還せとは言わなかった
――混ゼル者。
縦穴の底から響いたその声は、今までのどれとも違っていた。
“還せ”ではない。
“交じるな”でもない。
拒絶も命令もなく、ただ事実を確かめるような声だった。
細く黒い根は、砕けた還樹の残骸をゆっくりと這っていく。
白い殻の欠片。
萎れた果実もどき。
切り落とされた根の断片。
それらへ触れるたび、白は音もなく黒へ沈み、灰は湿りを取り戻し、ただの土に近い色へ戻っていった。
「……食べてる」
フィンが掠れた声で呟く。
「はい」とシオンの腕の中の子どもが震えながら答えた。
「しろいの、これ、こわがってた」
ロルフは縦穴の縁から動かず、黒い根の動きを見ていた。
喰っている。
だが、飢えた獣みたいに荒らしているわけじゃない。
片づけているのだ。
接ぎ木に失敗した枝を、根元から当然みたいに落としていくように。
ゼファーが剣先を下げずに問う。
「敵か、味方か」
「どっちでもないね」
ロルフは短く答えた。
「土だよ」
「便利な答えのようでいて、何も安心できん」
「安心しなくていいと思います」とフィンが真顔で言った。
「たぶん一番厄介な種類の“自然”です」
そのとき、黒い根がぴたりと止まった。
先端が持ち上がる。
目も口もないのに、不思議とはっきり分かった。
見られている。
ロルフを。
正確には、ロルフの中の“混ぜる”という在り方を。
――白ハ枯レタ。
低い声がまた響く。
それは悲しんでもいなければ怒ってもいなかった。
春先に霜で駄目になった芽を見て、「ああ、駄目だったか」と言うくらいの温度しかない。
――継ギ木ハ、浅イ。
「……やっぱり接ぎ木扱いなんだな」
ロルフがぼそりと返すと、黒い根の先がごくわずかに揺れた。
頷いた、のかもしれない。
シオンが息を呑む。
「喋ってる……」
「うん。でも会話してるというより、土の感触が言葉になってるだけだね」
ロルフはそう言ってから、ふと足元の黒土を掬い上げた。
白い殻が崩れたあとの土。
まだ湿っている。
そこへ、さっき散った腐葉土の欠片を混ぜる。
黒い根が、その動きをじっと見ていた。
「ロルフ、まさか」
ゼファーの声に、ロルフは気軽に答える。
「ちょっと確かめるだけ」
「その“ちょっと”で今まで何度地獄を広げたか知っているか?」
「だいたい片づけてるから平気だよ」
「平気の定義を後で聞かせろ」
言いながらも、ゼファーは止めなかった。
止めてもやると分かっているからだろう。
ロルフは混ぜた土を、そっと黒い根の前へ置いた。
白い殻の土。
腐葉土。
炭の粒。
それに、シオンの毒が薄く染みた紫の名残。
今までの還樹が嫌がりそうなものばかりだ。
だが黒い根は逃げなかった。
ゆっくりと先端を伸ばし、その土へ触れる。
次の瞬間、ぴくりと大きく脈打った。
空洞の匂いが変わる。
甘ったるい静かな香りではない。
雨の前の畑みたいな、濃くて重い、けれどちゃんと先へ続く匂いが一瞬だけ広がった。
フィンが目を見開く。
「受け入れた……!」
「嫌ってない」
シオンも呟く。
「白いのと、全然違う」
「そうだね」
ロルフは静かに頷いた。
「こっちは“混ざる途中”を駄目なものだと思ってない」
黒い根が、土からゆっくり離れる。
そして、もう一度。
――混ゼル者。
今度の響きは、さっきより少しだけ変わっていた。
認識から、確認へ。
確認から、値踏みへ。
――何ヲ育テル。
問いだった。
フィンが思わずロルフを見る。
ゼファーも何も言わない。
シオンの腕の中の子どもだけが、息を潜めている。
ロルフは少しだけ考えた。
王都を救うとか。
還樹を止めるとか。
シオンを守るとか。
いろいろ言い方はある。
でも、ここで土に向かって嘘をついても仕方がない。
「人が、根を張れる土だよ」
ロルフは真っ直ぐ答えた。
「毒も、病も、死もある。でもそれを下へ捨てて綺麗な顔だけ残すんじゃなくて、混ぜて、次に回せる場所だ」
黒い根はしばらく動かなかった。
長い沈黙。
崩れかけた空洞の奥で、小石がひとつ落ちる音だけが響く。
やがて、根の先がほんの少しだけ沈んだ。
肯定とも否定ともつかない。
けれど、少なくとも“間違いだ”とは言われなかった。
その直後だった。
崩れた還樹の幹の残骸が、突然びくりと跳ねた。
「まだ生きてる!」
フィンの叫びと同時に、床に散っていた白い殻の欠片が一斉に浮き上がる。
さっきまで死んだように転がっていた細根まで、最後の執念みたいに蠢き始めた。
狙いはひとつ。
シオンの腕の中の子どもだ。
「っ――!」
シオンが咄嗟に身を翻す。
白い針根が数本、さっきまでいた場所を掠めた。
「しつこいですね!」
「本種は砕いたのに……!」
「残り滓が、自分たちの“種床”を取り戻そうとしてるんだ!」
ゼファーの青刃が閃き、飛んできた白根をまとめて断つ。
だが、残骸が多すぎる。床、壁、天井――空洞中に散った白い破片が、最後の悪あがきのようにシオンへ寄っていく。
その瞬間、縦穴から伸びていた黒い根が動いた。
しなやかに、だが圧倒的な速さで。
黒い根は、シオンを狙った白根の束へ一本だけ絡みつく。
すると白は一瞬で色を失い、乾いた木屑みたいに崩れた。
さらに一本。
また一本。
黒い根が触れた残骸から順に、白い執着が死んでいく。
フィンが息を止める。
「……掃除してる」
「掃除、だね」
ロルフの声は低い。
「失敗した実りを片づけてる」
ゼファーが眉を寄せる。
「つまり、我々を助けているのか」
「違うと思います」
抱えられたままの子どもが、小さく言った。
紫の瞳は、黒い根の方を見ていた。
「たすける、とかじゃない。……じゃま、だから」
その説明の方がしっくり来た。
黒い根は善意で動いているのではない。
自分の土にとって不要な残骸を、当然みたいに掃いているだけだ。
それでも、結果としては助かる。
空洞の残り滓があらかた黒へ沈んだところで、縦穴の奥からまた声がした。
――種床ハ、要ラヌ。
シオンの腕の中の子どもが、びくりと震える。
「……ぼく、のこと」
「そうだろうね」
ロルフは即答した。
「でも、要る要らないはそっちが決めることじゃない」
黒い根が、今度はゆっくりと子どもの方へ向きを変えた。
空気が張る。
ゼファーが剣を上げる。
シオンも無意識に子どもを庇って抱き寄せた。
だがロルフが一歩前へ出る。
「それは持っていかせないよ」
――浅イ器ダ。
「うん、まだ浅いね」
ロルフはあっさり認めた。
「でも浅いなら、育てればいい」
黒い根が止まる。
――白ハ、器ヲ削ッタ。
――オ前ハ、残スノカ。
「残すよ」
ロルフの返事には迷いがなかった。
「削って綺麗にするより、多少歪でも根が張れる方がいい」
シオンの目が、ほんの少し大きくなる。
腕の中の子どもも、まばたきを忘れたみたいにロルフを見た。
黒い根は、長く黙った。
そして――
縦穴の周囲の土が、ずるりと音を立てて崩れ始めた。
「崩落!?」
フィンが慌てて後ずさる。
だがそれは無秩序な崩れ方ではなかった。
落ちた石と土が、穴の縁に沿って左右へ分かれていく。まるで、見えない鍬で均されたみたいに。
次第に、穴の内側に段が現れた。
自然の岩肌ではない。
もっと古い、もっと荒い、けれど人為とも違う階段状の層。
「道を……作ってる?」
フィンが呆然と呟く。
「いや」
ロルフはその段差を見下ろした。
「もともとあった“層”が出てきただけだ。上の白い施設が、蓋してたんだろうね」
穴の底から吹き上がる風が、さらに濃くなる。
白く装われる前の毒。
切り分けられる前の巡り。
そういうものの匂いだ。
シオンが小さく言う。
「……下に、まだ本当の土がある」
「ああ」
「怖いです」
「うん」
「でも、白いのよりは、ずっとましです」
ロルフはその言葉に、少しだけ口元を緩めた。
「それなら大丈夫だ」
ゼファーが深く息を吐く。
「大丈夫の基準が怪しすぎるが、同意はする。少なくとも今までのような“美名の下の腐敗”よりは、底の自然の方が対処のしようがある」
「対処できるかはともかく、嘘は少なそうですね……」
フィンも青い顔のまま頷いた。
そのとき、シオンの腕の中の子どもが、そっとロルフを見た。
「……なまえ」
「ん?」
「ぼく、なまえ、わすれた」
今まで“子ども”としか呼びようがなかった存在が、自分からそう言った。
シオンが少しだけ困ったように眉を寄せる。
「思い出せそう?」
子どもは首を振った。
それから、少し迷って言う。
「しろいの、ずっと“たね”って、よんだ」
「それは駄目だね」とロルフ。
「ものみたいです」とシオン。
「完全にもの扱いですね」とフィン。
「却下だな」とゼファー。
珍しく、全員の意見が綺麗に揃った。
子どもがきょとんとしてから、ほんの少しだけ笑う。
その笑顔はまだ弱い。
けれど、さっきまでよりずっと人らしかった。
「……じゃあ、あとで」
「うん。あとでちゃんと考えよう」
シオンがそう言って抱え直すと、子どもはおとなしく頷いた。
その様子を見ていた黒い根が、最後にもう一度だけ脈打つ。
――混ゼル者。
――毒ノ子。
――降リルナラ、選ベ。
ロルフが眉を上げる。
「何を」
答えはすぐに来た。
――育テルカ。
――斬ルカ。
空洞の空気が、静かに張った。
ただ進めばいいわけじゃない。
下にある“最初の根”は、白い還樹みたいに器を欲しがってはいない。
だが、ただ受け入れるつもりもない。
混ぜる者として、どうするのか。
毒の子として、何を残すのか。
それを選べと言っている。
ロルフはすぐには答えなかった。
穴の底から吹き上がる風を吸う。
土の重さを確かめる。
そして、シオンと、抱えられた子どもと、ゼファーとフィンを順に見た。
「……今日は降りない」
ゼファーが即座に頷く。
「当然だ」
「助かります……」とフィンが膝から崩れそうな声を出す。
「正直、記録板を握る手の感覚がもうありません……」
シオンもほっと息を吐いた。
けれど目の奥には、ちゃんと次へ向く光がある。
「選ぶために、持ち帰るんですね」
「うん」
ロルフは穴の底を見据えたまま答える。
「下手に掘れば、また同じことになる。ここの土が何を食って、何を嫌がって、何なら育って、何なら駄目になるのか。そこをちゃんと見てからだ」
黒い根は、その答えに何も言わなかった。
ただ、穴の縁の黒土がゆっくりと沈み、今できたばかりの段差が崩れないよう固まっていく。
逃がしはしない。
だが、今すぐ引きずり込む気もない。
そういう無言の合図だった。
ロルフは鍬を肩に担ぎ直す。
「戻ろう」
「はい」とシオン。
「異論はない」とゼファー。
「生きて地上に戻れたら、まず寝ます……」とフィン。
四人とひとりは、崩れかけた深胎の空洞をあとにした。
最後にロルフが一度だけ振り返ると、黒い根はもう縦穴の奥へ沈みかけていた。
けれど完全には消えない。
闇の底で、まだこちらを見ている。
そして、空洞のどこにももう“還せ”の声はなかった。
代わりに残っていたのは、混ざりきらないまま次を待つ、重い土の匂いだけだった。




