09.彼女がいない朝
朝になっても、リーゼは目を覚まさなかった。
医療用テントの中は静かだった。
薄い布越しに朝日が差し込み、寝台の脇に置かれた水差しを照らしている。外からは、団員たちが朝食の準備をする音や、装備を点検する声が聞こえていた。
いつもなら、その誰よりも早く起きているはずのリーゼは、まだ眠っていた。
額の熱は昨夜より幾分落ち着いていたが、身体には強い疲労が残っている。ミレーユの診察では、発熱に加えて、長く積み重なった疲労と魔力の消耗が影響している可能性があった。
今は安静にして、回復を優先する必要がある。
それが、医療担当者としてのミレーユの判断だった。
そしてガイウスは、その判断を守ると決めていた。
「リーゼさん、まだ起きないんですね……」
テントの入口で、エミルが心配そうに呟いた。
「ええ。眠れているなら、今はそのままにしておきましょう」
ミレーユは器具を片づけながら答えた。
「目が覚めたら水分を取ってもらうわ。食事も、食べられそうなら少しずつね。少なくとも、今日一日は仕事をさせないこと」
「今日一日、ですか」
「そうよ」
ミレーユの声には、迷いがなかった。
「リーゼがどう思うかは関係ないわ。今の状態では、本人が大丈夫だと言っても、その言葉だけで判断するわけにはいかないもの」
エミルは、うつむいた。
昨夜、リーゼは倒れかけるまで自分の不調を伝えなかった。
彼女が平気だと言ったから、周囲もそれ以上は踏み込まなかった。
だが、本当に平気だったのなら、あんなふうに身体を支えられなければ立っていられなくなることはなかっただろう。
「俺、昨日、顔色が悪いって伝えたんです」
エミルはぽつりと言った。
「リーゼさんも、少し寝不足だって答えてくれました。そのとき、もう少しちゃんと聞けばよかったのかなって……」
「あなたが気づいたことは、大切なことよ」
ミレーユは彼を見た。
「でも、気づいた人が一人で責任を背負う必要はないわ。リーゼの体調を見守ることも、彼女が無理をしなくていい環境を作ることも、みんなで考えることなのだから」
「……はい」
「それにね、エミル。誰かの不調に気づくというのは、本人を問い詰めることではないの。休める状況を作ったり、仕事を引き受けたり、助けを求めても困らないと伝えたりすることもできるでしょう?」
エミルは、ゆっくりと頷いた。
助けるということは、ただ声をかけるだけではない。
相手が助けを求められないときにも、負担を減らせるようにすること。
彼は、その意味を少しだけ理解した気がした。
「分かりました。俺、みんなにも伝えてきます。今日はリーゼさんに仕事を頼まないように」
「そうね。お願いするわ」
エミルは一度だけ医療用テントを振り返り、それから外へ出ていった。
寝台の上で、リーゼは静かな寝息を立てていた。
彼女が眠っている間にも、黎明の翼の朝は始まろうとしていた。
ただし、今日の朝は、いつもと同じにはならなかった。
◇
「リーゼが今日の探索に参加できない?」
朝食の席で報告を受けたガイウスは、思わず聞き返した。
「ええ。ミレーユの判断だ。今日は安静にさせる」
セラが答えた。
「分かった。探索は予定を変更する。遺構の内部へ進むのは中止だ。周囲の安全確認と、昨日までに得た情報の整理にとどめよう」
ガイウスはすぐに決めた。
未知の遺構を調査する以上、慎重すぎるということはない。防衛機構の存在も確認されている。支援担当者が一人欠けたことだけが理由ではなかったが、昨日の戦闘を踏まえれば、無理に探索を進めるべきではなかった。
「各班は、まず担当の記録をまとめてくれ。負傷者の状態も、ミレーユと連携して確認する。物資はブリジットが管理する。探索の再開は、それらを確認してから判断する」
指示を受けた団員たちは、頷いて動き始めた。
その様子を見て、ガイウスはわずかに息を吐いた。
彼らは動ける。
昨日までに作った記録形式もある。それぞれの担当も決めてある。リーゼがいなくても、基本的な作業は進められるはずだった。
実際、最初のうちは問題なく進んだ。
物資の数はブリジットが確認し、探索記録はエミルたちが整理した。ノアは守護像の魔力構造について、分かったことと未確認のことを分けてまとめている。
それぞれが、自分の仕事を理解していた。
しかし、一時間ほど経った頃から、小さな問題が次々に浮かび上がってきた。
「ガイウスさん、ちょっといいですか?」
最初にやってきたのはブリジットだった。
「どうした?」
「食料の残数は確認できました。ただ、今日の昼食をどの順番で配分するか、少し迷っているんです」
「配分の順番?」
「ええ。魔術師の方たちは、昨日の戦闘で魔力をかなり消耗しています。前衛にも疲労が残っていますし、負傷した人には食べやすいものを回したいんですが……」
ブリジットは手元の記録を見た。
「リーゼさんは、いつもそのあたりも考えて配分を調整していたんです。でも、記録には数量と品目しか残っていなくて」
ガイウスは、少し眉を寄せた。
「そうか……」
食料の数量を管理することと、状況に応じて配分することは別の仕事だ。
ブリジットは必要な数量を把握している。しかし、その場にいる団員たちの状態を考慮して、どの食料を誰に回すかという判断までは、十分に共有されていなかった。
「まずは、食事に関する要望と体調を確認してくれ。必要ならミレーユにも相談して、配分を決めよう」
「分かりました」
ブリジットが去ると、今度はセラがやってきた。
「前衛の交代について相談だ。昨日の疲労が残っている連中を休ませるのはいいが、誰を先に交代させるか、判断に迷っている」
「本人たちには確認したのか?」
「ああ。だが、平気だと言う者もいる。実際の動きを見れば疲れが残っていると分かるんだが、どこまで休ませるべきか……」
セラは腕を組んだ。
「リーゼは、そのあたりをよく見ていた。本人が何も言わなくても、歩き方や装備の扱い方で、疲労を見抜いていたんだろうな」
ガイウスは、黙って頷いた。
また一つ、見えていなかった仕事があった。
さらにそのあと、ノアからも相談があった。
魔術師たちの魔力消費は記録できている。しかし、誰がどの程度の支援を必要としているのか、個人ごとの細かな傾向までは整理されていなかった。
リーゼはそれらを、頭の中で把握していたのだ。
記録に残っている情報だけでは分からないこと。
経験を積んだ本人が、日々の観察から身につけていた判断。
その多くが、彼女の中に留まっていた。
ガイウスは、机の上に広がった記録を見つめた。
記録を作る仕組みはできつつある。
それでも、すべての仕事が共有されたわけではなかった。
自分たちは、リーゼが何をしているのかを理解しているつもりだった。
だが、実際には、彼女がしていた仕事の一部しか把握していなかったのかもしれない。
◇
昼過ぎ、ガイウスは主要な班の担当者たちを集めた。
「一度、リーゼが担っていた仕事を洗い出そう」
彼は、集まった面々を見渡した。
「記録に残っているものだけじゃない。普段、リーゼが気を配っていたことも含めて、思い出せるものを挙げてほしい」
「……仕事を、全部ですか?」
エミルが尋ねた。
「全部を正確に思い出すのは難しいだろう。だからこそ、みんなで考えたい」
ガイウスは紙を広げた。
「俺たちは、リーゼが何でも引き受けてしまうことを知っていた。だから、仕事を分ける仕組みを作ろうとした。だが、それだけでは足りなかったらしい」
彼は、少し言葉を選んだ。
「彼女が普段、何を見て、何を判断しているのか。それを俺たちが知らなければ、仕事を分けることもできない」
最初に口を開いたのはセラだった。
「前衛の疲労管理だな。本人が気づかない変化まで見ていた。足の運び方や剣の振り方、呼吸の乱れ。そういうものを見て、交代のタイミングを考えていたはずだ」
「魔術師の魔力管理もそうですね」
ノアが続いた。
「単純な魔力量だけではなく、回復の速さや、魔法を使うときの癖まで把握していました。個人ごとに、適切な支援の仕方を変えていたんです」
「食事もです」
ブリジットが言った。
「全員に同じものを配るだけじゃなくて、疲れている人や体調を崩しかけている人には、食べやすいものを優先していました。いつ、誰が何を食べたか、細かく覚えていることもありました」
「それから、装備の状態ですね」
エミルも加わった。
「俺が新しい槍を使い始めたとき、握り方が合っていないことを教えてくれました。自分では気づいていなかったんですが、疲れがたまりやすい持ち方だったそうです」
「新人の訓練にも、よく顔を出していたな」
ガイウスが呟いた。
「誰かに頼まれたからというより、ちょっとした変化に気づいて、必要そうなら声をかけていた」
「あと、団員同士のこともです」
ミレーユが、静かに話し始めた。
「誰が誰と組むと動きやすいか。誰がどんなことを苦手にしているか。意見がぶつかったとき、どちらが何を気にしているのか。リーゼは、そういうこともよく見ていたわ」
その言葉に、しばらく誰も話さなかった。
挙げられた仕事は、数えきれないほどあった。
しかも、それらの多くは、正式な担当として決められていたものではなかった。
決まった時間に行う仕事でも、特定の帳簿に残す仕事でもない。
リーゼが周囲を見て、必要だと感じたときに、自然と行っていたことだった。
誰かが疲れていると気づけば、交代を勧める。
装備の不具合を見つければ、修理を提案する。
新人が困っている様子なら、声をかける。
食事の量が足りなければ調整し、班同士の連携がうまくいっていなければ、互いの得意分野を考えて配置を見直す。
それらは一つひとつなら、小さな仕事だった。
ほんの数分で終わることもある。
特別な技術を必要としないこともある。
だからこそ、誰も、それを大きな負担として認識していなかった。
しかし、数分の仕事が一日に何度も積み重なれば、どうなるのだろう。
十人の小さな困り事に対応すれば、十回分の時間が必要になる。
百人の様子に気を配れば、百人分の情報を覚えておかなければならない。
しかも、相手が困っているかどうかは、いつも分かりやすく表れるわけではない。
声をかけるべきか。
今は見守るべきか。
本人に任せるべきか。
誰かに相談したほうがいいのか。
リーゼは、その判断を毎日のように繰り返していたのだ。
「……俺たちは、仕事の量を見誤っていたのかもしれないな」
ガイウスが呟いた。
「記録に残っている仕事だけを分けても、彼女が抱えていたものの一部しか減っていなかった」
セラは、腕を組んだまま目を伏せた。
「リーゼは、自分がやっていることを、仕事だと思っていなかったんじゃないか?」
その言葉に、ガイウスは顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「誰かが困っていたら、声をかける。疲れていそうなら、休むように言う。装備に不具合があれば、教える。リーゼにとって、そういうのは当たり前のことだったんだろう」
セラは、自分の言葉を確かめるように続けた。
「当たり前だから、誰かに分担してほしいとも思わない。自分がやれば済むことだから、わざわざ報告もしない。そういう小さな仕事が、毎日のように積み重なっていたんじゃないか」
ガイウスは、ゆっくりと頷いた。
リーゼは、正式な指示がなくても動いていた。
誰かから頼まれた仕事だけでなく、頼まれる前に必要なことを見つけていた。
だから、周囲は彼女の働きを正確に把握できなかった。
仕事を分けようにも、何を分ければいいのか分からない。
本人に尋ねても、『大したことではありません』と答えるかもしれない。
そして、その言葉を聞いた周囲は、彼女が無理をしていることに気づかないままになる。
まるで、終わりのない循環だった。
「これからは、そうした仕事も含めて、担当を決めよう」
ガイウスは言った。
「ただし、リーゼがしていたことを、そのまま誰か一人に引き継ぐわけじゃない。必要な仕事と、誰が担当するべきかを考え直す。全員が他の人の状態に少しずつ気を配れるようにするんだ」
「一人の代わりを探すのではなく、みんなで役割を持つわけですね」
エミルが言った。
「ああ」
ガイウスは頷いた。
「リーゼと同じ人間を、もう一人作ろうとする必要はない。彼女が一人で担っていたものを、俺たち全員で支えられる形に変えよう」
その言葉を聞き、ミレーユは静かに微笑んだ。
彼女が望んでいたのは、きっとそういうことだったのだろう。
リーゼの優しさを、別の誰かがそのまま真似する必要はない。
ただ、一人の優しさに頼り続けなくてもいいようにする。
誰かが気づけなかったことを、別の誰かが気づけるようにする。
誰かが休んでいる間も、ほかの誰かが自然に支えられるようにする。
それは、特別な一人を作ることとは違う。
互いに支え合うことのできる、組織を作ることだった。
◇
一方、その頃。
リーゼは、ゆっくりと目を覚ましていた。
最初に感じたのは、身体の重さだった。
瞼を開けるだけでも、少し力がいる。
喉が渇いていた。
起き上がろうとして、身体に力が入りにくいことに気づく。
「……あれ?」
いつものように起き上がり、身支度を整えようとした。
しかし、思うように身体が動かなかった。
リーゼは、しばらく天井を見つめていた。
何かがおかしい。
そう思った。
普段なら、どれだけ疲れていても、起き上がることはできた。
少し身体が重くても、立ち上がって歩き出せば、自然と頭が仕事に切り替わる。
けれど今は、ベッドから起き上がることさえ、ひどく億劫だった。
彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
昨日、ガイウスに支えられたことを思い出す。
ミレーユに診察されたこと。
今日は休むように言われたこと。
そして、最後まで『大丈夫です』と言おうとしていた自分のこと。
「……情けないわね」
小さく呟いた。
自分でも、なぜそんな言葉が出てきたのか分からなかった。
誰かが体調を崩したら、リーゼは休むように勧めるだろう。
自分で動けないなら、手を貸す。
仕事が残っているなら、誰かが代わりにやればいいと考える。
それなのに、自分が同じ状態になると、途端に何もできないことが申し訳なくなる。
役に立てない。
仕事を進められない。
誰かに頼るしかない。
それが、こんなにも落ち着かない。
リーゼは、目を閉じた。
今日は休む。
ミレーユにも、ガイウスにも、そう言われている。
だから、今は何もしなくていい。
頭では分かっている。
けれど、何もしないまま横になっていると、次々に気になることが浮かんでくる。
昨日の守護像について、ノアは何か新しいことに気づいただろうか。
記録の形式は、今日も問題なく使えているだろうか。
ブリジットは物資の配分に困っていないだろうか。
前衛の疲労は、きちんと管理されているだろうか。
エミルは、記録をまとめられているだろうか。
考えれば考えるほど、気になることは増えていった。
それでも、リーゼは起き上がれなかった。
自分の身体が、自分の命令に従ってくれない。
その事実が、彼女を不安にさせた。
今まで、自分は動くことで問題を解決してきた。
誰かが困れば、手を差し伸べた。
何かが足りなければ、準備した。
不安なことがあれば、先に調べた。
動いていれば、何かを変えることができた。
けれど今は、動けない。
だからこそ、初めてはっきりと感じていた。
自分には、どうすることもできない時間があるのだと。
◇
「リーゼ、起きた?」
テントの入口から、ミレーユが顔をのぞかせた。
「……はい」
「気分はどう?」
「少し、身体が重いです」
「頭痛や喉の痛みは?」
「まだあります」
「そう。じゃあ、無理に起き上がらなくていいわ。水を飲めそう?」
「はい」
ミレーユが身体を支え、水差しを渡してくれた。
リーゼは、ゆっくりと水を飲んだ。
「……みんなは?」
水差しを返して、最初に尋ねたのは、そのことだった。
「みんな?」
「探索のことです。遺構の調査は、予定どおり進んでいますか? 記録の整理も、まだ確認していないところがあって……」
「リーゼ」
ミレーユは、彼女の言葉を遮った。
「今日は、その話をしなくてもいいのよ」
「でも……」
「みんな、ちゃんと動いているわ」
ミレーユは、柔らかい声で言った。
「ガイウスが指揮をしているし、ノアは遺構の調査を進めている。セラも前衛の管理をしているわ。ブリジットとエミルも、自分の担当をしっかりこなしている」
「……そうですか」
リーゼは、ほっとした。
みんなが動いている。
自分がいなくても、困らずに仕事を進めてくれている。
それなら、安心していいはずだった。
けれど、胸の奥に、別の感情が生まれていた。
少しだけ、寂しい。
自分がいなくても大丈夫だと聞いて、嬉しいと思う。
それと同時に、自分が何もしていないことを、どこかで寂しく感じてしまう。
矛盾している。
けれど、そのどちらも本当だった。
「……よかったです」
リーゼは微笑んだ。
ミレーユは、彼女の表情をじっと見た。
「リーゼ。みんなが動けていると聞いて、安心した?」
「はい」
「それなら、今日は自分の回復を優先していいのよ」
リーゼは、少しだけ目を伏せた。
「……分かっています」
「本当に?」
責める口調ではなかった。
それでも、リーゼはすぐに答えられなかった。
自分の回復を優先する。
そのことが正しいと、彼女は理解している。
けれど、正しいと分かっていても、心がすぐについてくるわけではない。
自分が何もしない間にも、みんなは動いている。
自分が休んでいる間にも、仕事は進んでいく。
それは、望んでいたことだった。
それなのに、自分がそこに加われないことが、少しだけつらい。
リーゼは、ゆっくりと言葉を探した。
「……みんなに、迷惑をかけていないでしょうか」
ようやく口にした言葉だった。
ミレーユは、すぐには答えなかった。
彼女の顔を見つめ、それから静かに尋ねた。
「もし、あなたの大切な仲間が今のあなたと同じ状態だったら、どう思う?」
「……休んでほしいと思います」
「仕事が残っていても?」
「誰かに任せて、休んでほしいです」
「役に立てなくても?」
その質問に、リーゼは言葉を失った。
役に立てなくても。
何もできなくても。
ただ休んでいるだけでも。
大切な仲間なら、ここにいてほしいと思う。
無理をしてほしくないと思う。
仕事ができないことを、責めたりはしない。
そう答えることはできる。
でも、自分に対しては、同じことを思えなかった。
リーゼは、目を伏せた。
「……私は、まだ、うまくできないみたいです」
「何が?」
「自分のことを、仲間と同じように考えることが」
それを口にすると、胸の奥が少し痛んだ。
自分は、仲間を大切にしてきたつもりだった。
誰かが困らないように。
誰かが苦しまないように。
誰かが、自分の力を発揮できるように。
けれど、その輪の中に、自分自身を入れることができていなかったのかもしれない。
自分だけは、頑張らなければならない。
自分だけは、休んではいけない。
自分だけは、誰かを困らせてはいけない。
そんな決まりを、いつの間にか自分に課していた。
その決まりを守り続けた結果、今、自分はここにいる。
何もできずに、横になっている。
「……どうしたら、変われるんでしょう」
リーゼは、小さく尋ねた。
ミレーユは、彼女の髪をそっと整えた。
「一度に変わろうとしなくていいわ。まずは、今の自分が疲れていると認めること。それから、助けが必要なときは、必要だと伝えること」
「それだけで、いいんですか?」
「それだけのことが、あなたにとっては難しいのでしょう?」
リーゼは、何も言えなかった。
「だったら、最初はそれで十分よ」
ミレーユは微笑んだ。
「何でも一人でできるようになることだけが、成長ではないもの。自分一人ではできないことを認めて、誰かと一緒にできるようになる。それも、立派な成長だと思うわ」
リーゼは、静かに目を閉じた。
誰かと一緒に。
自分一人ではできないことを、誰かと一緒に。
それは、これまで仲間たちに伝えてきたことと、同じだった。
なのに、自分自身がそれを受け入れるには、まだ少し時間が必要らしい。
ミレーユは、彼女が眠りにつくまで、しばらくそばにいた。
◇
午後、ガイウスが医療用テントを訪れた。
「リーゼ、具合はどうだ?」
「朝よりは、少し楽になりました」
「そうか。無理に話さなくてもいいぞ」
「いえ、大丈夫です」
その言葉を口にして、リーゼははっとした。
また、同じ言葉を使ってしまった。
ガイウスも、それに気づいたようだった。
けれど、彼はすぐに指摘しなかった。
「今日は、探索を中止した。遺構の内部へ進むのは、全員の状態を確認してからにする」
「そうだったんですか……。すみません、私がいないせいで」
「違う」
ガイウスの声は、はっきりしていた。
「探索を中止したのは、俺がそう判断したからだ。遺構の状態も、昨日の戦闘も考えれば、今は無理に進むべきじゃない」
「でも……」
「リーゼ。お前の体調は、俺たちが考えるべき問題の一つだ。だが、お前が休んだことを理由に、責任を感じる必要はない」
リーゼは、彼を見つめた。
自分が休んだことで、仕事が止まる。
誰かが困る。
それが、ずっと怖かった。
だから、休むことを後回しにしてきた。
けれど、ガイウスは、自分が休むことも含めて、全体の状況を判断すると言っている。
自分がいないから、探索ができない。
そうではない。
今の状況では、探索を進めることが適切ではない。
その判断をするのは、ギルドの責任者であるガイウスだ。
リーゼが一人で背負う問題ではない。
「……分かりました」
彼女は、ゆっくり頷いた。
ガイウスは、少し安心したように息を吐いた。
「それから、昨日までの仕事について、みんなで話し合った」
「仕事、ですか?」
「ああ。お前が普段、何をしていたのか。俺たちが把握できていなかったことも含めて、できるだけ洗い出している」
リーゼの表情が曇った。
「……そんなことまで、しなくても」
「必要なことだ」
ガイウスは、彼女の言葉を遮るように言った。
「お前が何でも一人で引き受けていたことは知っていた。だが、何をどれだけ引き受けていたのか、俺たちは分かっていなかった」
「それは……私が、勝手にしていたことですから」
「そうかもしれない。お前が気づいて、自分から動いていたことも多いだろう」
ガイウスは頷いた。
「だが、だからといって、それをすべてお前一人に任せていいわけじゃない」
リーゼは、言葉を失った。
「誰かが困っていたら、助けたいと思う。それ自体は、悪いことじゃない。お前がそうやって助けてくれたから、俺たちが救われたこともたくさんある」
ガイウスの声は、穏やかだった。
「だが、助けたいと思う人間が一人しかいなければ、その人が疲れたときに、今度は助けることそのものが難しくなる。俺たちは、それを変えなきゃいけない」
「……はい」
「お前がしていたことを、全部そのまま誰かに引き継ぐわけじゃない。誰かが気づくべきことは、みんなで気づけるようにする。誰かが判断できることは、その人が判断できるようにする」
ガイウスは、少しだけ笑った。
「お前が休んでいても、安心していられるギルドにしたいんだ」
その言葉に、リーゼの胸が静かに揺れた。
自分が休んでいても、安心していられる。
それは、単に仕事が進むということではない。
自分がいなくても、みんなが困らずに済む。
自分がいなくても、危険に気づいてくれる人がいる。
自分がいなくても、誰かが困っている仲間に手を差し伸べてくれる。
そして、自分が休んでいることを、誰も責めない。
そんな場所になるということだ。
リーゼは、目を伏せた。
「……ありがとうございます」
「礼を言うことでもないさ」
ガイウスは、いつものように答えた。
けれど、今度は、それだけで会話を終わらせなかった。
「ただ、一つだけ約束してほしい」
「何でしょうか?」
「具合が悪いときは、早めに知らせてくれ。俺たちは、お前の状態を見ながら判断したい。お前が大丈夫だと言うことだけを、判断の基準にはしたくないんだ」
リーゼは、胸の奥が少し苦しくなるのを感じた。
自分の言葉だけでは、信じてもらえない。
そう受け取ることもできた。
けれど、ガイウスの表情には、疑いよりも心配が浮かんでいた。
彼は、リーゼを責めたいのではない。
彼女が自分の状態を伝えられるようになってほしいのだ。
無理をしてからではなく、無理をする前に。
動けなくなってからではなく、疲れたと感じたときに。
そのために、彼は言葉をかけている。
「……分かりました」
リーゼは、少しだけ迷ってから答えた。
「次からは、もう少し早く伝えるようにします」
「それでいい」
ガイウスは頷いた。
その言葉が、本当に実行できるかどうかは、まだ分からない。
けれど、約束しようと思えたこと自体が、リーゼにとっては小さな変化だった。
◇
ガイウスが去ったあと、リーゼはしばらく天井を見つめていた。
今日、自分は何もしていない。
記録の整理も、物資の確認も、探索の準備も、すべて誰かが担当している。
自分は、ただ眠り、身体を休めているだけだ。
それなのに、みんなは自分を責めなかった。
むしろ、安心して休めるようにすると言ってくれた。
そのことが、まだ少し信じられなかった。
自分が何もしなくても、ここにいていい。
誰かの役に立てなくても、仲間でいていい。
その考え方を、リーゼは何度も聞いてきた。
けれど、自分自身のこととして受け入れるのは、思っていた以上に難しい。
彼女は、ゆっくりと右手を持ち上げた。
普段なら、その手で記録を取り、魔法を使い、仲間の装備を確かめていた。
誰かが困っていれば、自然と手が伸びていた。
今は、何も持っていない。
手を伸ばしても、何かを解決するわけではない。
ただ、そこにあるだけだった。
リーゼは、自分の手を見つめた。
この手は、誰かを助けるためにある。
ずっと、そう思ってきた。
けれど、本当にそれだけなのだろうか。
誰かを助けられないとき。
何もできないとき。
誰かに助けてもらうしかないとき。
その手には、何の価値もないのだろうか。
答えは、まだ見つからなかった。
ただ、今は。
この手で何かをしなくても、誰かがそばにいてくれる。
それだけは、少しずつ分かり始めていた。
リーゼは目を閉じた。
身体は、まだ重い。
喉も痛いし、頭もぼんやりする。
早く元気になりたい。
みんなのところへ戻りたい。
できれば、いつもどおりに働きたい。
そんな気持ちが、まだ残っている。
けれど、今度は、ほんの少しだけ考え方を変えてみようと思った。
元気になったら、また誰かの力になればいい。
今は、誰かに支えてもらえばいい。
それも、仲間としてできることの一つなのかもしれない。
その考えが、すぐに心の底まで届いたわけではなかった。
まだ不安はある。
休んでいることへの罪悪感もある。
それでも、昨日までとは少し違う。
自分が休んでいる間にも、みんなは動いている。
そして、自分が戻ってきたときに、無理なく働けるようにと考えてくれている。
リーゼは、ほんの少しだけ微笑んだ。
次に目を覚ましたときは、今日よりも楽になっているだろうか。
そのとき、自分はもう少し素直に、助けを求められるだろうか。
まだ分からない。
けれど、今は答えを出さなくてもいい。
そう思いながら、彼女は再び眠りについた。
◇
その日の夜、黎明の翼では、新しい取り決めが一つ生まれた。
記録の担当を分けるだけでなく、各班が、仲間の状態を互いに確認する時間を設けることになったのだ。
疲労が強い者はいないか。
体調に変化はないか。
物資や装備に、見落としている問題はないか。
誰か一人がすべてを見るのではなく、それぞれが自分の周囲に目を配る。
そして、何か問題が見つかったときには、担当者だけで抱え込まず、必要に応じて班長や責任者へ報告する。
最初から完璧に運用できるとは限らない。
確認が形式だけになってしまうこともあるだろう。
報告された情報を、どう判断するか迷うこともあるだろう。
それでも、誰かが一人で気づき続けなければならない状態よりは、ずっとよかった。
「リーゼが元気になったら、この仕組みについても意見を聞こう」
ガイウスが言うと、ミレーユは頷いた。
「ええ。でも、まずは彼女自身が、きちんと休むことを覚えないとね」
「そうだな」
ガイウスは、医療用テントのほうを見た。
そこには、まだ眠っているリーゼがいる。
彼女がいないことで、初めて見えた仕事があった。
彼女がいないことで、初めて気づいた負担があった。
そして、彼女がいないことで、初めて考え始めた問題があった。
それらは、どれも、最初から存在していたものだ。
ただ、彼女がすべてを引き受けていたから、周囲には見えにくくなっていた。
支える人が、黙って支え続けている限り。
その人自身が苦しくなっていることに、周囲が気づけない限り。
善意は、いつしか当然のものとして扱われてしまう。
だからこそ、彼らは変わらなければならない。
誰か一人の善意に頼る組織から、互いの状態に気づき、互いに助けを求められる組織へ。
その変化は、まだ始まったばかりだった。
しかし、黎明の翼は、確かに一歩を踏み出していた。
そして、その一歩の先には、今まで誰も考えたことのなかった問いが待っていた。
誰かが困っているとき、手を差し伸べるのは誰か。
誰かが倒れそうなとき、その人を支えるのは誰か。
その答えを、一人の人間に任せてはいけない。
それが、彼らがリーゼの不在から学び始めた、最初の教訓だった。




