まだ土へ返せる
鍬の刃が、黒紫の種のひびへ叩き込まれた。
ごん――ではない。
もっと鈍く、もっと腹の底へ響く音だった。
未熟な果実を割る音にも、石を砕く音にも似ていない。
育ちきる前に無理やり膨らまされたものが、内側から軋む音だ。
黒紫の種が、大きく脈打った。
どくん。
次の瞬間、表面を走っていた白い筋が一斉に逆立つ。
そこから噴き出したのは、白い針でも、濁った金の汁でもなかった。
声だ。
――還セ。
――還セ。
――果タセ。
――実ラセ。
空洞じゅうの根が、その声に合わせて狂ったようにうねる。
さっきまで蕾のような形だった白い果実もどきが、今度は無理やり口を開くみたいに裂け、その中から細い腕のような根を何本も伸ばしてきた。
「まだ来るか!」
ゼファーの青い結界が正面へ張り出される。
白い腕根がそれに叩きつけられ、火花が散った。
「ロルフさん、種の反応が上がってる! 腐葉土を嫌がってるだけじゃない、内側から何か押し返してる!」
「うん。分かる」
ロルフは鍬を引き抜き、もう一度、種のひびを見た。
浅い。
一撃で割れるほど脆くはない。
だが、手応えはあった。
こいつは完成した果実じゃない。
だからまだ、崩せる。
「シオン!」
「はい!」
「君の毒は種に直接入れないで。周りだけ」
「周り……?」
「そう。こいつ、自分の中身に君の毒を欲しがってる。だから、熟させるんじゃなくて――」
ロルフは種の周囲にぶちまけた腐葉土を靴先でさらに広げた。
「育つ場所を変える」
シオンの目が、はっと見開かれる。
すぐ理解したのだろう。
毒で撃つんじゃない。
毒が通る“土”の方を変えるのだ。
「……はい!」
シオンの毒が、今度は刃でも針でもなく、薄い輪になって広がった。
黒紫の種そのものではなく、その周囲の腐葉土と炭の層へ染みていく。
紫が、黒と茶へ混ざる。
次の瞬間、空洞の空気が変わった。
還樹が露骨に嫌がったのだ。
白い根が一斉に震え、幹の表皮に走っていた白灰がぽろぽろと剥がれ落ちる。
「効いてる!」
フィンが叫ぶ。
「種の外殻、土との境目で流れが乱れてる! 今まで“神子の毒を受けるための苗床”だったのが、ただの分解層に変わり始めてる!」
「よし」
ロルフは鍬を握り直した。
還樹のやり方は単純だ。
押し込める。
切り分ける。
綺麗な形に整えて、そこへ“次の器”を実らせる。
だったら、その前提を崩せばいい。
種が実るには、都合よく整えられた土がいる。
逆に言えば、崩れて混ざって次になる途中の土は、一番都合が悪い。
「未熟な実は、腐るのを一番嫌がる」
ロルフが低く言った、そのとき。
幹の中の子どもが、膜の内側から強く首を振った。
「ちがう」
小さい声。
けれど今度は、はっきりと意思があった。
「くさらせるんじゃ、ない」
ロルフの目が、ほんの少し細くなる。
「……じゃあ、なんだい」
子どもは苦しそうに呼吸を繰り返し、それでも言葉を押し出した。
「めを、さまさせる」
その瞬間、黒紫の種がひときわ大きく脈打った。
どくん!
還樹が、その言葉自体を打ち消そうとするように、白い果実もどきを次々と裂いていく。
中から無数の針根が放たれ、今度はロルフだけを狙って一直線に飛んだ。
「ロルフ!」
ゼファーの声と同時に、青い刃が数本の針根を断つ。
だが全部は防げない。
一本、二本、三本。
ロルフは鍬の柄で払ったが、一本だけ脇腹をかすめた。
鋭い痛み。
血はほとんど出ない。
代わりに、嫌な甘さが皮膚の内側へ差し込んでくる。
「っ……」
「旦那様!」
「大丈夫」
短く答えたものの、厄介なのは痛みではなかった。
針根から流れ込んできたのは、香と同じだ。
痛くない畑。
苦労しない収穫。
死なない苗。
そういう“綺麗なだけの実り”のイメージが、意識の端へにじんでくる。
ロルフは舌打ちし、脇腹の針根を自分で引き抜いた。
「……畑を舐めるなよ」
引き抜かれた針根は、床へ落ちた瞬間に白い粉になって崩れる。
「旦那様、本当に……!」
「平気。こんなの、肥料にもならない」
その声で、シオンの迷いが切れた。
シオンは自分から前へ出る。
還樹が待っていたように白い根を寄せるが、もう恐れない。
「返しません」
紫の毒が、今度は還樹の根元を囲むように走った。
輪が、二重、三重と重なる。
「旦那様の土を、勝手に苗床にしないで」
その言葉に合わせるように、ロルフはスキルを起動した。
『毒素等価交換』
空洞の底で、何かが大きくずれた。
種へ集まっていた流れが、急に止まる。
いや、止まったのではない。
“種を育てるための流れ”が、“種を崩して還すための流れ”へ書き換わったのだ。
黒紫の殻のひびから、濁った紫が逆流する。
白い果実もどきが悲鳴のように震え、次々と萎み始めた。
「今です!」
フィンが記録板も忘れて叫ぶ。
「核の圧が落ちてる! 殻の継ぎ目、さっきの一撃の場所です!」
「了解」
ロルフは踏み込んだ。
還樹の太い根が左右から迫る。
ゼファーがその一本を青刃で断ち、もう一本を結界で押し返す。
「二度目はないと思え!」
「十分だよ!」
ロルフは種の正面に立った。
黒紫の殻。
白い筋。
無理に実ろうとして、まだ耐え切れていない未熟な核。
それは見ようによっては巨大な果実にも見えた。
だがロルフに言わせれば、ただの育成失敗だ。
「実りはね」
鍬を振り上げる。
「食うためにも、蒔くためにも、ちゃんと育てないと駄目なんだ」
振り下ろす。
ごきん、と今度ははっきり割れる音がした。
種の殻が、縦に裂けた。
中から噴き出したのは光ではない。
黒い泥。灰色の粒。濁った紫。
そして、白く削り取られていたはずの何かの欠片たち。
それは毒だった。
だが、シオンだけの毒じゃない。
歴代の神子から切り離され、下へ送られ、器を育てる燃料にされてきたもの。
役目の名の下に押し込められた痛みそのものだった。
空洞じゅうの根が、それを取り戻そうとするように一斉に伸びる。
「ゼファーさん!」
「分かっている!」
青い結界が扇形に展開され、根の流れをせき止める。
だが限界は近い。光がひび割れ、空気が焦げるような匂いを立てる。
「ロルフ、長くは保たん!」
「長くはいらない」
ロルフは割れた種の内側へ手を差し込んだ。
熱い。
生ぬるい。
未熟なくせに、育ったふりだけした核の熱だ。
その中心に、硬い塊がひとつある。
「……見つけた」
引き抜いたそれは、拳大の小さな種だった。
外側の巨大な殻とは違う。
黒紫ではあるが、表面には白い筋がほとんどない。まだ完全には染まり切っていない、本当の意味での“芯”だ。
フィンが息を呑む。
「二重殻……!」
「外側は育成槽、内側が本種か……!」
ゼファーが歯噛みする。
「なんて悪趣味な」
そのとき、幹の中の子どもが、膜の向こうから強く掌を押しつけた。
「それ、うえるな」
「え?」
シオンが思わず反応する。
子どもの瞳は、まっすぐロルフを見ていた。
「それ、まだ、なる。……したで、また、なる」
空洞が大きく鳴った。
どくん、どくん、どくん。
幹に絡む根が、明らかにその小さな種を取り戻そうとしている。
外殻が割られても、本種さえあればやり直せるのだろう。
「旦那様!」
「うん。埋めない」
ロルフは短く答えると、その小さな本種を見下ろした。
たしかに、まだ生きている。
だが生きていることと、育てていいことは別だ。
普通の種なら、土へ返して次を待つという手もある。
けれどこれは違う。
生きた毒と祈りを喰って、器を実らせるための種だ。
下手に残せば、またどこかで根を伸ばす。
「なら」
ロルフは拳を握る。
「ここで、芽を潰す」
その瞬間、本種がびくりと脈打ち、ロルフの手の中で白い根を生やした。
細い。
だが速い。
指の隙間を縫って腕へ登ろうとする。
「ロルフ!」
ゼファーの叫び。
けれどロルフは離さない。
「シオン!」
「はい!」
「今度はこれに、少しだけ」
シオンは一瞬だけ迷った。
毒を与えれば、こいつはまた喜ぶのではないか。
その恐れは当然ある。
だがロルフは、目だけで「違う」と告げた。
「少しでいい。発芽じゃなく、終芽にする」
その言葉に、シオンは息を吸い、頷いた。
「……分かりました」
指先から零れた毒は、ほんのひとしずくだけだった。
だが、その一滴にはシオンの意思が詰まっていた。
奪われるための毒じゃない。
誰かに押しつけられるための毒でもない。
自分で使い道を決める毒だ。
紫が本種へ落ちる。
瞬間、白い根が歓喜するように伸びかけ――
次の瞬間には、ぴたりと止まった。
「……え」
フィンが目を見開く。
「吸わない?」
「違う」
ロルフが低く言う。
「吸えないんだよ。こいつが欲しかったのは、“捨てられる毒”だ」
本種が震える。
シオンの毒は、もう捨てられる側のものじゃない。
だから還樹の論理では、うまく咀嚼できない。
「今だ」
『毒素等価交換』
ロルフの掌の中で、本種がぎしりと軋む。
白い筋が黒に沈む。
黒紫の殻が灰へほどける。
内側の“次の器を作る設計”だけが、急速に崩れていく。
「やめ――」
初めて、還樹そのものが言葉らしいものを漏らした。
それは祈りでも命令でもない。
ただの恐慌だった。
ロルフは冷たく言い切る。
「駄目だよ。育て方を間違えた」
ぱきり、と軽い音がした。
本種が、砕けた。
掌の中で灰と黒土の粒に崩れ、風もないのにさらさらと落ちていく。
その瞬間。
空洞じゅうの根が、一斉に力を失った。
天井の根が垂れ下がり、床を這っていた細根がしおれ、白い果実もどきが次々と裂けて中身もなく潰れていく。
幹を包んでいた白灰も、大量の粉となって剥がれ落ちた。
中心に残ったのは、白く装われていない、本来の黒い樹肌だけだった。
そして幹の中の子どもを包んでいた膜にも、大きな亀裂が走る。
「旦那様!」
「助ける!」
ロルフは崩れ落ちる根を蹴り越え、幹へ駆けた。
ゼファーが後方から青刃で垂れ根を断ち、フィンが「左、まだ生きてる根あります!」と叫ぶ。
シオンは迷わずロルフの後ろを追った。
膜はもう薄かった。
ロルフが鍬の石突きで一撃入れると、あっさり割れる。
中から、軽い身体が前へ倒れ込んできた。
シオンが咄嗟に受け止める。
「……っ、軽い」
抱えた感触は、あまりにも軽かった。
子どもは痩せているわけではない。なのに、長いこと“人としての重さ”を奪われていたみたいに、ひどく頼りない。
濃い紫の瞳が、ゆっくりとシオンを見上げる。
「……にてる」
子どもは、かすかに笑った。
それは今までの白い器たちと違って、ちゃんと人の笑みだった。
「でも、おなじじゃ、ない」
「うん」
シオンの返事は、驚くほど穏やかだった。
「違うよ」
そのやり取りを見た瞬間、ロルフはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
だが、終わってはいない。
還樹の本種は砕けた。
幹も崩れ始めている。
それでも空洞の底の土は、まだ鳴っていた。
「ロルフ」
ゼファーの声が鋭く飛ぶ。
「足元を見ろ」
黒い樹の根元。
そこにぽっかりと、大きな穴が開いていた。
種が埋まっていた場所ではない。
もっと深い。
幹の芯そのものが抜け落ちたことで、底へ続く縦穴が露わになったのだ。
そこから吹き上がってくる空気は、今までと違う。
白くない。
甘くもない。
もっと古く、もっと重く、もっと純粋な“毒の土”の匂いだった。
フィンの顔色が変わる。
「……まだ下がある」
「ええ」
ゼファーも低く応じる。
「しかも、ここまでの施設より古い層だ」
シオンの腕の中で、救い出された子どもが微かに震えた。
「した……まだ、いる」
「誰が?」
シオンが問う。
子どもは、うまく息を継げないように何度か瞬きをして、それから言った。
「いちばん、さいしょの、ね」
空洞が、ずん、と低く鳴った。
崩れ始めた還樹の根が、その音に怯えるようにさらに縮む。
まるで、自分を育てた“親”の気配でも感じたみたいに。
ロルフは穴の縁へ歩み寄り、吹き上がる空気を吸った。
濃い。
だが嫌なだけじゃない。
ここまで上で切り分けられ、押し込められ、都合よく使われてきたものの“元”に近い匂いだ。
毒そのもの。
もっと自然で、もっと生きた、根源の層。
「……なるほど」
「何が分かった」
ゼファーの問いに、ロルフは穴の底を見たまま答えた。
「ここまでの還樹は、上の連中が育てた“利用しやすい毒”だ」
「利用しやすい?」
「うん。切り分けて、器に詰めて、綺麗な形にするためのやつ」
ロルフは目を細める。
「でも、下にあるのはたぶん違う。もっと古い。“最初の根”っていうのが本当なら、そっちが元の土だ」
フィンが息を呑む。
「じゃあ、ここは……」
「接ぎ木だよ」
ロルフは静かに言った。
「上の思想が、古い毒の土に勝手に接ぎ木して、変な実を作ろうとしてただけだ」
シオンが腕の中の子どもを支え直す。
「……この子、連れて上がれますか」
「上げたいけど、今は難しい」
ロルフは正直に答えた。
「崩落が始まってる。いったん安全な部屋まで戻すのが先だ」
ゼファーもすぐ頷く。
「同感だ。ここで欲張れば全員埋まる」
だがその瞬間。
縦穴の底から、ぴたりと風が止んだ。
次いで――
ごり。
何か硬いものが、下で動いた音。
全員の背筋に冷たいものが走る。
子どもがシオンの腕の中で、はっきり怯えた。
「きた」
「何が」
フィンの声が掠れる。
答えの代わりに、縦穴の底から、細く黒い根が一本だけ伸びてきた。
今までの白い根とはまったく違う。
細いのに、生き物の背骨みたいな強さがある。
曲がりながら、迷わずまっすぐ、砕けた還樹の残骸へ触れる。
すると、床に散っていた白い殻の欠片が、じわりと黒へ染まった。
ロルフの目が鋭くなる。
「……食ってる」
還樹の残骸を。
壊れた接ぎ木を。
失敗した果実の殻を。
まるで掃除するみたいに、当然のように。
黒い根は、次にゆっくりと方向を変えた。
向いた先は――シオンではない。
ロルフだった。
そして、誰の耳にも直接触れるように、低い声が響く。
――混ゼル者。
それは今までの“還せ”とはまるで違う響きだった。
拒絶でも命令でもない。
ただ、認識してきた声だ。
ロルフは穴の底を見下ろしたまま、鍬を握り直す。
「やっと本体が挨拶してきたね」




