継ぎ目を外す
翌朝、礼拝堂跡の空気は妙に澄んでいた。
夜のうちに雨が降ったわけでもない。
風向きが大きく変わったわけでもない。
それなのに、昨日までこの場所にまとわりついていた“白く整えられた静けさ”だけが薄れている。
石壇の割れ目から吹き上がる風も、いまは湿った土の匂いを素直に運んでいた。
「……昨日より、嘘が少ないですね」
フィンが地面に膝をつき、観測板を広げながら言った。
「うん」
ロルフは短く答え、礼拝堂跡の床石の隙間へ指を差し込む。
乾きすぎてもいない。
湿りすぎてもいない。
ただ、深いところでまだ流れが迷っている。
上から押さえつけていた白い還樹が崩れたせいで、本来の深層流が行き場を探しているのだろう。
いまのところ噴き上がってはいない。
だが、放っておけば次にどこを抜くか分からない。
「礼拝堂跡の真下は、昨夜より落ち着いています」
ゼファーが結界の薄膜を地表へ走らせながら報告する。
「ただし、横流れが強い。やはり王都方面への傾きが消えていない」
「どれくらいです?」
シオンが尋ねると、代わりに答えたのはフィンだった。
「表層じゃなく、もっと下です。普通の地脈観測なら見逃すくらい深い層。白い施設が蓋をしていた間は抑え込まれてたけど、いまは“元の道”を思い出しかけてる」
「元の道、か」
ロルフは石の隙間から掬った土を掌で崩す。
粒は細かい。
けれど死んではいない。
昨日までの白い施設の理屈なら、この深さの流れも“濁り”として下へ押し込めて終わりだっただろう。
だが“最初の根”は違った。
還せとも言わなかった。
ただ、育てるか斬るかを選べと言った。
「旦那様」
シオンが、すぐ傍で静かに声をかける。
「今日、王都の方まで見に行くんですか」
「全部は行かないよ」
ロルフは立ち上がった。
「まずはこの宿場町の下流で、どこから癖が変わるかを見る。流れっていうのは、いきなり遠くで悪くなるんじゃない。だいたい継ぎ目で歪む」
「また接ぎ木ですか」
フィンが顔を上げる。
「うん。昨日の黒い根が言ってた通りなら、上の白い施設は深い毒の土に後から無理やり継がれたものだ。だったら、王都方面にも似た継ぎ目が残ってるはずだよ」
ゼファーが腕を組む。
「もし本当にそうなら、王都の地下にも“白い理屈”の名残があることになるな」
「たぶんある」
ロルフはあっさり言った。
「じゃなきゃ、わざわざあんなふうに深層の流れを王都へ引っ張る意味がない」
そこで、礼拝堂跡の壁際に座っていたルカが、小さく口を開いた。
「おうとのにおい」
全員の視線が集まる。
ルカは、少しだけ考えるように眉を寄せたあと、ゆっくり続けた。
「しろいの、いちばん、つよかった。……でも、したのね、そこ、きらい」
「嫌い?」
シオンが聞き返す。
「うん。つめたい。とめる。ながれ、いやがる」
ロルフの目が細くなる。
“最初の根”が王都方面へ伸びている。
だが、それは王都を好いているからではない。
むしろ、止められている流れが、そこへ引っかかっている可能性がある。
「……なるほど」
「何か見えたのか」
ゼファーが問う。
「斬るか育てるか、だけじゃないかもしれない」
ロルフは礼拝堂跡の下を見下ろしたまま答えた。
「“継ぎ目を外す”って手がある」
フィンが瞬きをする。
「継ぎ目を、外す」
「うん。深い毒の土そのものを育て直すか、全部斬るかの二択だと危ない。でも、もし王都方面へ引っ張ってる白い接ぎ木だけを剥がせるなら、流れはもっと自然な形へ戻るかもしれない」
「接ぎ木だけ殺して、本来の根は残す、と」
ゼファーが低く整理する。
「ええ。成功すれば被害は最小限で済む。だが、継ぎ目の位置が分からなければ話にならん」
「だから見に行くよ」
ロルフはそう言うと、足元の土を軽く踏んだ。
「深い流れは、だいたい地表にも癖を出すからね」
宿場町の北を抜け、神殿跡から王都方面へ伸びる旧街道沿いには、使われなくなった畑や小さな水路跡が点々と残っていた。
ロルフに言わせれば、そういう場所ほど流れの嘘が出やすい。
「いま使われてない畑を見るんですか」
フィンが観測板を抱えながら尋ねる。
「使われてないからこそだよ」
ロルフは、草に埋もれた古い畝の前でしゃがみ込む。
「手が入ってない場所は、土が余計な顔を作らない」
目の前の畑は、一見するとただ荒れているだけだった。
背丈の低い雑草が広がり、ところどころ白っぽく乾いた筋が見える。
けれどロルフが土を掘り返すと、その下から出てきたのは意外にも黒く湿った層だった。
「上だけが痩せてる」
シオンが屈み込む。
「下は死んでないですね」
「うん。でも、変だ」
ロルフはさらに少しだけ掘り進める。
すると、深さ二尺ほどのところで、土の色が急にはっきりと変わった。
黒から灰へ。
灰から、妙に整った白混じりへ。
自然の層じゃない。
誰かが意図して入れ替えたみたいな、不自然な境だった。
フィンが慌てて記録する。
「これです! 自然沈殿じゃない! 上から“白い調整層”を差し込んだ痕です!」
「やっぱりあったね」
「ということは」
ゼファーが旧街道の先を睨む。
「王都へ続く経路のどこかで、深層流に白い制御層を被せている」
「うん。しかも一箇所じゃない」
ロルフは掘り返した土を鼻先へ近づけた。
白い。
けれど、昨日まで地下で嗅いだような“器を育てる白”ではない。
もっと事務的な白だ。
流れを選別し、整え、必要なものだけを上へ通すための層。
「王都の植物園や庭園に使われてた土壌改良と似てる気配がある」
ゼファーの目が険しくなる。
「まさか、これが王立植物園の衰退と繋がるのか」
「十分ありえるね」
ロルフは土を落としながら言う。
「流れを整えることばかり優先して、深いところで毒も濁りも全部“下へ回す”ようにしてたなら、上は最初だけ綺麗になる。でも、根はだんだん馬鹿になる」
「馬鹿って」
フィンが苦笑しかけたが、ロルフは真顔だった。
「自分で探れなくなるんだよ。栄養も、水も、土の重さも。“綺麗に整ったもの”しか受け取れなくなる。そうなると少しでも流れが狂った時、何も耐えられない」
シオンがぽつりと呟く。
「……王都みたいです」
誰も否定しなかった。
三つ目の古畑を調べたあたりで、流れの癖はほぼ見えた。
宿場町側では、深い毒の土の流れがまだ自然に近い。
だが王都へ近づくにつれ、その上へ薄い白層が何枚も差し込まれている。
まるで、流れそのものを“選別の管”へ通し直しているようだった。
「継ぎ目は一本じゃない」
ロルフが畝の端へ棒を突き立てる。
「段々に絞ってる」
「段階的に深層流を白い理屈へ馴染ませてる、ということか」
ゼファーが整理する。
「うん。いきなりやると土が暴れるからね。少しずつ“綺麗な方が正しい”って思い込ませてる」
「最悪ですね……」
フィンが顔をしかめた。
「思想が、土にまで染みてる」
「染みてるというより、押しつけてる」
ロルフは棒の位置を見直しながら言う。
「で、押しつけすぎて、今の王都は逆に弱ってる」
そのとき、ルカがふいに立ち止まった。
今日は宿に置いてくる案もあったが、本人が強く嫌がったのと、深層流の気配に反応できる可能性を見て連れてきていた。
体力はまだ乏しい。だからシオンのすぐ隣を歩かせ、何度も休憩を挟んでいる。
「ルカ?」
シオンがしゃがんで目線を合わせる。
ルカは旧街道の脇、半ば埋もれた石碑みたいなものを指さした。
「ここ、へん」
石碑は苔に覆われ、文字もほとんど読めない。
だがロルフが周囲の土を払うと、表面に見覚えのある一字が浮かんだ。
【還】
さらに下。
かすれた古文が続いている。
「……『三番調律』」
フィンが読み取る。
「還井じゃない。こっちは“調律”って書いてある」
「音じゃないんですか」
シオンが言うと、ゼファーが首を振った。
「おそらく比喩だ。流れを揃える、均す、そういう意味合いだろう」
「でも、均してるようには見えないね」
ロルフは石碑の根元の土を掘り返す。
ほどなくして、白い板状の石が地中から現れた。
板は地層を横切るように埋め込まれている。まるで堰だ。
「……これだ」
ロルフは指先でその縁を叩いた。
「深い流れを、一回ここで“白く選別してる”」
「つまりここが継ぎ目?」
「いや、ここは途中の絞り場だ」
ロルフはすぐに否定する。
「本当の継ぎ目は、もっと上流側。ここまで流れを引っ張ってくる元がある」
「礼拝堂跡の下ではなく?」
「うん。礼拝堂跡の下は、あくまで“白い施設群”と深い毒の土がぶつかった場所だ。王都方面へ引くための本命の継ぎ目は、もっと別にある」
フィンが地図を広げ、棒で印を結んでいく。
宿場町。
旧畑。
三番調律の石碑。
さらに王都寄りの、崩れた小祠跡。
線がひとつ、浮かび上がった。
「……古い巡礼路だ」
ゼファーが低く言った。
「王都の神殿と辺境の礼拝堂を結ぶ、廃れた道筋。白い施設は、この古い信仰路ごと深層流へ接ぎ直していたのか」
「信仰の道に、流れを載せたんですね」
シオンの声には、嫌悪が滲んでいた。
「ええ。たぶん人間にとっては都合が良かったんでしょう。“清いものは上へ、濁りは見えない下へ”という理屈を、そのまま土地にも押しつけやすいから」
そこでルカが、小さく首を振った。
「でも、したのね、わらってた」
「笑ってた?」
フィンがぎょっとする。
ルカは言葉を探すように眉を寄せた。
「わらう、じゃない。……へんなの、きた、って」
ロルフがほんの少しだけ笑った。
「そりゃそうだろうね。元の土からしたら、急に変な教本持った連中が来て、“今日からお前はこう流れろ”って言い始めたようなもんだ」
「また農夫の例えが妙に分かりやすい……」
フィンが遠い目をした。
昼を回った頃、一行は小祠跡へ辿り着いた。
ここはもう宿場町の外れというより、王都への中間地帯に近い。
石造りの小さな祠は半分崩れ、蔦が巻き付き、周囲の木々もどこか白っぽく乾いている。
ロルフが足を踏み入れた瞬間、すぐに分かった。
「……ここだ」
シオンも顔を上げる。
「旦那様」
「うん。継ぎ目の匂いがする」
祠の中央には、小さな祭壇跡があった。
礼拝堂跡ほど大きくはない。
だが、土の下に何かが埋まっている感覚は、むしろこっちの方がはっきりしていた。
ゼファーが剣の柄に手をかける。
「開けるか」
「まだ」
ロルフはしゃがみ込み、周囲の地面へ手を当てた。
白い。
その下で、黒い。
さらにその下に、濃い毒の土が眠っている。
三層だ。しかも真ん中の白が、上と下を無理やり“仲良くさせているふり”をしている。
「接ぎ木っていうより、無理やり噛ませた楔だな」
ロルフが言う。
「上の白い理屈と、下の深い土を、ここで無理やり縫い合わせてる」
「縫い合わせてる……」
フィンが息を呑む。
「じゃあ、ここを外せば」
「王都方面への引きは、かなり弱まるはずだ」
「でも、外した瞬間に噴きませんか」
シオンの懸念はもっともだった。
ロルフもすぐには答えない。
代わりに、周囲の土を少し掘り、持ってきた腐葉土と炭、それから昨夜礼拝堂跡で採った“白くない深層土”を薄く混ぜた。
「試すよ」
そう言って、ロルフは楔の上へその混合土を置く。
最初は何も起きない。
だが、数呼吸後。
祭壇跡の下から、ごく小さく音がした。
こつ。
白い層が、嫌がるように軋んだのだ。
同時に、下にある濃い毒の土がごくわずかに持ち上がる。
「……押し返してる」
フィンが震える声で言う。
「しかも暴発じゃない。ちゃんと“混ざる場所”を探してる」
「なるほどね」
ロルフは静かに頷く。
「やっぱり第三の手がある」
「第三の手?」
ゼファーが問う。
ロルフは祭壇跡を見たまま、言った。
「斬るでもない。育てるでもない。白い楔を外して、“間に土を入れる”んだ」
「……間に土」
「うん。いまの王都方面の流れは、白い理屈か、深い毒か、どっちかにしか寄れない形になってる。だから極端になる」
シオンがはっとしたように顔を上げる。
「でも、その間に“混ざる途中の層”があれば」
「そう。いきなり実らせない。いきなり断たない。ちゃんと崩れて、回って、馴染むための層を挟む」
フィンの目がみるみるうちに輝き始める。
「中間層……緩衝土壌……! 地脈を選別するんじゃなく、遷移させるんだ!」
「言い方はどうでもいいけど、やることは単純だよ」
ロルフは立ち上がり、祭壇跡を見下ろした。
「白い楔を抜いて、代わりに途中の土を育てる」
その瞬間だった。
祭壇跡の中央に、細い黒い根が一本だけ、土の下から顔を出した。
全員が息を呑む。
白い根じゃない。
昨日、深胎の縦穴から現れた“最初の根”と同じ黒さだ。
黒い根は、混合土へそっと触れる。
それから、少しだけ揺れた。
言葉はなかった。
だがロルフには分かった。
「……そういうことか」
「何が分かったんですか」
シオンが小さく聞く。
ロルフは黒い根と祭壇跡、その向こうの王都へ続く方角を順に見た。
「育てるか斬るかって言われたけど、あれ、根そのものをどうするかだけの話じゃなかった」
「え?」
「“何を育てるか、何を斬るか”を選べってことだったんだよ」
ゼファーが目を細める。
「つまり」
「深い毒の土を斬る必要はない。白い楔を斬ればいい。育てるべきなのは、“間に入る土”だ」
フィンが、ほとんど跳ねるように顔を上げた。
「それなら……!」
「うん。王都も辺境も、どっちも一気に壊さずに済むかもしれない」
ルカが、小さく祭壇跡を見つめながら呟く。
「……したのね、まってる」
「うん」
ロルフはその言葉に頷いた。
「急かしてはいるけど、無茶をしろとは言ってない」
黒い根は、もう一度だけ混合土へ触れ、それから静かに地中へ沈んでいった。
拒絶はされなかった。
少なくとも、このやり方を“間違い”とは見なさなかったのだろう。
風が吹く。
小祠跡の白っぽい木々の葉が、さわりと鳴った。
その音の向こうで、王都のある方角の空だけが、わずかに曇って見えた。
「戻ろう」
ロルフが言う。
「準備が変わった」
「礼拝堂跡へ戻って、今度は楔を外すための土を作るんですね」
フィンが早口で確認する。
「うん。量も配合も必要だ。たぶん一回じゃ足りない」
「人手も欲しいな」
ゼファーが腕を組み直す。
「土を運ぶだけでも、我々四人と一人では厳しい」
「オウヌさんとガラムさんに声をかけた方がいいかもしれませんね」
シオンが言うと、ゼファーはすぐに頷いた。
「私からも魔導師団の信頼できる少数へ連絡を回す。ただし王都本体へはまだ広げん。余計な手が入ると、また白い理屈で上塗りされる」
「賛成だよ」
ロルフもあっさり同意する。
「いま欲しいのは、綺麗な報告書を書く人間じゃなくて、土を運んで失敗したら引くことができる人たちだ」
「毎回思いますけど、その条件で人を選ぶと相当絞られますよ」
「絞られていいんだよ。畑に大人数は要らない」
その返しに、シオンが小さく笑い、ルカもつられて少しだけ口元を緩める。
けれど、和らいだ空気は長くは続かなかった。
帰り道につこうとした、そのとき。
小祠跡の祭壇の下で、何かがぱきりと鳴った。
全員が振り返る。
さっきまで静かだった白い楔の表面に、細いひびが一本だけ走っていた。
自然に入ったひびじゃない。
内側から押されている亀裂だ。
フィンの顔が強ばる。
「……猶予、長くないです」
ロルフはそのひびを見つめ、静かに息を吐いた。
「うん。向こうも、もう待つだけじゃなくなってる」
王都方面へ引かれた深層流。
白い楔。
その下で待つ“最初の根”。
選ぶ時期は近い。
そして今度は、ただ降りていくだけじゃない。
上の継ぎ目も、同時に外さなければならない。
ロルフは鍬を肩に担ぎ直した。
「急ごう」
その言葉に、全員が無言で頷いた。
礼拝堂跡へ戻ったら、次は準備では済まない。
白い楔を外し、中間の土を育てる。
その最初の一手が、いよいよ始まるのだから。




