があった。
「……捕捉された。が、ついに姿を現したな、カラム様の命を狙う者よ。カラム様の平穏は邪魔させない」
ヒクウは、自分を追っているのが「カラムを守ろうとする有志」だと気づかず、呪いの死神とその小隊だと判断した。
「目潰し、投下」
パァァァァァァァァン!!!
アパートの周囲が強烈な閃光に包まれる。
「うわあああ! 目が、目がぁぁ!」
「爆発だ! 敵襲だ!」
近所の住民たちがパニックになり、外へ飛び出してくる。その中には、寝巻き姿でクロを小脇に抱えたカラムもいた。
「な、なんだ!? 爆発!? クロ、大丈夫か!?」
「ワン!(おい、ヒクウ! 住宅街で閃光弾を使うなと何度言えばわかるのだ!)」
煙と光の中から、ヒクウがカラムの前に音もなく着地し、片膝をついた。
「カラム様、ご安心を。周辺の『害虫』は、私がすべて駆除いたします」
「えっと……ヒクウさん!? 大丈夫ですか!? って、なんでそんな、黒い戦闘服みたいなの着て、何してるんですか?」
そこへ、目をこすりながらリリアたちが突入してきた。
「見つけたわ、呪いの死神! って……あれ? ヒクウさん?」
「……リリアさん……呪いの死神は……」
静まり返る現場。
ヒクウは自動装填式のクロスボウを構えたまま凍り付き、カラムは目を丸くし、リリアは信じられないものを見るような目を向け、静かに問いかける。
「……ヒクウさん。あの、もしかして、最近のカラムさんの周りで起こっている出来事って……全部、あなたが?」
状況を理解したヒクウは、ゆっくりと武器を収めて深く頭を下げた。
「……申し訳ございません。私は、ただ……カラム様にお粥の恩義を返すべく、護衛を実施していたのですが……その、えっと……」
「……え、僕を守ってくれてたの?」
カラムは驚いたが、すぐにいつもの、全てを許容するような笑顔になった。
「あはは、そうだったんだ! 死神じゃなくて、ヒクウさんが守ってくれてたんだね。ありがとう! でも、目の前の人が急に倒れたりするのはちょっとびっくりしちゃうし、怪我もしちゃうから、ああいうのはもうやめてほしいかな」
「……畏まりました……以後、戦術を修正します」
ヒクウの頬が、わずかに赤らんだ。
リリアは呆れたように頭を抱えた。
「もう……。暗殺者って、加減を知らないんだから。でも、これだけの腕前でカラムさんを守ってくれるなら、心強いわね」
「この命に代えてもカラム様の平穏をお守りします」
「ねぇ、ヒクウさん。あなた、ここで暮らしていくなら仕事をしてお金を稼がないとでしょう?」
「実は……資金が底をつき始めていて……でも、私みたいな人間……」
「そうね、本当は他国の暗殺者なんて捉えられて極刑になるところだけど……」
「ちょ、ちょっとリリアさん……そんなこと言わずに、何とかならないんですか?」
「カラムさん、話しは最後まで聞いて」
リリアはヒクウに歩み寄り両手を握り、目を見つめる。
「ヒクウさん、あなた良い人そうだし、冒険者登録して、その力を人手不足のギルドのために使ってくれないかしら? ギルドマスターには私から伝えておくわ」
その言葉を聞いたヒクウは、俯き何も言えずに手を強く握り返し小刻みに震えていた。
こうして、新たな「精密すぎる守護者」が正式に生活圏に加わった。
ヒクウは今日も隣の部屋からカラムの日常を(今度はもう少し、バレないように)守り続けることになった。
クロは窓辺で月を見上げながら、深い溜息をついた。
(……カラムよ。貴様の周りは、いつからこんなに『加減を知らぬ連中』ばかりが集まり騒がしくなったのだ。……まあ、ワシの抜け毛を『神の聖遺物』として小瓶に詰めて保管しているあのヒクウの奇行に目を瞑れば、この賑やかさも、悪くはないがな)
王都の夜は、今日も平和に、そして以前よりも静寂な護衛と共に更けていくのであった。




