08.見えない傷は、声を上げない
翌朝、リーゼは自分の身体が思うように動かないことに気づいた。
目覚ましが鳴っても、すぐには起き上がれなかった。
まぶたが重い。
喉は昨日よりも痛み、頭の奥には鈍い重さが残っている。身体の節々にも、長時間働いた翌日のような疲労があった。
昨夜は早く休んだはずだった。
それなのに、疲れが取れていない。
「……おかしいわね」
リーゼは額に手を当てた。
少し熱があるような気もする。
けれど、はっきりとは分からなかった。彼女は体調を崩しても、動けるうちは仕事を続けてしまうことが多かった。身体が発する小さな警告に気づいても、それを休む理由にすることには慣れていない。
少し喉が痛い。
少し頭が重い。
少し身体がだるい。
その『少し』が積み重なっても、目の前に仕事があれば、そちらを優先してしまう。
これまでも、そうだった。
「今日さえ乗り切れば……」
呟いてから、リーゼは口を閉じた。
今日さえ。
明日になれば。
もう少しだけ。
自分は、何度同じ言葉を繰り返しているのだろう。
昨夜、ガイウスに休むよう言われた。実際、いつもより早く寝床に入った。それなら、今日も無理をせずに過ごせばいい。
頭では分かっている。
けれど、今日は探索隊が遺構の内部を調査する予定だった。未知の場所へ入る以上、不測の事態は避けられない。新しい記録形式の運用も、まだ始まったばかりだ。
自分がいなければ困ることがあるかもしれない。
そう思うと、休むという選択肢が遠のいていく。
リーゼはゆっくりと立ち上がった。
鏡に映った自分の顔は、普段より少し青白く見えた。
彼女は頬を軽く叩き、身支度を整えた。
「大丈夫。今日は、できることだけをする」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
できることだけをする。
それは、これまでの自分とは違う選択のはずだった。
ただ、リーゼはまだ知らなかった。
自分にできることが多すぎる人間にとって、『できることだけをする』という決意が、どれほど簡単に崩れてしまうのかを。
◇
「リーゼさん、おはようございます!」
食堂に入ると、エミルが元気よく挨拶した。
「おはよう、エミルさん」
「昨日の記録、さっそく役に立ちましたよ。遺構周辺の地形を班ごとに整理したら、危険な場所がひと目で分かるようになりました」
「それはよかったわね」
「あと、ブリジットさんが物資の確認表を少し変えたんです。搬入した人と確認した人を分けたら、どこで数が合わなくなったのか、調べやすくなったみたいです」
「素晴らしいわ」
リーゼは心からそう思った。
自分がすべてを整えなくても、仲間たちは必要な部分を見つけ、改善してくれている。
昨日までなら、自分が先に問題を発見し、自分で修正することが当たり前だった。
今は、誰かが問題を見つけ、誰かが案を出し、さらに別の誰かが使いやすい形に変えてくれる。
その変化は、確かなものになりつつあった。
「リーゼさん、顔色が悪くありませんか?」
エミルが、不意に尋ねた。
リーゼは一瞬だけ言葉に詰まった。
「そう?」
「はい。いつもより少し、疲れているように見えます」
「昨日、記録のことをいろいろ考えていたからかしら。少し寝不足なのかもしれないわね」
そう答えると、エミルは心配そうに眉を寄せた。
「今日は、あまり無理しないでくださいね。記録なら、俺たちでもできますから」
「ありがとう。頼りにしているわ」
リーゼは微笑んだ。
その言葉は、本心だった。
エミルたちが仕事を覚えてくれていることを嬉しく思っている。彼らに任せれば、今まで自分が一人で見ていた情報も、より多くの人が共有できるようになるだろう。
だからこそ、自分も少しずつ仕事を手放していけばいい。
そう考えていた。
けれど、エミルが離れていったあと、リーゼは胸の奥に小さな引っかかりを感じた。
彼は、自分の顔色に気づいた。
気づいたうえで、無理をしないようにと言ってくれた。
本当なら、その言葉を受け止めて、今日は休息を優先するべきなのかもしれない。
それなのに、自分は『少し寝不足なのかもしれない』と答えてしまった。
寝不足。
その言葉なら、誰も深く心配しない。
少し休めば治る。
その程度の問題だと思ってもらえる。
自分の体調が悪いことを、必要以上に大きな問題にしたくなかった。
みんなには、それぞれの仕事がある。
新しい仕組みを試している最中に、自分の体調まで気にかけてもらうのは申し訳ない。
リーゼは、そう考えていた。
だから、心配してくれたエミルに、本当のことを伝えなかった。
体調が悪いことを隠したかったわけではない。
ただ、自分の体調を、誰かに対応してもらわなければならない問題だとは思えなかったのだ。
◇
午前中、探索隊は遺構の内部へ入った。
石造りの通路は、外から見た以上に広かった。
壁には古い文字らしきものが刻まれ、ところどころに魔力を帯びた石が埋め込まれている。長い年月によって一部が崩れているものの、建造された当時の構造は、まだかなり残っているようだった。
「全員、慎重に進め。通路の先が確認できるまでは、陣形を崩すな」
ガイウスの指示が響いた。
先行班が周囲を確認し、その後ろを前衛、魔術師、支援担当者たちが続く。
リーゼは後方を歩きながら、周囲の魔力の流れを探っていた。
この遺構には、魔力が残っている。
それ自体は珍しいことではない。古代の建造物には、魔力を蓄える石材や、特定の条件で作動する仕掛けが残されている場合がある。
問題は、その性質だった。
ただ魔力が残っているだけなのか。
何らかの仕掛けが、今も動いているのか。
周囲の魔力を調べるたび、リーゼは少しずつ違和感を覚えていた。
「ノアさん」
彼女は前方にいる魔術師へ声をかけた。
「この通路の魔力、どう感じますか?」
「そうですね……。自然に残っている魔力というより、一定の流れを維持しているように見えます」
ノアは壁の石材に手を近づけ、慎重に観察した。
「ただ、どこにつながっているのかまでは分かりません。遺構のどこかで、魔力を循環させる仕組みが残っている可能性があります」
「もし、仕掛けが動いた場合は?」
「規模によりますね。単なる照明や扉の開閉なら問題ありませんが、防衛用の仕掛けであれば危険です。まだ断定はできません」
「分かりました。では、魔力の変化を記録しながら進みましょう」
リーゼはそう提案した。
ノアも頷いた。
二人は、周囲の魔力の状態を確認しながら歩き始めた。
しかし、しばらく進んだところで、リーゼは自分の思考が普段より遅くなっていることに気づいた。
魔力の流れを捉える。
周囲の地形を確認する。
団員たちの歩調と疲労の度合いを見る。
それらは、いつもなら自然に頭の中で結びついていた。
けれど今日は、一つの情報を整理している間に、別の情報への注意が遅れてしまう。
ほんのわずかな差だった。
誰かが気づくほどではない。
それでも、リーゼ自身には分かった。
身体の調子が悪いとき、集中力にも影響が出る。
それは当たり前のことだった。
だからこそ、無理をしてはいけない。
彼女は、一度立ち止まって深呼吸をした。
「リーゼ、どうした?」
ガイウスが振り返った。
「少し、魔力の流れを確認していました。問題ありません」
いつもの笑顔で答える。
ガイウスは彼女の顔を見たあと、周囲の壁に目を向けた。
「そうか。何か気づいたら、すぐに教えてくれ」
「はい」
彼が前に戻る。
リーゼも歩き始めた。
問題はない。
まだ、自分にできることはある。
そう思いながら。
◇
異変が起きたのは、通路が三つに分かれる場所へ到着したときだった。
「先行班から報告! 正面の通路は崩落していて、通行できません!」
「右の通路は?」
「奥に部屋があるようですが、扉が閉まっています。左は、さらに地下へ続いている可能性があります!」
斥候の報告に、ガイウスは地図を確認した。
「まずは正面の崩落箇所を調べる。ほかの通路へは、状況が分かるまで進まないこと」
指示が出され、数人の団員が崩れた石材の周囲へ向かう。
リーゼは、三つの通路を見比べた。
正面の崩落は、自然に起きたものだろうか。
それとも、何らかの仕掛けによって引き起こされたのだろうか。
壁に埋め込まれた石材の魔力は、先ほどより強くなっているように感じられた。
「ノアさん。魔力の流れが変わっていませんか?」
「……変わっています」
ノアの表情が険しくなった。
「先ほどよりも、右の通路へ魔力が集まっているようです。扉の仕掛けが反応しているのかもしれません」
「扉が開く可能性は?」
「あります。ただ、何が起きるかは分かりません」
その瞬間だった。
低い音が、遺構の奥から響いた。
石がこすれるような、不気味な音。
続いて、壁に埋め込まれた石が淡く光り始めた。
「全員、警戒!」
ガイウスの声が通路に響く。
右側の扉が、ゆっくりと開いていった。
その向こうから現れたのは、石と金属で構成された人型の守護像だった。
古代の魔力によって動く、遺構の防衛機構。
その身体には複数の魔石が埋め込まれ、顔にあたる部分には光る紋様が浮かんでいる。
「敵性反応を確認! 前衛、陣形を組め!」
守護像が一歩踏み出した。
重い足音が響く。
次の瞬間、守護像の腕から魔力の奔流が放たれた。
「防御!」
前衛が盾を構え、ノアたちが防御魔法を展開する。
衝撃が通路全体を揺らした。
石片が飛び散り、団員たちの間に緊張が走る。
リーゼは即座に状況を確認した。
前衛の防御は間に合っている。しかし、魔力の衝撃によって隊列が乱れ、後方の魔術師たちは次の詠唱に入れない状態になっていた。
守護像は、ゆっくりと腕を持ち上げている。
次の攻撃が来る。
「ガイウスさん! 正面からの攻撃を防いでいる間に、左右へ散開させてください。狭い場所に固まると、衝撃をまとめて受けてしまいます!」
「聞いたな! 左右に分かれろ!」
団員たちが動く。
リーゼは、前衛の一人に《俊敏の調律》をかけた。
続いて、詠唱を再開しようとしている魔術師たちへ《魔力循環補助》。
守護像の動きを観察し、次の攻撃までの時間を見極める。
そのとき、足元がぐらりと揺れた。
リーゼは反射的に壁へ手をついた。
視界が、一瞬だけ白くなる。
耳の奥で、遠くの音が鳴っているように感じられた。
「……っ」
息を吸う。
大丈夫。
少し、立ちくらみがしただけだ。
目を閉じている場合ではない。
前衛はまだ、守護像の攻撃を受け止めている。魔術師たちは反撃の準備を整えようとしていた。
ここで支援を止めれば、誰かが危険にさらされるかもしれない。
リーゼは、壁から手を離した。
そして、もう一度、魔法を発動させた。
◇
戦闘は、予想以上に長引いた。
守護像の防御は強固で、通常の剣撃ではほとんど傷がつかない。魔術師たちが魔石を狙って攻撃を加え、前衛がその隙を作る。
ガイウスが全体を指揮し、セラが危険な場所にいる団員を誘導する。
ノアは守護像の魔力の流れを見極めようとしていた。
リーゼは、戦況が崩れないよう支援を重ねていく。
ただし、すべてに手を出すわけではなかった。
前衛の疲労が一定の範囲に収まっているなら、過剰な支援は必要ない。魔術師たちも、自分たちで役割を分担し、詠唱の順番を調整している。
リーゼが担うのは、彼らだけでは対応しきれない部分だった。
その意味では、昨日までの経験が役に立っていた。
支援の対象を絞る。
必要な場面で、必要な支援を使う。
自分がすべてを背負わなくても、仲間たちは動ける。
それを、彼女自身も実感していた。
しかし、身体は確実に限界へ近づいていた。
魔法を使うたびに、頭の重さが増していく。
呼吸が浅くなり、喉の痛みも強くなっていた。
それでも、リーゼは自分の状態を確かめようとはしなかった。
今は戦闘中だ。
自分の体調について考えるのは、戦闘が終わってからでいい。
そうやって判断を後回しにしていた。
「リーゼさん!」
突然、若い団員の声が響いた。
視線を向けると、右側にいた前衛の一人が、崩れた床石に足を取られていた。
守護像の攻撃を避けようとして体勢を崩し、そのまま倒れ込んでいる。
近くの団員が助け起こそうとしていたが、守護像が次の攻撃を準備していた。
危険だった。
リーゼは考えるより先に動いた。
倒れた団員へ《俊敏の調律》をかけ、身体を起こす動きを補助する。
さらに、守護像の腕の動きを一瞬だけ鈍らせるため、《動作阻害》を放った。
「今です! 下がって!」
セラの声が飛ぶ。
団員は仲間に引き寄せられ、攻撃範囲から脱した。
間一髪だった。
リーゼは、安堵の息を吐いた。
助かった。
よかった。
その瞬間、膝から力が抜けそうになった。
視界の端が暗くなる。
身体の中から、力が抜けていくような感覚。
彼女は歯を食いしばり、どうにか立っていた。
倒れてはいけない。
まだ、戦闘は終わっていない。
自分が今ここで倒れたら、仲間たちが心配する。
戦闘の途中で余計な混乱を起こすことになる。
だから、まだ。
もう少しだけ。
その考えが頭をよぎったとき、リーゼは自分が何をしているのか、ほんの一瞬だけ理解した。
まただ。
また、自分の限界を後回しにしている。
それでも、身体を止めることはできなかった。
彼女は、最後にもう一度、魔力の流れを探った。
守護像の胸部に埋め込まれた魔石。
そこから全身へと伸びる魔力の経路。
腕の動きに合わせて、胸部の魔力が一時的に集中している。
「ノアさん! 胸部の魔石です! 攻撃の直前に、そこへ魔力が集中しています!」
「分かりました!」
ノアが詠唱を始めた。
ガイウスはすぐに状況を理解し、前衛に攻撃のタイミングを指示する。
「次の攻撃を誘え! 魔石が光った瞬間に、全員で胸部を狙う!」
セラが守護像の注意を引きつける。
守護像が腕を振り上げた。
その胸部に、強い光が集まっていく。
「今だ!」
ガイウスの声と同時に、魔術師たちの攻撃が放たれた。
複数の魔法が胸部へ集中し、魔石に亀裂が走る。
続いて前衛たちが踏み込んだ。
強烈な一撃が、守護像の身体を貫く。
魔力の流れが乱れ、全身の光が消えていった。
重い音を立てて、守護像が崩れ落ちる。
戦闘が終わった。
その瞬間、リーゼは壁に手をついた。
もう、身体を支えているのが難しかった。
◇
「リーゼ?」
ガイウスの声が聞こえた。
遠くから聞こえるようだった。
「どうした?」
「……大丈夫、です」
いつもの言葉が、口からこぼれた。
しかし、今度は自分でも、その言葉がひどく頼りないものに聞こえた。
大丈夫ではない。
頭が重い。
身体が熱い。
立っているだけでも、ひどく疲れる。
それでも、リーゼは顔を上げて微笑もうとした。
「少し、魔力を使いすぎただけです。休めば……」
言葉が途切れた。
目の前が揺れる。
身体の感覚が、急に遠くなった。
倒れる。
そう思った瞬間、誰かが腕を支えた。
「リーゼ!」
ガイウスの声が、今度ははっきり聞こえた。
彼の手が、彼女の肩を支えている。
リーゼは何かを言おうとした。
まだ、記録が残っている。
守護像の魔石について、あとでノアから詳しく話を聞かなければならない。遺構の魔力の流れも確認する必要がある。負傷者の状態も、物資の消耗も――。
考えが、まとまらなかった。
頭の中にあるはずの情報が、ばらばらになっていく。
何から伝えればいいのか分からない。
何を優先すべきなのか、判断できない。
こんなことは、初めてだった。
いつもなら、どれほど忙しくても、頭の中では次の手順が見えていた。
誰が何をすべきか。
何が必要か。
どこに危険があるか。
それらを考え、先回りして準備することが、自分の役割だった。
なのに今は、何も考えられない。
ただ、身体が重かった。
「ミレーユ!」
ガイウスが叫んだ。
「リーゼの様子を見てくれ!」
「分かったわ!」
駆け寄ってきたミレーユが、リーゼの額に手を当てた。
その表情が、すぐに変わった。
「……熱があるじゃない」
「え?」
ガイウスが息を呑む。
「かなり熱いわ。いつから?」
「……分かりません」
リーゼは、弱々しく答えた。
「昨日から、少し喉が痛くて……」
「昨日から?」
ガイウスの声に、明らかな驚きが混じった。
「どうして、言わなかったんだ」
責めるような言い方ではなかった。
それでも、リーゼは胸の奥が縮むのを感じた。
「大したことは、ないと思って……」
「大したことがあるかどうかを、お前一人で決めなくていいんだ」
ガイウスは、強い口調で言った。
リーゼは、何も答えられなかった。
ミレーユが彼女の腕を取り、体調を確認していく。
「今は話さなくていいわ。横になりましょう。歩ける?」
「……はい」
そう答えようとした。
けれど、立ち上がる力が出なかった。
ガイウスが、彼女の身体を支えた。
「俺が運ぶ」
「そんな……自分で、歩けます」
「今はいいから」
その声を聞いた瞬間、リーゼの胸に、何とも言えない感情がこみ上げた。
申し訳なさ。
情けなさ。
そして、安堵。
自分が誰かに支えられている。
自分が動けないから、誰かが代わりに動いてくれている。
それを、ありがたいと思う。
なのに同時に、自分はこんなことで人の手を煩わせているのだと、心のどこかで責めてしまう。
どうして、いつもどおりにできないのだろう。
どうして、少し休むだけのことができなかったのだろう。
どうして、自分の状態を、もっと早く伝えなかったのだろう。
答えは分かっていた。
心配をかけたくなかった。
仕事を止めたくなかった。
誰かが困るのを避けたかった。
でも、その結果として、自分が倒れかけてしまった。
もし、本当に動けなくなっていたら。
もし、戦闘中に意識を失っていたら。
今、自分が考えていることのすべては、もっと大きな問題になっていたかもしれない。
リーゼは唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
ガイウスは、一瞬だけ足を止めた。
「何に謝っている?」
「私が、ちゃんと……」
言葉が続かなかった。
ちゃんと働けなかった。
ちゃんと体調を管理できなかった。
ちゃんと、みんなに迷惑をかけないようにできなかった。
そんな言葉が、喉の奥につかえていた。
けれど、どれも口にすることができなかった。
ガイウスは、彼女の顔を見つめたあと、静かに言った。
「謝る必要はない。今は、休むことだけ考えろ」
その言葉に、リーゼの目が揺れた。
休むことだけ考えろ。
そんなふうに言われたのは、いつ以来だろう。
何かをしなければならない。
誰かの役に立たなければならない。
そうやって、いつも自分に言い聞かせてきた。
休むことを、何よりも優先していい。
その許可を、誰かからもらうことに、こんなにも戸惑うとは思わなかった。
リーゼは、ガイウスの腕に身を預けた。
その重さが、彼に伝わる。
彼女が普段、どれほどのものを一人で抱えていたのか。
それを、ガイウスはまだ、すべて理解しているわけではなかった。
けれど今、少なくとも一つのことだけは、はっきりしていた。
リーゼは、自分が思っていた以上に、疲れ切っていたのだ。
◇
簡易の医療用テントへ運ばれたリーゼは、ミレーユの診察を受けた。
高熱と疲労が重なっている。魔力を使いすぎたことも影響している可能性があるため、しばらくは安静にする必要があった。
「今日はもう、魔法を使ってはだめよ。水分を取って、きちんと休むこと」
ミレーユは、いつもより厳しい口調で言った。
「……はい」
「それから、体調が悪いときは、もっと早く知らせてちょうだい。少し喉が痛いだけでも、いつもと違うと感じたなら、相談していいのよ」
「でも……」
リーゼは、言いかけて口を閉じた。
相談していい。
そのことは分かっている。
けれど、実際にそうするには、まだ抵抗があった。
自分のことを後回しにするのが、長い間、当たり前になっていたからだ。
ミレーユは、彼女の手をそっと握った。
「リーゼ。あなたが誰かの体調を気にかけるとき、相手が大したことはないと言ったら、それだけで安心する?」
リーゼは、ゆっくり首を横に振った。
「……いいえ。様子を見て、必要なら休ませます」
「そうよね。あなたは、仲間の小さな変化に気づける人だもの」
ミレーユは柔らかく微笑んだ。
「でも、あなた自身については、どうして同じことができないの?」
リーゼは答えられなかった。
自分が仲間に向けている気遣いを、自分にも向ければいい。
言葉にすれば、それだけのことだった。
けれど、自分のことになると、判断が変わってしまう。
誰かが疲れていれば、休むように言える。
誰かが無理をしていれば、仕事を代わることもできる。
誰かが困っていれば、一人で抱え込まなくていいと伝えられる。
それなのに、自分自身には、同じことをしてあげられなかった。
自分なら、もう少し頑張れる。
自分なら、まだ動ける。
自分がやれば、誰かが困らずに済む。
そんな言葉ばかりを、自分に向けてきた。
優しさは、いつも他人へ向かっていた。
自分には、厳しさばかりを向けていた。
「……分かりません」
リーゼは、小さく答えた。
「どうして、自分にはできないのか……私にも、分かりません」
ミレーユは、彼女の手を離さなかった。
「今すぐ答えを見つけなくてもいいわ。まずは休みましょう。あなたが元気になってから、少しずつ考えればいい」
リーゼは、目を伏せた。
その言葉に、ほっとした。
今すぐ答えを出さなくてもいい。
今すぐ、変わらなくてもいい。
ただ、今日は休んでいい。
それだけを認めることが、今の彼女にできる精いっぱいだった。
◇
リーゼが休んでいる間、黎明の翼は動き続けていた。
ガイウスは探索隊の指揮を引き継ぎ、ノアは遺構の魔力構造を調べる。セラは前衛の交代を管理し、ブリジットは消耗した物資を確認した。
エミルは、戦闘の記録をまとめていた。
そこには、リーゼが使った支援の種類と、効果があった場面が記されている。
しかし、記録を整理しているうちに、エミルはあることに気づいた。
リーゼがいつ、どの魔法を使ったのかは書かれている。
けれど、彼女がどれほど疲れていたのかは、どこにも記されていなかった。
彼女が何度休息を取ったのか。
どれほどの魔力を消費したのか。
身体にどのような変化があったのか。
そうした情報は、ほとんど残っていない。
エミルは、ペンを止めた。
リーゼの支援は、いつも自然だった。
誰かが危険になれば、必要な魔法が飛んでくる。
動きが乱れれば、いつの間にか支えられている。
だから、彼は考えたことがなかった。
その一つひとつに、リーゼ自身の体力や魔力が使われているということを。
彼女の支援は、まるで空気のようだった。
なくなれば困る。
けれど、あること自体は当たり前で、その存在を意識することが少ない。
エミルは、今日の戦闘を思い出した。
リーゼは、危険な瞬間に何度も支援を使っていた。
それだけではない。
戦闘が始まる前から、遺構の魔力の流れを調べ、危険を予測し、団員たちが動きやすいように情報を伝えていた。
戦闘が終わったあとも、記録の整理や体調の確認をしていたはずだ。
彼女が担っていたものは、魔法だけではなかった。
「……俺たち、ちゃんと見ていたつもりだったのにな」
エミルは、ぽつりと呟いた。
リーゼが何をしているのか。
彼女がどれだけ自分たちを支えてくれているのか。
それを理解しようとしていた。
けれど、自分たちが見ていたのは、彼女がしてくれたことばかりだった。
彼女自身が何を感じていたのか。
どれだけ無理をしていたのか。
何がつらくても、それを口にしなかったのではないか。
そこまでは、考えられていなかった。
エミルは、記録用紙の余白に新しい項目を書き加えた。
――支援担当者の魔力消費と休息状況。
それから、少し考えて、もう一つ書いた。
――支援担当者の体調に異変がある場合、速やかに報告する。
書き終えた文字を見つめる。
これだけで、すべてが解決するわけではない。
それでも、何も記録されていなければ、誰も気づけないことがある。
大切なことほど、記録に残さなければ、いつの間にか見えなくなってしまうのかもしれない。
エミルは、そう考えた。
◇
夜。
医療用テントの中で、リーゼは眠っていた。
熱はまだ下がりきっていない。ミレーユの診察を受け、必要な処置を済ませたあと、彼女は深い眠りに落ちていた。
テントの外では、ガイウスが一人、遺構での戦闘を振り返っていた。
守護像への対処は、結果として成功した。
団員たちも、記録形式を使いながら、それぞれの役割を果たしていた。
組織として見れば、今日の探索は一定の成果を得たと言えるだろう。
しかし、ガイウスは手放しで喜ぶことができなかった。
リーゼが倒れかけた。
それも、彼女が自分の体調を知らせてくれたからではない。彼女が立っていることさえ難しくなり、初めて周囲が異変に気づいたのだ。
昨日、彼は彼女に休むよう伝えた。
今日も、無理をするなと声をかけた。
それなのに、彼女は体調が悪いことを言わなかった。
いや――。
ガイウスは、そこで考えを止めた。
言わなかったのではない。
言えなかったのかもしれない。
誰かに心配をかけることを避けようとして。
自分が動けなくなることで、仲間に負担をかけたくなくて。
自分の体調を、自分で何とかしようとして。
そうして、ぎりぎりまで無理をしてしまったのではないか。
ガイウスは、ゆっくりと息を吐いた。
自分は、リーゼの負担を減らそうとしていた。
仕事を分ける仕組みを作り、記録を共有し、彼女以外にも判断できる人間を増やそうとしていた。
それは、間違っていないはずだ。
けれど、彼女が仕事を抱え込む理由は、単に仕事が多いからというだけではなかった。
頼られれば、応えたい。
誰かが困っていれば、助けたい。
自分がやれば解決できるのに、やらずにいることが苦しい。
そして、自分が休むことで誰かが困るのではないかと、不安になる。
そうした気持ちが、彼女を動かしている。
ならば、仕事を分ける仕組みを作るだけでは、足りない。
彼女が休んでも、誰も責めないこと。
彼女が助けを求めても、迷惑だと思わないこと。
彼女が自分の限界を伝えたとき、周囲がそれを受け止められること。
そうした環境まで整えなければ、彼女は何度でも、自分を後回しにしてしまうだろう。
「……俺たちは、何を見落としていたんだろうな」
誰に向けるでもなく、ガイウスは呟いた。
リーゼは、いつも周囲を見ていた。
仲間の疲労に気づき、物資の不足を見つけ、危険の兆候を予測する。
誰かが困る前に、手を差し伸べる。
その働きは、あまりにも自然だった。
だからこそ、彼らは気づかなかった。
彼女自身も、誰かに気づいてもらう必要があったことに。
彼女が差し出す手にも、限界があったことに。
そして、自分たちが彼女を頼ることに慣れすぎていたことに。
ガイウスは、医療用テントの入口を見つめた。
中では、リーゼが眠っている。
今は、何もしていない。
誰の役にも立っていない。
少なくとも、彼女自身はそう感じているかもしれない。
けれど、彼女がここにいることを、ガイウスは当たり前だと思いたかった。
働けるからではない。
誰かを助けられるからでもない。
黎明の翼の仲間だからだ。
そして、仲間であるならば。
支えてもらうだけでなく、自分たちも支えなければならない。
彼女が一人で抱え込まなくてもいいように。
彼女が『大丈夫です』と言わなくても、安心していられるように。
そのために何をすべきなのか。
ガイウスは、まだ明確な答えを持っていなかった。
ただ一つ、はっきりしていたことがある。
リーゼが倒れかけるまで、自分たちが彼女の疲労に気づけなかった。
それは、リーゼ一人の問題ではなかった。
黎明の翼という組織そのものが、考えなければならない問題だった。
誰かの優しさに頼り続けることと、その人を大切にすることは、同じではない。
その当たり前の事実を、彼らは初めて、身をもって知ったのだった。
そして、眠るリーゼの手元には、開かれたままの手帳が置かれていた。
最後に書かれていた言葉は、短いものだった。
――みんなで考えれば、私が気づかなかったことにも気づける。
それは、確かな一歩だった。
けれど、次のページは白いままだった。
彼女自身の疲れを、誰かと共有するための言葉は、まだそこにはなかった。




