間に入る土
小祠跡へ戻るまでの道は、行きより短く感じた。
足の運びが変わったわけではない。
ただ、見るべきものが決まったからかもしれない。
ロルフは鍬を肩に担いだまま、旧街道の地面を踏むたびに足裏の感触を確かめていた。
表層は乾いている。
でも、その下は昨日と違う。
ごく微かに、押し返してくる気配がある。
(もう待てないか)
急いているわけではない。
ただ、白い楔に入ったひびが、自然に広がることを"下"は望んでいないのだろう。
人間の都合を待つよりも、自分が動く方が早いと判断した、ということだ。
「ロルフ様」
シオンが隣に並ぶ。
ルカはシオンの手を握ったまま、三歩後ろについてくる。体力はまだ乏しいが、足取りは朝よりしっかりしていた。
「楔を外した後、流れはすぐに安定しますか」
「しないよ」
ロルフは即答した。
「長いこと押さえつけられてたものが、いきなり行き場を見つけるわけがない。しばらくは迷う。暴れないとは言えない」
「どれくらい」
「それは土次第だね」
シオンが少し黙る。
「……怖いですか」
「怖いとは少し違う」
ロルフは足を止めず、前を見たまま答えた。
「畑に水を引いた時に似てる。水路を切り替えた直後って、流れが慣れるまでに時間がかかる。でも慣れたら、今度は止まらない」
「川が、目を覚ます感じですか」
「そう言ってもいい」
ゼファーが追いついて、二人の横に立つ。
「問題は、その『慣れるまでの時間』に王都側が耐えられるかだ」
「耐えるというより、受け取れるかどうかだよ」
ロルフは言い直した。
「耐えるって考えると、押しつぶされる前提になる。そうじゃなくて、流れが変わっていくことを土が受け取れるかどうか」
「言葉遊びに聞こえますが」
「違うよ。土の扱い方が変わる」
ゼファーが目を細める。
「……説明してもらえるか」
「着いてから」
ロルフはそれだけ言い、再び歩き始めた。
小祠跡に着いた時、祭壇跡のひびは朝よりわずかに広がっていた。
指の幅ほどの隙間。
でもそこから吹き上がる空気の質が変わっている。
昨日は白く整えられた匂いがした。
今は、土の奥にある湿った何かが混じっている。
「フィン」
ロルフが呼ぶと、観測板を広げていたフィンが顔を上げた。
「今の数値は」
「昨日の倍近い圧が出てます、白い楔の下から。方向は変わらず上向きと、ごくわずかですが横……王都方面への引きも少し弱まってます」
「弱まってる?」
「はい。ひびが入ったことで、楔自体の保持力が落ちてるんだと思います。選別する力が落ちれば、横へ引く力も落ちる」
「なるほど」
ロルフは祭壇跡の前にしゃがみ込み、昨日と同じ場所の土を少し掘った。
指先に、黒い湿りが戻ってくる。
昨日より、深い層が近くにいる。
「シオン」
「はい」
「少しだけ借りてもいいか」
シオンは頷き、ロルフの隣にしゃがむ。袖を少しだけ引き上げ、手首の内側をロルフへ向けた。そこから薄く立ち上がる紫の気配を、ロルフは静かに受け取る。
多くは要らない。
楔を外すためじゃない。
中間の土に、"ここに馴染む密度"を教えてやるための量だ。
(変換波形を書き換える。生命力を……『土壌の記憶』と『層の馴染み』へ)
指先から、白くも黒くもない、ごく薄い波紋が地面へ広がった。
静かな波だ。
押しつけない。
ただ、「ここはこういう土だ」と地面に教えるみたいな波紋。
「……変わった」
ルカが、祭壇跡を見つめながら小さく言った。
「においが、すこし、やわらかくなった」
「そう」
ロルフは頷く。
「中間の土が馴染むための準備だよ。いきなり楔を外すと、白い層と深い毒の土が直接ぶつかる。それは畑で言えば、性質の違う土を混ぜる前に何も馴染ませないようなもので、たいてい一方が死ぬ」
「だから、先に間を作る」
シオンが繰り返す。
「うん。去年腐りかけた畑に腐葉土を入れる時も、最初はほんの少しだけ混ぜる。土が驚かないように。そうやって少しずつ、受け取れる量を増やす」
フィンが観測板から顔を上げた。
「ロルフさん、数値が安定してきました。さっきまでの上向きの圧が、少し落ち着いてる」
「馴染み始めてる」
「はい、たぶん。でも……」
「でも?」
「白い楔の内部応力は、まだ変わっていません。馴染んだのはあくまで上の層だけで、楔そのものはまだ持ってる」
「そうだね」
ロルフは立ち上がり、昨日準備した混合土の袋を開けた。
礼拝堂跡で採った深い毒の土。
宿場町の外れで集めた腐葉土。
それに、炭。
この三つを昨夜のうちに少しずつ混ぜておいた土だ。
白でも黒でもない、「その間」の密度を持つ土。
「ゼファーさん、結界は張れますか。範囲は祭壇跡から二間ほど」
「どの性質の結界が要る」
「閉じ込める系じゃなくていいです。流れが外へ逃げないようにするだけで。あまり硬いと、かえって土が暴れる」
「……透過型の薄い膜でいいか」
「それで十分です」
ゼファーが静かに術式を展開する。
空気がわずかに変わった。
強い結界ではない。ただ、この場所の流れが他へ逃げないための、薄い境界線。
「フィン、外れたら教えてください」
「はい」
ロルフは混合土を手に取り、ひびの入った楔の横に薄く置いた。
押しつけない。
ただ、「ここに土がある」と伝えるだけ。
昨日と同じように、数呼吸だけ待つ。
静寂。
それから――
こつ。
昨日よりも、少しだけ大きな音がした。
白い楔のひびが、もう一本走った。
今度は縦ではなく、横に。
「……ひびが、増えました」
フィンの声が掠れる。
「内部応力はどうです」
「上は落ちてます。でも……横への圧が、少し上がった。王都方面への引きが、また強くなってる」
ロルフの目が細くなる。
楔が弱まる時、最後に王都側へ流れを逃がそうとする。
それが楔の「癖」なのだろう。
長いこと王都へ流れを引き続けてきた、染みついた向きがある。
「シオン」
「……はい」
「もう少しだけ」
シオンは黙って頷き、ロルフの隣に寄る。
今度は手首ではなく、指先同士を触れさせた。
多すぎない量を、ゆっくりと。
ロルフは受け取ったエネルギーを、また別の波形へ書き換える。
(王都への引きを、打ち消すんじゃなく。ただ、今ここの土がある重さを、思い出させる)
「――変換」
波紋は広がらなかった。
今度は広がらず、祭壇跡の真下へ向かって、真っ直ぐ沈んでいく。
ルカがはっと顔を上げた。
「したのね」
全員が静止する。
「したのね……おきた」
祭壇跡の中央。
ひびの一番深いところから、黒い根が一本、もう一度だけ顔を出した。
昨日よりも太い。
昨日よりも、ゆっくりとした動きで。
根は混合土へ触れる。
それから、ひびの縁を、静かになぞった。
楔のひびが一本、また増えた。
今度は内側から、押したのではなかった。
引いたのだ。
「……あれは」
ゼファーが息を呑む。
「楔を、外に向けて引っ張ってる」
「そうみたいだね」
ロルフは静かに答えた。
「押しつぶすんじゃなくて、外してる。ちゃんと分かってる」
フィンが震える声で数値を読む。
「内部応力、急落してます。白い層の密度が、上から順に――薄くなってる」
「外れ始めてます」
シオンが静かに言った。
その言葉と同時に。
祭壇跡の白い楔が、音もなく、中央から割れた。
爆発はなかった。
噴き上がりもなかった。
ただ、白い石の板が、まるで最初から二つだったかのように、静かに左右へ開いた。
その下から吹き上がったのは、白でも黒でもない、湿った土の匂いだった。
誰も何も言わなかった。
ロルフはしゃがみ込み、割れた楔の隙間へ、混合土を少し落とした。
ゆっくりと。
急かさずに。
ただ、「ここに間がある」と伝えるだけ。
黒い根が、混合土に触れた。
それから、ゆっくりと地中へ沈んでいく。
拒まなかった。
「フィン」
「……王都方面への横引き、止まってます」
フィンの声が上ずっていた。
「止まってる。今は……どこへも向かってない。ただ、ここにいる」
「そう」
ロルフは立ち上がり、掌の土を払った。
「いきなり王都まで話が片付くわけじゃない。上流の継ぎ目はまだある。でも今日のところは、ここの楔は外れた」
「それだけで……十分なんですか」
フィンが、観測板を抱えたまま聞く。
「十分じゃないよ。でも、一日でできることの量がある」
ゼファーが、結界の膜をゆっくりと解く。
「流れはこのまま安定するか」
「しばらくは迷う。でも暴れはしないと思う。理由は黒い根が受け取ったから」
「受け取った……」
「あれが納得してる間は、急には動かない」
ルカが祭壇跡の前に屈み込み、割れた白い楔の断面を、そっと指で触れた。
それからロルフを見上げる。
「……へんな」
「何が?」
「こわれたのに、しずか」
「そうだね」
ロルフは頷いた。
「壊れる時に大きな音がするのは、最後まで無理をしてた場合だよ。これは最後に、自分から割れた」
ルカはその言葉を聞いて、小さく頷いた。
シオンが、割れた楔を見つめながら静かに言う。
「……ここが外れたということは、次はどこを見るんですか」
「上流の継ぎ目だよ。ここより王都寄りに、もう一箇所ある」
「そこも同じやり方で」
「おそらく。でも、ここより王都に近い分、周囲の土の癖が違う。白い理屈に長いこと漬かってた土だから、馴染むまでの時間も変わるかもしれない」
ゼファーが腕を組む。
「人手はどうする。王都の土壌回復も含めるなら、今の四人と一人では限界がある」
「ガラムさんとオウヌさんには声をかけます。あとはゼファーさんが信頼できると言ってた魔導師の人たち、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
「三名ほどいる。いずれも、観測と記録に長けた人間だ。土を掘ることはできないが、流れの変化を読むことはできる」
「それで十分だよ。土を掘るのは俺がやる。読んでもらえる人間がいる方がいい」
「……では、今夜にでも連絡を入れる」
「お願いします」
フィンが観測板を畳みながら、ぽつりと言った。
「……楔が外れる瞬間、なんか、泣きそうになりました」
全員が、少しだけ黙る。
「変ですよね」
「変じゃないよ」
ロルフが答えた。
「ずっと押さえつけられてたものが解放された時、そういう気持ちになることある」
「人じゃなくて、土ですけど」
「同じじゃないかな」
フィンが少し笑い、それからまた真顔に戻った。
「……次の継ぎ目、今日のうちに場所だけ確認しに行きますか」
「いや、今日はここで終わりにする」
「え」
「土に急ぐなと言われた覚えがある」
ロルフは鍬を持ち直した。
「馴染んだばかりの土に、すぐ次の変化を入れると、混乱する。今日の分が落ち着くのを一日置いてから動く」
「一日……猶予はあるんですか」
「小祠跡の楔にひびが入った段階で、王都への横引きは弱まってた。完全に外れた今なら、もう少し時間がある。一日くらいは」
「『くらい』って、またそのざっくり感……」
フィンが力なく苦笑する。
ゼファーが、旧街道の先――王都の方角を見た。
「……土が、久しぶりに静かに見える」
「そうですか」
「ああ。結界を張っていた間、ずっと微かな震えがあった。それが今はない」
ロルフも同じ方角を見た。
王都がある方向の空は、朝より少しだけ明るい。
雲の動きは変わっていない。
ただ、風の匂いが少しだけ違う。
(まだ終わりじゃない。でも、始まった)
「戻ろう」
ロルフが言うと、シオンがルカの手を取って立ち上がる。
ルカは、一度だけ祭壇跡を振り返った。
割れた白い楔。
その下に、今は何も見えない。
黒い根は、もうそこにいない。
でも、何かが変わった場所の、静かな気配だけが残っていた。
風が吹く。
白っぽかった木々の葉が、さわりと鳴った。
その音の向こうで、王都のある方角の空が、ほんの少しだけ、朝より明るくなっていた。




