棚には、土の匂いがなかった
――良イ子ハ、還リナサイ。
部屋の奥から響いたその声は、怒鳴るようなものではなかった。
むしろ逆だ。やけに優しい。やけに静かで、やけに耳あたりがいい。
だからこそ、質が悪かった。
棚いっぱいに並んだ白い頭蓋が、かたかたと小さく鳴る。
風もないのに揺れ、歯のない口元をわずかに開くようにして、同じ音を繰り返した。
――還リナサイ。
――還リナサイ。
シオンの指が、ロルフの袖をぎゅっと掴む。
「……嫌です」
かすれた声だった。
恐怖だけじゃない。もっと古い、体に染みついた拒絶の色がある。
ロルフは視線を前へ向けたまま、小さく答えた。
「うん。なら、帰らなくていい」
その一言で、シオンの肩からほんの少しだけ力が抜けた。
だが部屋の奥の“白い頭部”は、それを許さないようにさらに亀裂を広げた。
表面を覆っていた白い殻が、薄く剥がれ落ちていく。
中から覗いたのは骨ではなかった。
淡く濁った金色の光だ。柔らかそうに見えるのに、見ているだけで胸の奥がざらつくような、不自然に整えられた光。
フィンが記録板を抱えたまま、息を呑む。
「これ……祈祷装置、ですか……?」
「違うな」
ゼファーが低く言った。
「これは“唱和”だ。ひとつの声を、部屋全体で増幅している」
言われてみればそうだった。
声は奥の白い頭部から発せられているのに、実際には左右の棚の白い頭蓋すべてが、それぞれ少しずつ遅れて同じ言葉を繰り返している。
部屋全体がひとつの喉になっているのだ。
ロルフは一歩前へ出た。
甘い匂いが濃くなる。
だが、やはり土の匂いはしない。
白い。綺麗だ。整っている。
なのに、命が巡った痕が何ひとつない。
土へ返る途中の湿りも、腐葉土の温度も、崩れて次になる気配も、ここにはなかった。
「保存庫だな」
ロルフがぼそりと言う。
「え?」とフィン。
「ここ、還すための場所じゃない。止めるための場所だ」
頭蓋のひとつへ手を伸ばしかけ、ゼファーが鋭く制した。
「触るな、ロルフ」
「大丈夫」
ロルフは棚の手前に落ちていた白い欠片を拾い上げた。
軽い。乾いている。そして中身がない。
「畑でも、実りを怖がるやつは、よく保存ばかり考える」
「保存……」
「腐る前に止めれば綺麗なままでいられるって思ってる。でも、それじゃ次が育たない」
その瞬間、部屋の奥の光がひときわ強く脈打った。
――交ジルナ。
――濁ルナ。
――良イ子ハ、静カニ還リナサイ。
シオンがびくりと震える。
白い声は、もう誰にでも同じ言葉をかけているわけではなかった。
少しずつ、聞こえ方が違う。
フィンには“知りすぎるな”と。
ゼファーには“従え”と。
そしてシオンには、もっと甘く、もっと柔らかく――
――毒ノ子。
――モウ痛クナイ。
――要ラナイ毒ハ、下ニ預ケナサイ。
「っ……!」
シオンの顔から血の気が引いた。
ロルフはすぐにその前へ半歩ずれ、棚と奥の頭部を遮るように立つ。
「見るな」
「でも……」
「見なくていい」
「……はい」
返事はあったが、シオンの声は強張っていた。
白い頭蓋たちが、かたかた、かたかたと揺れ続ける。
次いで、棚の奥へ伸びていた細い根が一斉に脈打った。
「来るぞ!」
ゼファーの警告と同時に、左右の棚から白い糸が噴き出した。
髪の毛ほど細いのに、束になると刃物みたいに鋭い。
一直線にロルフたちの喉元を狙って走る。
ゼファーの結界が前面へ展開し、青い火花が散った。
防いではいるが、糸の数が多い。棚の数だけ射線がある。
「フィン、下がって!」
「は、はい!」
フィンが後退しながらも記録板を離さないあたり、肝が据わっているのか鈍いのか微妙なところだった。
ロルフは鍬を横に振るい、結界を抜けてきた白糸をまとめて払う。
ぱしぱしと乾いた音が続く。
切れた糸は白い粉になって落ちるが、すぐ棚の奥の根が脈打ち、新しい糸が生えてくる。
「面倒だな」
「旦那様、根を断てば……!」
「うん。でもこの部屋だと多すぎる」
ロルフの目が、左右の棚を素早くなぞる。
白い頭蓋ひとつひとつが節点だ。
全部でひとつの設備になっている。端から壊しても追いつかない。
「じゃあ、元を崩す」
ロルフは麻袋を開き、中から腐葉土を掴んだ。
ゼファーが一瞬だけ呆れた顔をする。
「本当にそれでいくのか」
「こういう綺麗好きにはよく効くよ」
言うが早いか、ロルフは左右の棚へ向かって腐葉土を投げつけた。
黒く湿った土が、白い頭蓋の列へばらばらと降りかかる。
次の瞬間、部屋の空気が露骨にざわついた。
頭蓋たちの震え方が変わる。
整った合唱だったはずの“還リナサイ”が、急に不揃いになった。
――ア。
――ァ。
――交ジ、
――ル、ナ。
フィンが目を見開く。
「乱れた……!」
「未分解を嫌ってるんだ」
ロルフはさらに炭化木片を棚の根元へ蹴り込む。
「腐ることも、混ざることも、次の肥やしになることも知らないから、こういう場所はすぐ音が濁る」
その“濁る”という言葉に反応したように、奥の大きな頭部がひび割れを深めた。
濁った金色の光が漏れる。
そして今度は、はっきりとした女の声に近いものが響いた。
――混ゼル者。
――規ヲ乱ス者。
――毒ノ子カラ、離レナサイ。
シオンの目が見開かれる。
「僕を……見てる」
「見させてるだけだよ」
ロルフは振り返らずに言った。
「中身は棚の喉だ。大した目じゃない」
その言い方が、シオンには効いたらしい。
恐怖に呑まれかけた呼吸が、少しだけ戻る。
「……はい」
「シオン。君の毒、棚じゃなくて声の根元に届く?」
数瞬の沈黙。
シオンは奥の大頭部を睨み、ゆっくり頷いた。
「やります」
「無理ならすぐやめていい」
「やめません」
その答えに、ロルフは僅かに口元を緩めた。
「うん。じゃあ合わせて」
ゼファーが結界を一段押し広げ、白糸の射線をまとめて受ける。
火花が激しく散った。
「十秒だ! それ以上は保たん!」
「十分」
ロルフは床へ片膝をつき、石の継ぎ目に手を当てた。
この部屋には土がない。
だが“土に返るべきもの”は大量にある。
閉じ込められた骨。
止められた巡り。
綺麗なまま朽ちることを強いられた残滓。
それらは畑にとって、十分すぎるほどの毒だった。
『毒素等価交換』
発動と同時に、床下で何かがごう、と鳴った。
白い頭蓋の列が一斉に震える。
棚の奥を走る根が、苦しむように脈を乱した。
「今です!」
シオンの毒が、一直線に走る。
紫の糸は白い糸と違い、どこまでも素直だった。
隠さない。取り繕わない。
ただ、そこにあるものとして真っ直ぐ進む。
毒は奥の大頭部の亀裂へ突き刺さった。
瞬間、部屋中の頭蓋が甲高く鳴いた。
――アアアアア。
それはもはや“還リナサイ”ではなかった。
言葉にならない、崩れた悲鳴だ。
白い殻が奥から剥がれ落ちる。
金色の光が乱れ、その中に埋もれていた黒い根の束が露わになる。
太い。何本もある。大頭部は喉ではなく、根を束ねて整えた拡声器だったのだ。
「やっぱり中身は根だ」
ロルフは立ち上がり、鍬を構えた。
「じゃあ、切れば静かになる」
踏み込む。
白い糸が何本も飛んできたが、勢いはもう鈍い。
ゼファーの結界がそれを弾き、ロルフは一直線に奥へ走った。
鍬を振り下ろす。
鈍い衝撃。
白い殻が割れ、内側の黒い根が軋む。
だが一本では足りない。
根は束になって互いを支え合い、まだ声を保っていた。
――還セ。
――還セ。
――毒ノ子ヲ、還セ。
「嫌です!」
シオンが叫んだ。
その声は、今までで一番強かった。
「僕は、もう戻りません!」
紫の毒がさらに濃くなる。
今度は針ではない。刃のような形になって、大頭部の裂け目へ深く食い込んだ。
黒い根が一本、弾ける。
同時に、左右の棚の頭蓋がいくつも砕けた。
白い殻が剥がれ、内側から灰と黒土の粉がこぼれ落ちる。
フィンが息を呑む。
「連動してる……! あの大きいのが中枢だ!」
「分かりやすくて助かるな」
ロルフは鍬を握り直した。
「ゼファーさん!」
「言われなくても!」
青い光刃が横薙ぎに走り、残っていた白糸の束をまとめて切断する。
その隙にロルフが二歩、三歩と踏み込み――
大頭部の真正面へ鍬を叩き込んだ。
ごん、と腹に響く音。
白い殻が大きく陥没し、裂け目から濁った金の光が噴き出した。
だがそれは美しくはない。
無理に磨き上げた器が、内側から腐って割れる瞬間の色だった。
ロルフはさらに力を込める。
「綺麗なまま止めるな」
鍬の刃が根の束へ食い込み、一本、また一本と断ち切っていく。
「混ざって、崩れて、次になるんだよ」
最後の一本が切れた。
その瞬間、大頭部は声を失った。
部屋中の頭蓋がいっせいに沈黙する。
次いで、左右の棚からばらばらと白い殻が剥がれ落ち、床へ降り積もった。
奥の壁が、低く鳴る。
ごり、ごり、と重い音。
フィンが青ざめながらも叫んだ。
「まだ終わってません! 奥で新しい反応です! この部屋、ただの唱室じゃない、その先に――」
壁の中央に刻まれていた【還】の字が、縦に割れた。
白い石壁がゆっくり左右へ開いていく。
その向こうにあったのは、階段ではなかった。
もっと大きな空間だ。
暗い地下の広間。
天井から幾筋もの白い根が垂れ、床の中央には黒い土を満たした巨大な円形槽が見える。
その土の上に、何かが横たわっていた。
人だ。
いや、人型と言うべきか。
白い衣に包まれ、胸の前で静かに手を組み、まるで眠っているように動かない。
だが顔だけが見えない。白い布ではなく、薄い殻のようなものに覆われている。
シオンの喉が、ひゅっと鳴った。
「……あれ」
次の瞬間、その眠るものの顔を覆う白い殻に、一本の亀裂が入った。
ぴし、と小さな音。
さらにもう一本。
そして、その殻の下から覗いたのは――
見覚えのある、紫がかった瞳の色だった。
シオンが、息を止める。
「……僕?」
広間の奥から、今度ははっきりとした声が響いた。
さっきの唱和の声とは違う。
もっと低く、もっと古く、もっと近い。
――神子ハ、還ル。




