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戻り道じゃなかった

夜が明けても、宿場町の空気はまだ固かった。


共同井戸のまわりには、昨夜の騒ぎを聞きつけた町人たちが遠巻きに集まっている。

 誰も近づこうとはしない。けれど目は逸らさない。見なければならないものだと、本能のどこかで分かっているのだろう。


井戸の石縁には、昨夜崩れた白い殻の細かな粉がまだ残っていた。

 風が吹くたびにさらりと舞い、朝日を受けて一瞬だけ綺麗に見える。


「質の悪い灰ですね」


シオンがそう言って、少し眉を寄せた。


「ああ」


ロルフはしゃがみ込み、石縁から粉を指先ですくう。


軽い。

 乾いている。

 そして、見た目ほど中身がない。


指で潰すと、ぱきりとも言わず崩れ、ただの白い砂になった。昨夜感じたような圧も、分ける力も、もうほとんど残っていない。


「殻だけなら、こうして脆いんだ」


「じゃあ、昨日のあれは……」


「中に詰まってたもののほうが厄介だった」


そう答えながら、ロルフは石畳の隙間の土にも触れる。


昨夜よりはましだ。

 少なくとも、浅いだけの土ではなくなっている。下から少しずつ湿りが戻ってきている。

 だが、まだ足りない。


この井戸ひとつを叩いた程度で、本流そのものが止まるはずはない。

 畑に例えるなら、腐った根を一本切っただけだ。根腐れの元が土の深くに残っている以上、放っておけばまた広がる。


「……やっぱり、今日潜るんですか」


シオンの問いに、ロルフは立ち上がった。


「潜る。そのための準備をする」


朝の光の中、ゼファーはすでに広場の端で町役人と話していた。

 昨夜ほとんど寝ていないはずだが、姿勢は乱れていない。さすがに目の下には薄く疲れが見えるものの、それを顔に出さない程度の意地はあるらしい。


その近くでは、フィンが紙束を抱えたまま走り回っていた。


「滑車は二つ追加できました! 支柱も町の大工さんから借りられます! あと、古い地図と宿場町の改修記録、いま役場の倉から持ってきてもらってます!」


「朝から元気だね」


ロルフが言うと、フィンは勢いよく振り向いた。


「元気じゃありません! 興奮してるだけです!」


「それ、寝不足の時に一番危ないやつですよ」


シオンが小さく言う。

 フィンは「うっ」と詰まり、それでもすぐに紙束を抱き直した。


「で、でも、昨夜見たものをちゃんと繋げるなら、記録がいるんです! あの『還』の字、あれが鍵です。絶対に!」


その言葉に、ゼファーも会話へ加わった。


「私もそう思う。あの傷は、ただの脅しではないだろう。あれだけこちらへ明確に意思を向けてきた以上、何らかの機構か、古い術式と関係があるはずだ」


「術式、か」


ロルフは井戸の縁を軽く叩いた。


「たしかに、ただの土の流れじゃなかった。人の手が入ってる」


「はい。だから今、町の古記録を洗ってます!」


フィンはそう言ってから、はっと気づいたように肩を竦めた。


「……あ、でも、全部読み切る前に倒れたら意味ないので、ちゃんとお茶は飲みました」


「えらい」


ロルフが素直に頷くと、フィンはなぜか少しだけ嬉しそうな顔をした。


やがて町役人が、古びた木箱を二つ運んできた。

 ひとつは帳面の束。もうひとつは巻物や板札の類らしい。


宿の食堂を借りて、四人はさっそく箱を広げることにした。


古い紙の匂いは、畑の納屋に積まれた麻袋の匂いに少し似ている。

 乾いていて、埃っぽくて、でも完全には死んでいない匂いだ。


フィンが最初の帳面を開く。


「近年の改修記録は駄目です。井戸の補修、石畳の敷き直し、旅籠の増築ばかりで、下の構造については何も書いてない」


「上に住む人間が、下の都合を気にしなくなるのはよくある話だな」


ゼファーが腕を組みながら言う。


「王都でも似たようなものだ。古い設備ほど、動いている間は誰も存在を忘れる」


「止まったら困るくせにね」


ロルフが何気なく言うと、ゼファーは苦い顔をした。

 心当たりがありすぎるのだろう。


一方、シオンは巻物の端をそっと押さえながら、文字の欠けた板札を眺めていた。


「これ、読めますか」


差し出された板札には、薄れた墨で数文字だけが残っている。


――還……井

 ――白殿……下

 ――混ぜるな


そこまで見たところで、フィンが息を呑んだ。


「それです!」


身を乗り出す勢いで板札を受け取る。


「文字が欠けてるけど、たぶん『還し井』……いや、『還井』かもしれない。通称じゃなくて設備名の可能性があります」


「設備名」


ゼファーが眉をひそめた。


「井戸の名前にしては妙だな」


「ええ。でも、神殿遺構には時々あります。用途を示す一文字を冠する例が。封、巡、澄、還……」


「最後のは、あまり聞かないな」


「僕も文献でしか見たことありません。ただ……」


フィンは急いで別の巻物を開き、そこに描かれていた擦れた地図を机へ広げた。


宿場町の簡略図だった。

 今の町並みとは少し違うが、中央の広場、街道、宿の位置はだいたい一致している。

 そして、共同井戸の位置に、小さく円が描かれていた。


その脇に記された文字を、フィンが指でなぞる。


「これです。『還井・一』」


「一?」


「たぶん番号です」


部屋が静かになった。


シオンが最初に口を開く。


「……一、ってことは」


「ああ」


ロルフは地図から目を離さないまま答えた。


「二も三もあるってことだ」


フィンが別の箇所を探る。

 街道の外れ。今は使われていない古い倉庫の辺り。

 さらに町外れの小祠。

 そして、宿場町から神殿跡へ抜ける旧道の途中。


「……ありました。二、三、四」


「四つもあるのか」


ゼファーの声が低くなる。


「昨夜開いたのは、そのうちの一つだけということになるな」


「はい。そして配置が……」


フィンは地図の四つの印を線で結んだ。


菱形になる。

 その中心は、町の中央ではない。


もっと北。

 宿場町の裏手、今は半ば崩れて使われていない礼拝堂跡の辺りだった。


「礼拝堂跡……」


シオンがその名を反芻する。


「神殿跡の手前にあった、古い建物ですね」


「そう。いまは壁だけ残ってるやつだ」


ロルフも見覚えがあった。

 町へ入る前、街道の脇に白っぽい石壁の残骸が見えていた。草に埋もれていて、ただの古い廃屋にしか見えなかったが――。


「礼拝堂跡が中心なら、昨夜の井戸は入口じゃないな」


ロルフがそう言うと、ゼファーが即座に頷いた。


「溢れ口だろう。あるいは選別されたものを一時的に振り分けるための支点」


「うん。畑で言えば、水路の升だ。本流じゃない」


フィンの目が輝く。


「それです! それですよ! つまり『還井』は、下へ捨てるための穴じゃなくて、中心に返すための節点なんです!」


「……返す?」


シオンが少しだけ顔を曇らせた。


「でも、あれは“捨ててる”感じでした」


「そうだね」


ロルフは白い殻の欠片を一つ取り上げる。


「だから、ここの『還』はたぶん、戻すって意味じゃない」


「え」


フィンが瞬きをする。


ロルフは机の上に紙を一枚置き、その上へ白い欠片と、朝に井戸の縁から取った黒い土を少し落とした。

 さらに宿の主人から借りた水差しで、ほんの数滴だけ水を垂らす。


「見てて」


白と黒は、最初は別々に濁った。

 白い粉は上澄みに浮き、黒い土は沈む。だが、ロルフが指先で軽く混ぜると、二つはすぐに馴染み、灰色の柔らかな泥へ変わる。


「本来はこうだ。混ざる」


「……はい」


「でも昨夜の仕組みは、それを嫌ってた。白いものは上へ。黒いものは下へ。綺麗に分けて、都合の悪い方を押し込めてた」


そこでロルフは、指で泥を二つに割る。


「つまり『還』は、戻すことじゃない。“元の決められた場所へ返す”って意味だ」


シオンの表情が硬くなった。


「清いものは上、濁ったものは下……って」


「ああ」


ゼファーが吐き捨てるように言う。


「ずいぶん傲慢な思想だ」


「神殿関係の古い施設なら、ありえなくはありません」


フィンが板札を見下ろしながら続けた。


「昔は“清浄”を保つために、病や毒、穢れを地下へ送る仕組みが作られた例がある。ただ、ここまで大規模なのは……異常です」


「しかも、今も生きてる」


ロルフは短く言った。


それが一番の問題だった。

 古い思想が遺構として残っているだけなら、ただ厄介なだけで済む。

 だが今のこれは違う。今なお選別を続け、捨てる先を必要とし、下に溜めたものから新しい形を作り出している。


死んだ設備じゃない。

 まだ動いている“畑”だ。

 しかも、最低のやり方で。


「旦那様」


シオンが静かに言った。


「もし礼拝堂跡が中心なら、そこに本当の入口があるんですよね」


「たぶんね」


「じゃあ、井戸から降りるより……」


「そっちの方が安全かもしれない」


ゼファーが会話を引き継いだ。


「井戸は垂直だ。昨夜のような突発的な反応があれば、退路が細すぎる。だが中心施設に点検路が残っていれば、横から本流へ入れる」


フィンは地図を見つめたまま、小さく頷いた。


「礼拝堂跡の地下。そこに中央制御の部屋か、あるいは……」


「“還す先”へ続く坂道がある」


ロルフの一言で、部屋の空気が少しだけ重くなる。


坂道。

 それは昨日までの縦穴より、ずっと嫌な響きだった。

 下へ続く階段や斜路があるということは、最初から人が出入りするつもりで作られていたということだからだ。


昼前には、必要な準備があらかた揃った。


滑車の増設。

 支柱と土留め板。

 松明ではなく油灯り。

 粉塵除けの布。

 飲み水と携行食。

 それからロルフの希望で、麻袋に入れた腐葉土と、炭化させた木片も。


「……相変わらず、君の準備は遺跡探索に見えんな」


荷を見たゼファーが言う。


「土が死んでる場所に入るんだから、土を戻す準備をするのは普通だよ」


「普通の基準を一度話し合いたい」


「たぶん無駄です」


シオンが小さく言う。

 ゼファーは一瞬だけ真顔でシオンを見たあと、なぜか否定しなかった。


礼拝堂跡へ向かう道すがら、町人たちは道の端へ避け、黙って四人を見送った。

 昨夜までは恐怖しかなかった目に、今日は少しだけ違うものが混じっている。


期待だ。

 あるいは、すがるしかないという諦めか。


ロルフはそれを深く受け止めない。

 背負いすぎると、手元が狂う。

 畑でも人でも同じだ。助けるには、まず足場を確かめないといけない。


礼拝堂跡は、町の北端の小高い場所にあった。


白い石壁が半分ほど残り、屋根はとうに落ちている。

 蔦が絡み、床板は朽ち、風が吹くたびに乾いた草が鳴った。

 だがロルフが中へ足を踏み入れた瞬間、昨日の井戸と同じ感触が足裏を走る。


「……ここだ」


床の下。

 いや、礼拝堂の祭壇があったはずの場所のさらに奥。

 そこだけ土の呼吸が違う。


シオンもすぐに顔を上げた。


「旦那様。下、近いです」


「うん」


フィンが地図を広げる。


「配置上も、この祭壇跡の真下が中心です。還井一から四の流れ、全部ここに集まってる」


ゼファーは崩れた石壇の前へ進み、手袋をした指で表面をなぞった。


「文字があるな」


苔を払い、土を落とす。

 そこに現れたのは、昨夜井戸で見たものと同じ、一文字の印。


【還】


その下に、さらに小さな古い文が刻まれていた。


フィンが息を詰める。


「……『清を上へ、濁を胎へ』」


シオンの顔がはっきりと曇った。


「胎……?」


「腹の中、って意味だね」


ロルフが答える。


「たぶんこいつらは、下を“捨て場”じゃなく“戻す先”だと思ってる」


「戻す先」


「都合の悪いものを、見えないところへ返す。そうすれば上は綺麗なまま保てるって考えだ」


ゼファーの声に、苛立ちが混じる。


「綺麗に見せるために、全部下へ押し込んだ結果が昨夜のあれか」


「そういうことだろうね」


ロルフは石壇の前にしゃがみ込んだ。


刻まれた【還】の字へ、そっと掌を触れる。


ひやりとした。

 昨夜の井戸の底と同じ冷たさ。

 だがその奥に、わずかに別の感触がある。


もっと古い。

 もっと深い。

 そして――まだ開いていない。


「フィン。ここの下、空洞は?」


「あります。かなり広い。井戸の制御室より大きいです」


「ゼファーさん、結界は張れますか」


「範囲は絞ればな」


「じゃあ、石壇が動いたらすぐ抑えて」


「動く前提なのか」


「動かなかったら楽でいい」


ロルフがそう言った直後だった。


シオンがぴくりと肩を震わせた。


「……来る」


次の瞬間、石壇の下から低い音が響いた。


ご、……ごり。


昨夜、石盤が割れるときに聞いたのと同じ種類の音。

 けれど今度はもっと大きい。もっと重い。


ゼファーが即座に青い結界陣を展開し、フィンが一歩下がる。

 シオンはロルフのすぐ隣へ寄った。


石壇の【還】の字が、かすかに白く発光する。


「旦那様」


「うん」


「これ、井戸の時と違います」


「分かってる。あっちは溢れ口だった」


ごり、ごり、と音が続く。


石壇の中央に、細い線が一本走った。

 それは亀裂ではなかった。継ぎ目だ。

 左右へ、下へ、幾何学的に広がり、祭壇全体が一枚の蓋であったことを露わにしていく。


フィンの声が裏返る。


「ひ、開く……!」


「下がってろ」


ロルフが言うと同時に、石壇がゆっくりと奥へ沈み始めた。


白い粉は出ない。

 嫌な悲鳴もない。

 あるのは、長い年月を経てなお動く機構の、鈍く重い音だけだった。


やがて石壇の下に、暗い口が現れる。


縦穴ではない。

 人が二人並んで歩けるだけの幅を持つ、石造りの下り坂だ。


壁には古い灯火台。

 床には薄く積もった白灰。

 そして、下から吹き上がってくる空気には、井戸の底よりもはっきりと土の匂いが混じっていた。


湿った黒土の匂い。

 それに、かすかな花の腐りかけた甘さ。


シオンが息を呑む。


「……下、ずっと続いてる」


「ああ」


ロルフは暗い坂道を見下ろした。


土は鳴っている。

 待っているのか、誘っているのか、それとも試しているのか。

 まだ判断はつかない。


ただ一つ分かるのは、昨夜の井戸より、こっちの方がずっと本物に近いということだけだ。


「今日は入口だけ確認して戻る、という選択肢もある」


珍しく、ゼファーが先にそう言った。

 慎重なのではない。戦力と退路を計っているのだ。


フィンも唾を飲み込んで頷く。


「記録だけでも、大成果です……でも」


「でも、ですよね」


シオンがぽつりと言う。

 その声には、怖さもあったが、それだけではない熱もあった。


ロルフは少しだけ肩を回し、背負っていた荷の紐を締め直した。


「入口が開いたばかりなら、土はまだ正直だ」


「……というと?」


ゼファーが問う。


「閉じて長く経った穴は、空気も流れも嘘をつく。でも開いた直後なら、まだ癖が読める。潜るなら今の方がやりやすい」


フィンが乾いた笑いを漏らした。


「やっぱり農夫の理屈で遺跡に入るんですね……」


「土相手なら、だいたい同じだよ」


ロルフはそう言ってから、シオンを見る。


「行ける?」


シオンは一瞬だけ坂道の闇を見つめ、ゆっくりと頷いた。


「行けます」


「無理はしないで」


「はい。でも、今度は最後まで隣にいます」


その返事に、ロルフは静かに目を細めた。


「じゃあ、そうしよう」


ゼファーが剣の位置を確かめ、フィンが震える手で記録板を握り直す。


礼拝堂跡の崩れた壁の向こうでは、宿場町の昼の音がまだかすかに聞こえていた。

 人の暮らしの音だ。

 それを守るために、下へ行く。


ロルフは坂道の入口に立ち、足元の白灰を軽く踏んだ。


粉はかすかに沈み、その下から黒い土が覗く。


「……やっぱり、こっちが本流だな」


その瞬間だった。


坂道の奥、まだ灯りも届かないほど深い闇の中で、何かがひとつだけ鳴った。


鐘のようでもあり、石の実が割れる音のようでもある、乾いた音。


カン――。


そして遅れて、下から風が吹き上がる。


風に乗って、囁きが届いた。


――還セ


昨夜の無機質な気配とは違う。

 今度のそれは、もっとはっきりとした意志を持っていた。


シオンの手が、ロルフの袖をぎゅっと掴む。


「ロルフ様」


「ああ」


ロルフは鍬を肩から下ろした。


「向こうも、そのつもりらしい」


白い坂道は、底へ向かって静かに続いていた。

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