白はもう綺麗じゃなかった
坂の奥から吹き上がってきた風は、冷たいのに湿っていた。
礼拝堂跡の床に積もっていた白灰が、さらりと舞う。
その下から覗いた黒土は、すぐにまた白く覆われた。
「……行くよ」
ロルフがそう言うと、シオンが隣で小さく頷いた。
ゼファーは無言で結界の輪を薄く展開し、フィンは記録板を抱え直してから、深く息を吸う。
四人は、白い坂道へ足を踏み入れた。
石造りの斜路は、見た目よりもなだらかだった。
人が上り下りする前提で造られている。壁の灯火台は等間隔に並び、ところどころに古い排水溝まで刻まれていた。
神殿の地下設備というより、大きな蔵の通路に近い。
ただし、普通の蔵なら、こんな匂いはしない。
「甘いですね……」
シオンが言った。
「ああ」
ロルフは足元の白灰を軽く踏みしめる。
花の蜜みたいな甘さ。
けれど、咲いている花の匂いではない。切られて時間の経った花を、水も替えずに壺へ差し続けたときの甘さだ。
整っていて、綺麗で、でもどこかで命の巡りが止まっている匂い。
「浄化香の残滓に似ています」
ゼファーが壁を見回しながら言う。
「王都の大神殿でも、大儀式の前には似た香を焚く。ただ……ここまで濃くはない」
「香りで誤魔化してるのかもしれませんね」
フィンの声はやや硬い。
「匂いが強い場所ほど、本来の状態を隠したいことがありますから」
「納屋でも同じだよ」
ロルフが何気なく返す。
「香草を吊るしてる場所ほど、たまに下で芋が腐ってる」
ゼファーが一瞬だけ何とも言えない顔をした。
「君の例えは、本当に一貫してるな……」
坂は静かに、けれど確実に下へ続いていた。
途中、何度か踊り場があった。
壁の一部には古い文字が刻まれ、どれも同じような言葉を繰り返している。
【澄ハ上ヘ】
【濁ハ胎ヘ】
【還セ】
【交ジルナ】
シオンがそれを見上げ、そっと唇を引き結ぶ。
「……嫌いです、こういうの」
「うん」
ロルフも短く頷いた。
「畑をやったことがないやつの字だ」
「字だけ見てそれ言います?」
「言うよ。混ざるな、なんて土に言ったら、たいていろくなことにならない」
その答えに、シオンが少しだけ笑った。
怖さが消えたわけじゃない。けれど、ロルフの言葉はちゃんと足場になる。
やがて坂の勾配がゆるみ、四人の前に最初の広間が現れた。
白い石でできた、円形の部屋だった。
天井は高く、中央には浅い盆地のような窪みがある。周囲には細い水路に似た溝が何本も走り、坂から来た流れをさらに奥へ送る構造になっていた。
そしてその窪みの底に――白い泥が溜まっていた。
「……これ、泥……?」
フィンが灯りを翳す。
白い。
だが石の粉でも灰でもない。もっと粘りがある。
表面は滑らかで、月光みたいに淡く光って見える。なのに、よく見ると無数の灰色の粒と、細い黒い筋が閉じ込められていた。
シオンの肩がかすかに震えた。
「昨日の白い殻と、同じ感じがします」
「うん。もっと元の状態に近いけどね」
ロルフはしゃがみ込み、麻袋から炭化木片を少し取り出すと、泥の縁へそっと落とした。
次の瞬間、白泥がぴくりと動いた。
溶けるでも跳ねるでもなく、炭を避けるように、わずかに波打ったのだ。
「動いた!」
フィンが声を上げる。
「生きてるんですか、これ」
「生きてるというより、嫌がってる」
ロルフは白泥を見つめたまま言う。
「炭は、余計なものを抱えるからね。分けたがるやつには都合が悪い」
ゼファーが剣の柄へ手をかけた。
「切るべきか」
「まだいい。これはたぶん、溜め池みたいなものだ」
「溜め池」
「下へ送る前の、一時置き場」
ロルフが広間全体へ視線を巡らせる。
壁の高い位置に細い穴が並んでいる。
そこから、ごく薄く白い霧が流れ込んでいた。
霧は天井から盆地へ落ち、そこで泥へ変わっているらしい。
つまりここは、上から降ろされた“濁り”を集め、均して、さらに奥へ送るための部屋だ。
「最低ですね……」
シオンがぽつりと呟く。
「ああ。見た目だけ綺麗にして、いらないものは全部こっちへ流す。畑でも人でも、長持ちしないやり方だ」
ロルフがそう言った、そのときだった。
盆地の白泥の中央が、ゆっくりと盛り上がった。
ごぽ、と鈍い音。
次いで、白い腕が一本、泥の中から現れる。
昨日見た異形ほど大きくはない。
だが人型に近い分だけ、余計に気味が悪かった。
肩。
首。
面のない顔。
顔のあるべき場所は、のっぺりと白く塗りつぶされている。
その胸や腕の継ぎ目にだけ、灰色の筋と黒い粒が押し込められていた。
「……来ます!」
シオンが一歩前へ出る。
白い人形は、足を持たない。盆地の泥と繋がったまま、身体の上半分だけを起こし、四人へ向かって両手を差し出してきた。
敵意というより、作業だ。
まるで“正しい位置へ戻す”ための手つきだった。
――還セ。
声が、また床下から響く。
今度ははっきりと、四人それぞれへ別々に触れてくる感じがした。
ロルフには、土を。
シオンには、毒を。
ゼファーには、魔力を。
フィンには、余計な好奇心さえも。
お前の中の濁ったものを、下へ返せ。
そう囁いてくる。
フィンが小さく息を呑んだ。
「これ……頭の中に……」
「聞くな」
ゼファーが鋭く言う。
同時に青い結界を広間の半分へ展開した。
白い人形の両腕が伸びる。
指先が細く裂け、白い糸となって飛んできた。
ロルフは鍬でそれを払う。
ぱし、と乾いた音。
裂けた糸の断面から、灰色の粉が散る。
「旦那様!」
「分かってる」
これは白い殻だ。
本体じゃない。
表面をいくら払っても、盆地の泥と繋がっている限りいくらでも形を取り直す。
「シオン、糸じゃなくて泥の根元を見て」
「はい!」
シオンは白い人形の足元――正確には、泥との接続部へ目を凝らした。
「……ありました。黒いの、少しだけ混ざってます!」
「そこだよ」
次の瞬間、シオンの毒が細く鋭い針みたいに伸びた。
狙いは顔でも胸でもない。
盆地の中、白泥の底で脈打っている黒い筋。
紫の毒がそこへ触れた途端、白い人形の動きが止まった。
ぴたり、と。
のっぺりした白い面に、横一文字の亀裂が入る。
中から覗いたのは空洞ではなく、黒でもなく、濁った灰の渦だった。
「やっぱり中身が空っぽだ」
ロルフが言う。
「空っぽ?」
「うん。こいつ、自分で立ってない。下に沈めたものを押し固めて、見栄えのいい形にしてるだけだ」
ゼファーが結界越しに一閃を放つ。
青い刃が白い人形の肩を斜めに断ち、殻が崩れた。
だが落ちた破片は盆地へ戻ると、すぐにまた粘りを得て形を取り戻そうとする。
「切るだけでは駄目だな」
「そうだね」
ロルフは麻袋を開けた。
腐葉土を一掴み、白泥の中へ投げ入れる。
部屋の空気が変わった。
白泥が、一瞬だけざわりと揺れる。
綺麗な白の表面に、濃い茶色と黒がじわりと広がった。
フィンが目を見開く。
「腐葉土で……反応した!?」
「未熟な土ほど、分解の途中を嫌がるんだよ」
ロルフはさらに炭化木片も放り込む。
「混ざって、崩れて、次の実りになる。その途中を認めないやつは、だいたい白く固めたがる」
白泥が激しく波打った。
人形の形が崩れ、腕がほどけ、首が溶ける。
盆地の中で白と黒と灰が混ざり合い、さっきまでの整った輪郭が失われていく。
――交ジルナ。
今度の声は、少しだけ焦っていた。
「聞く必要ありません」
シオンが冷たく言った。
「僕、そういうの、もう嫌です」
その言葉と同時に、シオンの毒がもう一度伸びる。
今度は紫ではなく、どこか透き通った深い色だった。
白泥の底へ滑り込み、黒い筋を絡め取り、無理やり引き上げる。
ずる、と泥の中から現れたのは、細い根だった。
根、としか呼べない。
植物の根に似ているが、白く硬く、節ごとに文字みたいな皺が刻まれている。
それが盆地の底から奥の水路へ伸びていた。
「……根っこ、ですね」
フィンが呟く。
「施設の中を這ってるんだ」
「うん」
ロルフは鍬を構える。
「これが次の流れ道だ」
そして躊躇なく、根へ鍬を振り下ろした。
ごきん、と嫌な音が広間に響く。
白い根は一撃では切れない。
だが表面が割れ、中から黒い泥と灰の粒が噴き出した。
それは腐敗臭ではなかった。
むしろ逆だ。閉じ込められていた湿った土の匂いが、一気に部屋へ広がる。
重い。けれど、ちゃんと土だ。
「ロルフさん、もう一回!」
フィンの声に合わせるように、ゼファーの魔力刃が走る。
同時にシオンの毒が切断面へ刺さった。
ロルフは踏み込み、二撃目を叩き込んだ。
根が、断ち切れた。
その瞬間、広間全体の白さが揺らいだ。
盆地に溜まっていた泥が一気に沈み、壁の穴から流れ込んでいた霧が止まる。
のっぺりした人形は形を保てなくなり、崩れた白泥の中へ音もなく沈んでいった。
代わりに、盆地の底に残ったのは、灰色のぬかるみと、その奥へ続く黒い石の溝だった。
シオンが息を吐く。
「……終わった?」
「ここはね」
ロルフは断ち切った根の先を見下ろした。
切り口の向こう、奥の水路はまだ続いている。
つまりこれは、本流のさらに枝だ。
フィンが記録板へ必死に何かを書きつけながら言う。
「白い盆地は中継槽、白い人形は整形された排出物、根が搬送路……たぶん、各所で集めたものを一度ここで均してから、もっと奥の“胎”へ送ってる」
「胎、ね」
ゼファーがその言葉を低く反復する。
「この施設を作った連中は、下を処分場ではなく、育成槽みたいに考えていたのかもしれんな」
「最悪です」
シオンがきっぱり言った。
「捨ててるくせに、“育ててる”みたいに言うの、嫌いです」
ロルフはそれに何も足さず、ただ短く頷いた。
同意だった。
広間の奥には、新しい通路が見えていた。
坂の先から伸びる主通路とは別に、右手へ折れる低い回廊。
断ち切った根の先も、その奥へ続いている。
「……行くよ」
四人は盆地の縁を回り込み、低い回廊へ入った。
今度の通路は狭かった。
壁も床も白石で揃えられているのに、ところどころ継ぎ目から黒い湿りが滲んでいる。
まるで白く塗った壁の内側で、土が黙っていないみたいだった。
数十歩進んだ先で、通路は急に開けた。
そこにあったのは、縦長の部屋だった。
左右の壁いっぱいに棚が並び、棚には白い壺が無数に収められている。
大きさは人の頭ほど。どの壺にも、黒い文字で同じ印が書かれていた。
【還】
フィンの喉が鳴る。
「……保管庫?」
「違う」
ロルフは一歩だけ前へ出た。
「これ、壺じゃない」
「え?」
シオンが目を凝らす。
次の瞬間、その顔色が変わった。
「……骨、ですか」
そう。
壺に見えたそれは、壺じゃなかった。
白く塗り固められた、頭蓋骨だった。
目の穴も、歯の並びも、表面の白い殻に埋められて曖昧になっている。けれど形は隠しきれていない。
ひとつやふたつではない。棚いっぱいに、何十、何百と並んでいる。
ゼファーの顔が険しくなる。
「……神殿の聖別処置か」
「そんな綺麗なものじゃないと思う」
ロルフはもっと近づいた。
頭蓋の白い殻の継ぎ目。
そこから、ごく細い根が一本ずつ、棚の奥へ伸びている。
「これも、繋いでる」
フィンが震える声で言う。
「まさか……人の中からも、“濁り”を抜いて、下に……?」
返事の代わりに、部屋の奥でごとりと音がした。
四人が同時に顔を上げる。
棚の一番奥。
壁に埋め込まれた、ひときわ大きな白い頭部――いや、頭部に似せた何かの表面に、細い亀裂が入っていた。
一本。
また一本。
中から、淡い光が漏れる。
白ではない。紫でも青でもない。
濁った金色のような、不自然に整えられた光だ。
シオンがロルフの袖を掴む。
「旦那様。これ……開きます」
「ああ」
ロルフは鍬を握り直した。
今までの人形や泥とは違う。
もっと古い。もっと核に近い。
そして、たぶん――人の願いの形をしている。
亀裂の奥から、静かな声がした。
今度は囁きではない。
はっきりとした、人の声に近い調子だった。
――良イ子ハ、還リナサイ。
部屋中の白い頭蓋が、一斉に微かに鳴った。




