果実にしようとしていた
――たべられる。
その一言が落ちた瞬間、深胎の空洞じゅうの根がいっせいに持ち上がった。
天井から垂れていた太い根がうねり、床を這っていた細根が波みたいに逆巻く。
白く装っていた上層の設備とは違う。
ここにあるのは、もう取り繕いをやめた飢えそのものだった。
「下がって!」
ゼファーの結界が青く閃く。
直後、前方から押し寄せた根の群れがそれへ叩きつけられ、空洞に硬い音が響いた。
だが勢いは止まらない。
一本一本なら斬れる。けれど数が違った。柱ほどの太さの根が左右から迫り、その隙間を縫って無数の細根が槍みたいに伸びてくる。
「ロルフさん、こっち全部“流れ”がシオンさんに寄ってる!」
フィンの叫びに、ロルフはすぐ頷いた。
「うん。分かってる」
還樹は見つけたのだ。
長い時間をかけて下へ押し込め、ようやく形にしようとしてきたものの“完成に近い餌”を。
シオンの毒。
いまのシオンが持つ、ただ捨てられるだけではない、生きた毒を。
「シオン、前に出すぎないで」
「……はい」
返事はあった。だがシオンの目は、樹の幹の中の子どもへ吸い寄せられている。
似ているわけではない。むしろ顔立ちは違う。
けれど、あの子が“器”ではなく“使われる側”だということだけは、痛いほど分かったのだろう。
幹の中の子どもが、もう一度唇を動かした。
「たべ、られる……」
今度は少しだけ、人の声に近かった。
警告だ。
ロルフは鍬を構え、床へ半歩踏み込む。
「ゼファーさん、正面を三秒だけ空けて」
「無茶を言う」
「三秒でいい」
「……二秒半だ!」
次の瞬間、ゼファーの結界が斜めに捻れた。
正面の根を受け流し、ほんの一瞬だけ空間が開く。
ロルフはそこへ腐葉土を投げ込んだ。
黒く湿った塊が、還樹の根元へばらまかれる。
続けざまに炭化木片も放る。
太い根が、それに触れた途端にわずかにぶれた。
「効いた!」
フィンが声を上げる。
「やっぱり、途中の土を嫌がってる!」
「嫌がるっていうより、飲み込めないんだよ」
ロルフは鍬で細根を払った。
「こいつは“切り分けたもの”ばかり食ってきた。崩れかけのもの、混ざりかけのもの、次に変わる途中のものが苦手なんだ」
還樹の幹が、大きく脈打つ。
どくん。
すると今度は、太い根の表皮が裂け、中から濁った金の液が噴き出した。
液は地面に落ちる前に糸みたいな細根へ変わり、今度はシオンの足へ絡みつこうとする。
「シオン!」
「大丈夫です!」
シオンは自分から一歩踏み出した。
紫の毒が、足元から静かに広がる。霧ではない。薄い膜だ。
細根がそこへ触れた瞬間、じゅ、と音を立てて縮んだ。
だが完全には止まらない。
還樹はシオンの毒を恐れていない。
むしろ、確かめるように何度も何度も触れにくる。
「……気持ち悪い」
シオンが顔をしかめる。
「舐められてるみたいです」
「ああ」
ロルフは短く答える。
「品定めされてる」
その瞬間、幹の中の子どもが大きく目を見開いた。
黒に近い紫の瞳。
それがまっすぐ、シオンだけを見た。
「だめ」
小さい。けれど今度ははっきり聞こえた。
「みられたら、なる」
「なる?」
シオンが思わず問い返す。
だが答えたのは子どもではなかった。
空洞じゅうの根が、ひどく甘い匂いを吐き出す。
上層で嗅いだ、あの“綺麗なまま腐る”匂いだ。
それが一気に濃くなり、視界が白く霞む。
フィンが咳き込む。
「これ、胞子じゃない……香だ……認識を鈍らせる!」
「息を浅くしろ!」
ゼファーの怒声と同時に、青い結界が薄い膜となって四人の周囲を包む。
だが香は完全には防げない。鼻ではなく、皮膚からも染みてくる。
ロルフの頭に、ふと静かな畑の風景がよぎった。
何も荒れていない土。
毒も、死も、飢えもない、綺麗なだけの畝。
手間も苦労もいらない、出来すぎた景色。
「……は」
ロルフは鼻で笑った。
「そんな畑、面白くもない」
鍬の石突きを床へ叩きつける。
ごん、と音が空洞に響いた。
「旦那様!」
「大丈夫。見せてるだけだよ、こいつ」
問題は、シオンの方だった。
シオンの目が一瞬だけ揺れていた。
見えているのだろう。
痛くない自分。毒を持たなくていい自分。ロルフに迷惑をかけない自分。
そういうものを。
ロルフは振り返らず、ただ言った。
「シオン。いま何が見えてる?」
数瞬の沈黙。
それから、掠れた返事。
「……楽なほうです」
「うん」
「もう苦しくないほう。毒を持たなくていいほう。旦那様の隣にいても、汚さないほう」
フィンが息を呑み、ゼファーが眉をひそめる。
けれどロルフだけは声を変えなかった。
「それ、畑に例えるとね」
「……はい」
「虫も病も来ないからって、ずっと耕さずに固めた土と同じだよ」
シオンの睫毛が震える。
「最初は綺麗に見える。でもそのうち、根が張れなくなる」
白い香がなおも漂う中、ロルフの声だけが妙にまっすぐ届いた。
「君は、もう根を張ってる」
その一言で、シオンの目が戻る。
揺れていた紫が、ぎゅっと芯を取り戻した。
「……はい」
「なら見なくていい。君はもう、こっちの土で育ってる」
次の瞬間、シオンの毒が強く脈打った。
今度の紫は、香に曇らない。
深く、夜の底みたいな色をしている。
「返しません」
シオンがはっきり言った。
「僕の毒も、僕の痛みも、僕が使います」
還樹の幹が、大きく震えた。
どくん、どくん、と連続する脈動。
それに合わせて、根元の黒土が盛り上がる。
そしてロルフは気づいた。
「……違う」
「何がです?」とフィン。
「こいつ、シオンを食べたいんじゃない」
ロルフは幹の中央、子どもを包んだ膜のさらに下を睨む。
そこだけ土の鳴り方が違った。
飢えているのではなく、孕んでいる。
「“実らせたい”んだ」
ゼファーが低く繰り返す。
「実らせる……?」
「うん。あの子を核にして、シオンの毒を継ぎ足して、次の“神子の果実”を作るつもりだ」
フィンの顔が青ざめる。
「果実……! だから“還る器”じゃなく“本命体”……!」
幹の中の子どもが、必死に首を振った。
「ちがう」
声が、今度は少しだけはっきりする。
「ぼく、みじゃない。……たね」
空洞の空気が止まった。
種。
その言葉の意味を理解するより早く、還樹の幹が大きく裂けた。
子どもを包んでいた膜が前へ膨らみ、その表面に無数の白い筋が走る。
まるで、内側から何か別の形になろうとしているみたいに。
「来るぞ!」
ゼファーの結界が再展開される。
だが今度の攻撃は根ではなかった。
幹の裂け目から、白い殻をまとった太い蕾のようなものが押し出されてくる。
花ではない。実でもない。
もっと嫌な、肉と木の途中みたいな形だった。
その表面に、薄く人の顔が浮かぶ。
どれも表情がない。
神子の器。
代替殻。
なりそこないの果実たち。
「……最悪ですね」
シオンが低く言う。
「ああ」
ロルフも同意した。
「実りを舐めてる」
白い果実もどきが、いっせいに開いた。
中から飛び出してきたのは種ではなく、細い針みたいな根だった。
狙いはやはりシオン。
ロルフは前へ出て、それを鍬でまとめて払う。
ゼファーの青刃が追撃し、左右の果実もどきを断ち裂く。
だが壊したそばから、幹の裂け目の奥で次が膨らんでいく。
「きりがない!」
フィンが叫ぶ。
「本体を落とさないと、増え続けます!」
「分かってる!」
ロルフは空洞の床を見た。
根。
白い殻。
黒土の窪み。
そして中央の幹。
普通の樹なら、幹を倒せば終わる。
だがこいつは逆だ。幹は見せかけで、本当に太い流れは下――深胎の底へ続いている。
「フィン、根の集まりが一番深い場所は?」
「幹の真下……いや、少し後ろです! 子どもを包んでる位置より、さらに半歩奥!」
「了解」
ロルフはシオンへ視線を送る。
「合わせられる?」
「はい」
「今度は吸わせない。混ぜる」
シオンが頷く。
毒が両手に集まり、細い帯となって揺れた。
それは以前のような“苦しみそのもの”ではない。
痛みを知ってなお、自分の意思で使うと決めた毒だ。
ロルフは地を踏み、スキルを起動する。
『毒素等価交換』
還樹がそれを察知し、空洞じゅうの根を逆立てた。
白い果実もどきが一斉に弾け、針の雨が降る。
「伏せろ!」
ゼファーの結界が真正面から受け止める。
火花が散り、青い膜が軋む。
「今だよ、シオン!」
「――はい!」
シオンの毒が、幹ではなく、その後ろの黒土へ突き刺さった。
瞬間、還樹の脈動が狂う。
どくん。
どく、ど、と、不揃いになる。
当たりだ。
「そこ!」
ロルフは全力で踏み込んだ。
根を蹴り越え、白い殻を割り、幹の背後の黒土へ鍬を叩き込む。
鈍い手応え。
だが土ではない。
もっと硬い。
丸い。
殻を持った何か。
「やっぱり……!」
ロルフが鍬を引き抜くと、そこに埋まっていたものが露わになる。
巨大な種だった。
人の胴ほどもある、黒紫の種。
表面には白い筋がびっしりと走り、その一本一本が幹や根へ繋がっている。
還樹は木ではない。
この種を育てるための仮の身体だったのだ。
「……本体」
フィンが震える声で呟く。
「“本命体”って、これか……!」
種が、ぴきりと鳴る。
ひびが入る。
内側から、濁った紫の光が漏れた。
幹の中の子どもが、叫ぶように口を開いた。
「それ、だめ! わるく、ひらく!」
「どういう意味だ!」
ゼファーが問い返す。
だが子どもは苦しそうに首を振るばかりだ。
「ひらいたら……いっぱい、なる」
その言葉と同時に、種のひびがさらに広がった。
空洞じゅうの根が痙攣する。
白い果実もどきが、今まで以上の速さで膨らみ始める。
ロルフは一瞬で決めた。
「シオン、あの種に君の毒を流し込まないで」
「え?」
「こいつはそれを待ってる。熟す」
シオンの目が見開かれる。
「じゃあ、どうするんですか」
ロルフは鍬を握り直し、口元だけで笑った。
「実りたがるなら、その前に土へ戻す」
次の瞬間、彼は麻袋の残りを全部、種の周囲へぶちまけた。
腐葉土。
炭化木片。
道中で集めた、まだ崩れきらない途中の土。
黒と茶が、黒紫の種を覆う。
還樹が初めて、露骨に怯えたように震えた。
「未熟な実に一番効くのはね」
ロルフは種へ足をかける。
「“次になる途中”を叩き込まれることだよ」
そして鍬を、大きく振り上げた。
種のひびへ向かって――。




