表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
99/100

間に入る土

 小祠跡へ戻るまでの道は、行きより短く感じた。


 足の運びが変わったわけではない。

 ただ、見るべきものが決まったからかもしれない。


 ロルフは鍬を肩に担いだまま、旧街道の地面を踏むたびに足裏の感触を確かめていた。

 表層は乾いている。

 でも、その下は昨日と違う。


 ごく微かに、押し返してくる気配がある。


(もう待てないか)


 急いているわけではない。

 ただ、白い楔に入ったひびが、自然に広がることを"下"は望んでいないのだろう。

 人間の都合を待つよりも、自分が動く方が早いと判断した、ということだ。


「ロルフ様」


 シオンが隣に並ぶ。

 ルカはシオンの手を握ったまま、三歩後ろについてくる。体力はまだ乏しいが、足取りは朝よりしっかりしていた。


「楔を外した後、流れはすぐに安定しますか」


「しないよ」


 ロルフは即答した。


「長いこと押さえつけられてたものが、いきなり行き場を見つけるわけがない。しばらくは迷う。暴れないとは言えない」


「どれくらい」


「それは土次第だね」


 シオンが少し黙る。


「……怖いですか」


「怖いとは少し違う」


 ロルフは足を止めず、前を見たまま答えた。


「畑に水を引いた時に似てる。水路を切り替えた直後って、流れが慣れるまでに時間がかかる。でも慣れたら、今度は止まらない」


「川が、目を覚ます感じですか」


「そう言ってもいい」


 ゼファーが追いついて、二人の横に立つ。


「問題は、その『慣れるまでの時間』に王都側が耐えられるかだ」


「耐えるというより、受け取れるかどうかだよ」


 ロルフは言い直した。


「耐えるって考えると、押しつぶされる前提になる。そうじゃなくて、流れが変わっていくことを土が受け取れるかどうか」


「言葉遊びに聞こえますが」


「違うよ。土の扱い方が変わる」


 ゼファーが目を細める。


「……説明してもらえるか」


「着いてから」


 ロルフはそれだけ言い、再び歩き始めた。


 小祠跡に着いた時、祭壇跡のひびは朝よりわずかに広がっていた。


 指の幅ほどの隙間。

 でもそこから吹き上がる空気の質が変わっている。

 昨日は白く整えられた匂いがした。

 今は、土の奥にある湿った何かが混じっている。


「フィン」


 ロルフが呼ぶと、観測板を広げていたフィンが顔を上げた。


「今の数値は」


「昨日の倍近い圧が出てます、白い楔の下から。方向は変わらず上向きと、ごくわずかですが横……王都方面への引きも少し弱まってます」


「弱まってる?」


「はい。ひびが入ったことで、楔自体の保持力が落ちてるんだと思います。選別する力が落ちれば、横へ引く力も落ちる」


「なるほど」


 ロルフは祭壇跡の前にしゃがみ込み、昨日と同じ場所の土を少し掘った。


 指先に、黒い湿りが戻ってくる。

 昨日より、深い層が近くにいる。


「シオン」


「はい」


「少しだけ借りてもいいか」


 シオンは頷き、ロルフの隣にしゃがむ。袖を少しだけ引き上げ、手首の内側をロルフへ向けた。そこから薄く立ち上がる紫の気配を、ロルフは静かに受け取る。


 多くは要らない。

 楔を外すためじゃない。

 中間の土に、"ここに馴染む密度"を教えてやるための量だ。


(変換波形を書き換える。生命力を……『土壌の記憶』と『層の馴染み』へ)


 指先から、白くも黒くもない、ごく薄い波紋が地面へ広がった。


 静かな波だ。

 押しつけない。

 ただ、「ここはこういう土だ」と地面に教えるみたいな波紋。


「……変わった」


 ルカが、祭壇跡を見つめながら小さく言った。


「においが、すこし、やわらかくなった」


「そう」


 ロルフは頷く。


「中間の土が馴染むための準備だよ。いきなり楔を外すと、白い層と深い毒の土が直接ぶつかる。それは畑で言えば、性質の違う土を混ぜる前に何も馴染ませないようなもので、たいてい一方が死ぬ」


「だから、先に間を作る」


 シオンが繰り返す。


「うん。去年腐りかけた畑に腐葉土を入れる時も、最初はほんの少しだけ混ぜる。土が驚かないように。そうやって少しずつ、受け取れる量を増やす」


 フィンが観測板から顔を上げた。


「ロルフさん、数値が安定してきました。さっきまでの上向きの圧が、少し落ち着いてる」


「馴染み始めてる」


「はい、たぶん。でも……」


「でも?」


「白い楔の内部応力は、まだ変わっていません。馴染んだのはあくまで上の層だけで、楔そのものはまだ持ってる」


「そうだね」


 ロルフは立ち上がり、昨日準備した混合土の袋を開けた。


 礼拝堂跡で採った深い毒の土。

 宿場町の外れで集めた腐葉土。

 それに、炭。


 この三つを昨夜のうちに少しずつ混ぜておいた土だ。

 白でも黒でもない、「その間」の密度を持つ土。


「ゼファーさん、結界は張れますか。範囲は祭壇跡から二間ほど」


「どの性質の結界が要る」


「閉じ込める系じゃなくていいです。流れが外へ逃げないようにするだけで。あまり硬いと、かえって土が暴れる」


「……透過型の薄い膜でいいか」


「それで十分です」


 ゼファーが静かに術式を展開する。

 空気がわずかに変わった。

 強い結界ではない。ただ、この場所の流れが他へ逃げないための、薄い境界線。


「フィン、外れたら教えてください」


「はい」


 ロルフは混合土を手に取り、ひびの入った楔の横に薄く置いた。


 押しつけない。

 ただ、「ここに土がある」と伝えるだけ。


 昨日と同じように、数呼吸だけ待つ。


 静寂。


 それから――


 こつ。


 昨日よりも、少しだけ大きな音がした。


 白い楔のひびが、もう一本走った。

 今度は縦ではなく、横に。


「……ひびが、増えました」


 フィンの声が掠れる。


「内部応力はどうです」


「上は落ちてます。でも……横への圧が、少し上がった。王都方面への引きが、また強くなってる」


 ロルフの目が細くなる。


 楔が弱まる時、最後に王都側へ流れを逃がそうとする。

 それが楔の「癖」なのだろう。

 長いこと王都へ流れを引き続けてきた、染みついた向きがある。


「シオン」


「……はい」


「もう少しだけ」


 シオンは黙って頷き、ロルフの隣に寄る。

 今度は手首ではなく、指先同士を触れさせた。

 多すぎない量を、ゆっくりと。


 ロルフは受け取ったエネルギーを、また別の波形へ書き換える。


(王都への引きを、打ち消すんじゃなく。ただ、今ここの土がある重さを、思い出させる)


「――変換」


 波紋は広がらなかった。

 今度は広がらず、祭壇跡の真下へ向かって、真っ直ぐ沈んでいく。


 ルカがはっと顔を上げた。


「したのね」


 全員が静止する。


「したのね……おきた」


 祭壇跡の中央。

 ひびの一番深いところから、黒い根が一本、もう一度だけ顔を出した。


 昨日よりも太い。

 昨日よりも、ゆっくりとした動きで。


 根は混合土へ触れる。

 それから、ひびの縁を、静かになぞった。


 楔のひびが一本、また増えた。


 今度は内側から、押したのではなかった。

 引いたのだ。


「……あれは」


 ゼファーが息を呑む。


「楔を、外に向けて引っ張ってる」


「そうみたいだね」


 ロルフは静かに答えた。


「押しつぶすんじゃなくて、外してる。ちゃんと分かってる」


 フィンが震える声で数値を読む。


「内部応力、急落してます。白い層の密度が、上から順に――薄くなってる」


「外れ始めてます」


 シオンが静かに言った。


 その言葉と同時に。


 祭壇跡の白い楔が、音もなく、中央から割れた。


 爆発はなかった。

 噴き上がりもなかった。

 ただ、白い石の板が、まるで最初から二つだったかのように、静かに左右へ開いた。


 その下から吹き上がったのは、白でも黒でもない、湿った土の匂いだった。


 誰も何も言わなかった。


 ロルフはしゃがみ込み、割れた楔の隙間へ、混合土を少し落とした。


 ゆっくりと。

 急かさずに。

 ただ、「ここに間がある」と伝えるだけ。


 黒い根が、混合土に触れた。

 それから、ゆっくりと地中へ沈んでいく。

 拒まなかった。


「フィン」


「……王都方面への横引き、止まってます」


 フィンの声が上ずっていた。


「止まってる。今は……どこへも向かってない。ただ、ここにいる」


「そう」


 ロルフは立ち上がり、掌の土を払った。


「いきなり王都まで話が片付くわけじゃない。上流の継ぎ目はまだある。でも今日のところは、ここの楔は外れた」


「それだけで……十分なんですか」


 フィンが、観測板を抱えたまま聞く。


「十分じゃないよ。でも、一日でできることの量がある」


 ゼファーが、結界の膜をゆっくりと解く。


「流れはこのまま安定するか」


「しばらくは迷う。でも暴れはしないと思う。理由は黒い根が受け取ったから」


「受け取った……」


「あれが納得してる間は、急には動かない」


 ルカが祭壇跡の前に屈み込み、割れた白い楔の断面を、そっと指で触れた。

 それからロルフを見上げる。


「……へんな」


「何が?」


「こわれたのに、しずか」


「そうだね」


 ロルフは頷いた。


「壊れる時に大きな音がするのは、最後まで無理をしてた場合だよ。これは最後に、自分から割れた」


 ルカはその言葉を聞いて、小さく頷いた。


 シオンが、割れた楔を見つめながら静かに言う。


「……ここが外れたということは、次はどこを見るんですか」


「上流の継ぎ目だよ。ここより王都寄りに、もう一箇所ある」


「そこも同じやり方で」


「おそらく。でも、ここより王都に近い分、周囲の土の癖が違う。白い理屈に長いこと漬かってた土だから、馴染むまでの時間も変わるかもしれない」


 ゼファーが腕を組む。


「人手はどうする。王都の土壌回復も含めるなら、今の四人と一人では限界がある」


「ガラムさんとオウヌさんには声をかけます。あとはゼファーさんが信頼できると言ってた魔導師の人たち、もう少し詳しく聞かせてもらえますか」


「三名ほどいる。いずれも、観測と記録に長けた人間だ。土を掘ることはできないが、流れの変化を読むことはできる」


「それで十分だよ。土を掘るのは俺がやる。読んでもらえる人間がいる方がいい」


「……では、今夜にでも連絡を入れる」


「お願いします」


 フィンが観測板を畳みながら、ぽつりと言った。


「……楔が外れる瞬間、なんか、泣きそうになりました」


 全員が、少しだけ黙る。


「変ですよね」


「変じゃないよ」


 ロルフが答えた。


「ずっと押さえつけられてたものが解放された時、そういう気持ちになることある」


「人じゃなくて、土ですけど」


「同じじゃないかな」


 フィンが少し笑い、それからまた真顔に戻った。


「……次の継ぎ目、今日のうちに場所だけ確認しに行きますか」


「いや、今日はここで終わりにする」


「え」


「土に急ぐなと言われた覚えがある」


 ロルフは鍬を持ち直した。


「馴染んだばかりの土に、すぐ次の変化を入れると、混乱する。今日の分が落ち着くのを一日置いてから動く」


「一日……猶予はあるんですか」


「小祠跡の楔にひびが入った段階で、王都への横引きは弱まってた。完全に外れた今なら、もう少し時間がある。一日くらいは」


「『くらい』って、またそのざっくり感……」


 フィンが力なく苦笑する。


 ゼファーが、旧街道の先――王都の方角を見た。


「……土が、久しぶりに静かに見える」


「そうですか」


「ああ。結界を張っていた間、ずっと微かな震えがあった。それが今はない」


 ロルフも同じ方角を見た。


 王都がある方向の空は、朝より少しだけ明るい。

 雲の動きは変わっていない。

 ただ、風の匂いが少しだけ違う。


(まだ終わりじゃない。でも、始まった)


「戻ろう」


 ロルフが言うと、シオンがルカの手を取って立ち上がる。

 ルカは、一度だけ祭壇跡を振り返った。


 割れた白い楔。

 その下に、今は何も見えない。

 黒い根は、もうそこにいない。


 でも、何かが変わった場所の、静かな気配だけが残っていた。


 風が吹く。

 白っぽかった木々の葉が、さわりと鳴った。


 その音の向こうで、王都のある方角の空が、ほんの少しだけ、朝より明るくなっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ