シャイレンドルの闇
動けるようになるまでしばらく時間がかかった。自分の中の光を集めて幻覚にぶつけたために、思ったより体力を消耗している。回復も遅い。ここが結界の中であるためかも知れなかった。
自分が床に倒れていることはわかる。次の攻撃が来ないことを願って、丸くなったままじっとしていると、やがて浅かった呼吸が平常に戻ってきた。
手足に多少しびれが残るものの、動かしていれば何とかなりそうだ。
そっと起き上がると、辺りは異様なまでに静かだった。先ほどまでの何かをはらんだ静けさではなく、何もない、空っぽの静けさ。
部屋中に飛ばした明かりの炎は健在だ。地の王の姿も気配もない。
「……あいつはどうしたんだ」
いつもの騒がしい相棒の気配がない。近くにいるならさっさと目を覚ましてくだらない軽口を叩いていそうなものだ。闇魔法に耐性があると言っていたが、ひょっとして別の場所に運ばれたのか……と思いかけたところに、五歩と離れていない距離に転がっている男が見えた。
黄色に近い金髪。今は見る影もないが、元は白かったと思われる衣装。
相棒に間違いなかった。ただ、すぐにそう認められなかったのは、転がった男がまるで死体のように無防備に手足を投げ出していたからだった。
考えるより先に体が動いた。
二歩で相手のところへ歩み寄り、脈を取る。一瞬心臓が飛び上がった。
脈が弱すぎる。流れたちのせい……と思ったがそうではないようだ。もしそうなら、呼吸が浅いはずだ。
逆に異様なまでにゆっくりと深い呼吸は、昏睡状態に陥っていることを示している。こういう状態の人間を、ユレイオンは過去一度だけ見たことがあった。
あれは、シャイレンドルに引き会わされる前の塔でのことだ。
導師たちに無断で精神飛翔の術を試みた同期の一人が、遠くへ飛びすぎて帰れなくなったのだ。その同期の友が発見された時も、ちょうどこの状態だった。
お調子者の気のいいやつだった。特に親交はなかったが、同年代の中でも目立つ男だったのでよく覚えている。
仲間同士の軽口合戦がもつれたのだという。
「おまえになんかできやしないさ」そう言われて奴は「まあ見てろよ」と言って別れた。仲間はまさかやるとは思わなかったが、その若者は自分の力を過信した挙句、帰れなくなった。
導師たちや、果ては当時の塔長まで呼び返しに加わったが、発見が遅すぎたのが災いして、とうとう呼び返すことはできなかった。
その男の体は次第に衰弱してただの死体となり、軽口の相手は立ち直れず塔を去った。
……あの時と同じだ。
ユレイオンはゾッとする事実に行き当たった。
この空間は黒魔術で閉じられていて、外へ飛ぶことはできない。それならば、唯一残されているのは己の内部空間、シャイレンドル自身の心の中だ。
自分が先ほどまでさまよっていたように、彼もまた己の中に取り込まれ、何らかの事情で自分の奥深くへとはまり込んでしまったのだ。
自分の内部とはいえ、体を置き去りにしていることには変わりない。このまま放っておけば、この体は完全に忘れ去られ、呼吸も心臓も止まり、単なる死体と化すだろう。
……つまり死だ。
ユレイオンは自分の体が震えてくるのを感じた。止めようとしても持ち主の意思に逆らって震え続ける。ぞくりとしてユレイオンは己が身をかき抱いた。
――これは恐怖だ。だが、何ほどそれが怖いというのだろう。死ぬことか?
いや、違う。「この男」が死ぬことだ……。
金髪の相棒がこれほど失いがたいものになっていたことに、ユレイオンは初めて気づかされた。
十四年前に家を出てきた時から、全てを捨てて魔術の習得に励んできたつもりだった。
親しい友も恋人も作らず、何人にも依存せずに自立して行動できる自分を作ってきたつもりだった。
この男にしても、ただの仕事上の相棒だと思っていた。
……だが、それは嘘なのだ。そう思い込もうとしていただけなのだ。自分は周りにいた人々を失うのが怖くて故郷を出てきたのであり……また誰かを失うのが怖くて親しい人間を作らずにいたのだ。この恐怖を味わうのが怖いばかりに……。
そして今に至って、こんなにもこの相棒にそばにいて欲しいと思っている。
騒がしいこの金髪男に「何やっとんねん」と茶化してほしい。「そんなとこでガキみたいにあほやな」と。
そうしたら自分は憤慨したふりをして立ち上がれるだろう。こんなところでなすすべもなく震えている代わりに、悪態をつきながらすべきことを考えることができるだろう。
だが、その相棒がいないのだ。
それは覆せない事実だった。
自分には彼のこの体を維持する力はない。この男に死なれたくなかったら、彼の精神を呼び戻すしかないのだ。
だが、単なる呼びかけだけでは戻れないほど、相棒の心は深く潜りすぎている。その状態の相棒を呼び戻すには、自分自身が相棒の心に飛び込んで連れ戻すしかなかった。
他人の心に入り込む行為は、塔の定める魔術師規定の重大な違反だった。その理由は魔術を使う者であればだれでも心得ている。
要するに危険すぎるのだ。
他人の心の中はいわばその人物が完全に支配する一つの異空間である。その中に飛び込めば、飛び込んだものもその者の支配を受けることになる。飛び込まれた側に敵意があれば、侵入者を異物として抹殺することも容易であるし、それほどでなくとも飲み込まれたまま帰ってこれなくなる可能性は極めて高い。
そして、飛び込まれた側が何らかの事情で死亡するようなことがあれば、侵入者もろともとなるのは確実である。
だからこそ、魔術を悪用し、人を惑わす魔導師たちも、他人を欺くのに暗示をかけるにとどまり、心まで入り込もうとはしないのだ。
そしてもう一つ、ユレイオンにはためらう理由があった。
シャイレンドルを呼び戻すために彼の心の中に入るということは、よくも悪くも彼の本質を見るということになる。そして否応なく相棒の、ユレイオン自身に対する評価をも見ることになる。
先刻自分を惑わしかけた幻覚が脳裏をよぎる。
あれは自分の不安の投影、具現。真実かもしれないし、誤りかもしれない。可能性は半々だ。だからこそ、偽りである可能性にしがみつくことができた。
だが……これから見るものは真実なのだ。その結果如何では、シャイレンドルを仮に呼び戻すことができたとしても、ユレイオンは彼を永遠に失うことになるかもしれないのだ。
「……愚かな考えだな」
ユレイオンは苦くつぶやいた。
全力を尽くしても取り戻せるかどうかわからないのに、その後のことを思い煩うなど、愚の骨頂だ。
目の前に横たわる体をじっと見下ろす。
「俺はおまえを取り戻したい。……動機はそれで十分だよな」
唇を噛みしめる。迷っている暇はないのだ。
「うまく行かなかったら地獄でゆっくり恨み言を聞いてやる。それで満足しろよ」
応えない相手にささやき、ユレイオンは精神集中を始めた。




