種じゃなくなった
地上へ戻るまでの道は、下りてきたときより静かだった。
白い坂道には、もうあの甘ったるい香がほとんど残っていない。
唱和の部屋の棚に並んでいた白い頭蓋も、奥の大頭部も、いまはただの脆い殻に戻っていた。
盆地の白泥は灰色のぬかるみに沈み、還井へ続く流れも、ようやく“何かを下へ捨てるための道”ではなくなっている。
終わったわけではない。
けれど、少なくとも嘘の上塗りだけは剥がれた。
「……静かですね」
シオンがぽつりと言った。
腕の中には、あの子がいる。
深胎の幹の中から助け出した、小さな“種床”だった子ども。
軽い。
熱はあるのに、土の重さみたいなものがまだ足りない。
長いこと、人として育つ代わりに“実らせるための器”にされていたせいだろう。
「静かな土は、だいたい疲れてる時だよ」
先を歩くロルフが、振り返らずに言う。
「今は掘り返したあとだからね。落ち着くまで、あまり刺激しない方がいい」
「……この状況でも本当に畑の話になるんですね」
フィンが半ば呆れたように言うと、ゼファーが低く息を吐いた。
「もう諦めろ。こいつは地下神殿を掘り返しても農夫だ」
「当たり前だよ」
ロルフはあっさり答える。
「土相手にやることなんて、結局は同じだ」
礼拝堂跡へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
崩れた祭壇の下に開いた入口は、まだ完全には閉じていない。
だが、最初に見たときよりずっとおとなしい。
白い粉が逆流することもなく、下から吹き上がる風も、あの妙に綺麗な匂いを運んではこなかった。
代わりにわずかに混じるのは、湿った土の匂いだ。
深いところの本当の土が、ようやく上の空気へ触れ始めているのかもしれない。
宿場町へ戻ると、町人たちはまた道の端へ避けた。
だが、前みたいな怯えだけの目ではない。
井戸の騒ぎも、礼拝堂跡の異変も見ているのだろう。何かが変わったことだけは、素人目にも分かるらしい。
宿の主人が、戸口まで飛び出してきた。
「ご、ご無事で……!」
「今のところはね」
ロルフが答えると、主人の視線がシオンの腕の中の子どもへ落ちた。
「その子は……」
「保護した子です」
シオンが静かに言う。
「少し、休める部屋を貸してください」
「も、もちろんです! 一番静かな部屋をすぐに――!」
主人は半ば転がるように奥へ走っていった。
部屋へ入ると、最初にしたのは食事でも報告でもなかった。
水を飲ませること。
手足を拭くこと。
温かい布で身体を包むこと。
ロルフは宿の台所から、薄い塩気のある野菜スープを借りてきた。
香草を少しだけ足し、干した根菜を砕いて煮直す。
毒消しではない。浄化でもない。
空になっていた身体へ、ちゃんと“入ってきていいもの”を思い出させるための味だ。
「いきなり強いものは駄目だよ」
ロルフはそう言いながら、木匙で少しずつ子どもの口へ運んだ。
子どもは最初こそ警戒していたが、一口、二口と飲むうちに、こわばっていた肩を少しずつ緩めた。
「……あったかい」
「うん」
「へんな味、しない」
「それは良かった」
ロルフの返しに、シオンが小さく笑う。
「“へんな味がしない”って、たぶん褒め言葉ですよね」
「弱ってる時は大事だよ。妙に整えた味より、ちゃんと土がある味の方が入る」
フィンが机いっぱいに記録板と石板の写しを広げながら、顔だけこちらへ向ける。
「すみません、その言い方だと土を飲ませてるみたいです」
「似たようなものだよ」
「否定してください」
そのやり取りに、子どもがかすかに笑った。
それを見て、シオンの目が少しだけ柔らかくなる。
やがて、子どもの呼吸が落ち着いてきた頃、ゼファーが部屋の隅で腕を組んだまま口を開いた。
「さて。落ち着いたところで整理するぞ」
空気が少しだけ締まる。
フィンが慌てて記録板を持ち直した。
「はい。ええと、まず確認できたことは三つです。第一に、今まで地下で動いていた“還樹”は、本来の深層の根に、後から白い施設群が接ぎ木された人工系統だったこと」
「うん」
ロルフが短く頷く。
「第二に、“神子”は浄化の担い手なんかじゃなく、受けきれない濁りを押し込めるための器として使われていた可能性が高いこと」
シオンの表情が静かに硬くなる。
だが、目は逸らさない。
「そして第三に」
フィンは、礼拝堂跡から持ち出した石板を指で叩いた。
「白い還樹のさらに下に、“最初の根”と呼ぶべき、もっと古い深層系統がいる。あれは白い施設の理屈では動いていない」
「“還せ”とも言いませんでした」
シオンの腕の中から、子どもがぽつりと口を挟んだ。
全員の視線が集まる。
子どもは少しだけ肩をすくめながら続けた。
「しろいのは、いつも“もどれ”“かえせ”って、うるさかった。……でも、したのは、ちがう」
ゼファーが低く問う。
「どう違う」
子どもは言葉を探すように瞬きを繰り返した。
「……えらぶ」
「選ばせる?」
「うん。たぶん」
それはロルフたちが深胎で受けた感覚と、確かに一致していた。
斬るか。
育てるか。
“最初の根”は命令してこなかった。ただ選べと言った。
「面倒だけど、嘘は少なそうだね」
ロルフが言うと、ゼファーが渋い顔で同意した。
「少なくとも、上の白い連中のような“美辞麗句で人を器にする”やり方ではないな」
「ただし」
フィンがすかさず続ける。
「だから安全、とは全然言えません。むしろ危険度で言えば下の方が上です。白い施設は人間の都合で作られてるぶん、理屈を追えた。でも“最初の根”はもっと自然寄りです。話が通じたように見えても、人間の命を優先する保証はどこにもない」
「そうだろうね」
ロルフはあっさり言った。
「霜も旱も話は通じない。でも対策は取れる」
「毎回思うんですが、その例えで納得させられそうになるのが悔しいです……」
フィンが机に突っ伏しかける。
相当疲れているらしい。
ロルフは子どもの空になった器を受け取りながら、静かに言った。
「問題は、下の根をどうするかだ」
「“育てるか、斬るか”ですね」
シオンが答える。
「うん」
ロルフは器を机へ置き、指先で軽く叩いた。
「斬るなら分かりやすい。深いところの核を探して、流れごと断つ。たぶん白い施設も、還樹の残りも、それで止まる」
「ただし代償が読めない」
ゼファーが眉を寄せる。
「辺境一帯の地脈が、いまどれだけ深層の流れに依存しているか不明だ。下手に断てば、宿場町だけで済まん。神殿跡周辺、旧白の平原、最悪の場合は王都方面まで乾きかねない」
フィンが慌てて補足する。
「逆に“育てる”場合は、白い接ぎ木で歪められた流れを、もっと自然な循環へ戻していくことになります。成功すれば、上で押し込めていた濁りも含めて、ちゃんと回る土になるかもしれない」
「でも失敗したら」
シオンがぽつりと続けた。
「下に溜まってるものが、全部いっぺんに噴きますよね」
部屋が静かになる。
それが一番現実的な危険だった。
長い年月をかけて押し込められてきたものは、まだ全部消えたわけではない。
白い還樹はその一部を利用していただけだ。もっと古くて、もっと根源的な濁りは、なお深い場所に残っている。
「……だから、いきなり選ばない」
ロルフが結論を置いた。
「まずは見る。土を確かめる。どこまでが接ぎ木で、どこからが元の流れか。何を残すと危なくて、何なら回せるのか。そこを見てからだ」
シオンが頷く。
「はい」
ゼファーも異論はなかったらしく、短く息を吐くだけに留めた。
「慎重論をお前が言うと、少し不安になるな」
「失礼だな。僕だって、掘る前に土くらい見ます」
「その“くらい”が常人の命綱なんだ」
珍しくゼファーの言い方がやや強かったが、それだけ今回の危険を正確に感じているのだろう。
そこで、今まで静かにしていた子どもが、シオンの袖をつまんだ。
「……あの」
「どうしたの」
シオンが目線を合わせる。
子どもは少しだけ迷ってから、小さく言った。
「ぼく、ずっと“たね”って、よばれてた」
「うん」
「でも、それ、やだ」
まっすぐな言葉だった。
部屋の空気が、少しだけやわらぐ。
「そうだね」とシオン。
「駄目だね」とロルフ。
「当然だ」とゼファー。
「もの扱いですからね……」とフィン。
また、綺麗に意見が揃った。
子どもはきょとんとしてから、少しだけ笑った。
そして、その笑顔のまま言った。
「だから、なまえ、ほしい」
シオンが一瞬だけ困ったようにロルフを見る。
ロルフもすぐには答えない。
名前は大事だ。
とりあえずで付けるものでも、勝手に貼るものでもない。
「思い出せる気配はある?」
ロルフが訊くと、子どもは首を横に振った。
「ない。……でも、いまのぼく、たねじゃないって、わかる」
その返事に、ロルフはわずかに目を細めた。
「じゃあ、仮じゃなくて、ちゃんとしたのを考えよう」
「ちゃんと?」
「うん。あとで変える前提の名前は、土に根が張りにくい」
また農夫の理屈だ、とフィンが言いたげな顔をしたが、もう口には出さなかった。
たぶん今回は、少しだけその言い分が分かるのだろう。
シオンが、子どもの顔をじっと見つめる。
濃い紫の瞳。
白い施設の中にいたのに、白く染まり切らなかった子。
名前も奪われて、役目だけ押し込まれて、それでも最後に「たべられる」と警告してくれた子。
「……ルカ、はどうかな」
シオンが静かに言った。
子どもが瞬きをする。
「るか」
「うん。響きが柔らかいし、ちゃんと“人の名前”に聞こえるから」
ロルフはその名前を一度だけ口の中で転がした。
「悪くないね」
ゼファーも小さく頷く。
「少なくとも“種”よりは遥かにいい」
「比較対象が最低すぎますけど、僕も賛成です」
フィンが疲れた顔で笑う。
子ども――いや、ルカは、何度かその名を小さく繰り返した。
「るか。……ルカ」
そして、少し不思議そうに胸に手を当てる。
「へんだ」
「何が?」
シオンが訊く。
「なまえ、もらったら……すこし、おもい」
その言葉に、ロルフがふっと笑った。
「いいことだよ。軽すぎたからね」
ルカは意味が分からなそうに首を傾げたが、嫌ではないらしい。
そのまま、胸に手を当てたまま小さく頷く。
「……ルカ、で、いい」
シオンの顔が、ほんの少しだけ明るくなった。
「うん。じゃあ、これからはルカだ」
名前が決まったことで、部屋の空気がまた一段落ち着いた。
誰かにとってはただの呼び名かもしれない。
けれど、ものから人へ戻るには、そういうものが案外大事だ。
そのときだった。
フィンが、広げていた記録板の一枚に目を止めて、ぴたりと動きを止めた。
「……あれ」
「どうした」
ゼファーが問う。
フィンは慌てて石板の写しと、礼拝堂跡の古地図、それに地下で取った観測メモを並べる。
「おかしい」
「何がです?」
シオンがルカを抱えたまま身を乗り出した。
「“最初の根”の位置です」
フィンの指が、地図の一点を叩く。
「深胎のさらに下。あの黒い根がいた層。そこって、本来なら神殿跡の真下だけで完結するはずなんです。なのに流れの傾きが変なんですよ」
「変?」
「はい。下へ沈んでるだけじゃない。横へ引いてる」
部屋の空気が再び張る。
「どっちへ」
ロルフの問いに、フィンは喉を鳴らして答えた。
「……王都方面です」
ゼファーの顔色が変わった。
「確かか」
「まだ断定はできません。でも、白い還樹の接ぎ木が崩れたことで、深層の流れが一部解放された。その結果、“最初の根”の元の水脈――じゃなくて、地脈の横流れが出てきてる」
「つまり」
シオンが小さく言う。
「選ぶのが遅れたら、あの下のものが王都の土にも触る……?」
「可能性は高いです」
フィンの声は掠れていた。
「白い施設が長いこと蓋をしていたぶん、いま流れが戻りたがってる。良い形で戻るのか、悪い形で噴くのかは……まだ分からない」
ルカが、シオンの腕の中で小さく震える。
「おうと……」
「知ってるの?」
シオンが尋ねると、ルカはゆっくり頷いた。
「したの、ね。……ずっと、そっちのにおい、してた」
ロルフの目が細くなる。
王都。
追放された場所。
白い施設の思想が一番濃く残っているはずの場所。
もし深層の“最初の根”が本当にそちらへも流れているなら、これは辺境だけの話では済まない。
「……面倒だな」
ロルフが呟くと、ゼファーが即座に返した。
「今さらか」
「いや、今まではまだ“辺境の面倒”だった。でもこれ、王都の下流まで噛んでるなら、掘る場所が増える」
「そこですか」
「そこだよ」
だが、その軽いようでいて本質を突いた答えに、かえって全員の緊張が少しだけほどけた。
何をするかは、まだ決まっていない。
育てるか。
斬るか。
あるいは、そのどちらでもないやり方があるのか。
ただ一つだけ確かなのは、時間が無限にはないということだった。
ロルフは窓の外を見た。
宿場町の夕暮れ。
井戸のある広場には、もう大きな騒ぎはない。
けれど土の下では、まだ流れが動いている。
「今日は寝る」
ロルフが言った。
フィンが心底ほっとした顔になる。
「助かります……本当に……」
「でも明日から忙しいよ」
ロルフは振り返り、いつもの農夫みたいな顔で続けた。
「王都へ伸びる下流の癖を調べる。礼拝堂跡の入口も安定させる。あと、深胎へ降りる前に、持っていく土をもう少し選ぶ」
「持っていく土」
ゼファーが頭を押さえるように呟く。
「やはりそこは変わらんのだな……」
「変わる理由がないよ」
シオンが小さく笑い、ルカもつられて少しだけ口元を緩めた。
その笑みを見ながら、ロルフは静かに思う。
名前をもらった。
軽すぎた身体に、少し重さが戻った。
それだけでも、今日は十分だ。
だが同時に、深いところではもう次が始まっている。
白い還樹は終わった。
けれど“最初の根”はまだそこにいる。
そして王都の下流へ向かう流れも、もう止まってはいない。
夜のはじまりの静けさの中で、誰にも聞こえないほど小さく、土がまた一度だけ鳴った。
どくん。
それは脅しではなかった。
催促でもない。
ただ、“選ぶ時期は近い”と告げるみたいな音だった。




