底から這い上がるものは
闇の底から、何かが這い上がる音がした。
ずる、ではない。
ぬめりのある音でもなければ、獣の爪が石を掻く音でもない。
もっと乾いていて、もっと重い。
削った石を無理やり積み上げるような、ぎり、ぎり、という不快な音だった。
「ロルフ! シオン! 上がれ!!」
ゼファーの怒声が井戸の上から落ちてくる。
その声でシオンがはっと我に返った。
ロルフはシオンの肩を抱くように引き寄せ、もう片方の手で鍬を構える。
「先に行って」
「でも――」
「先に」
短く、だが逆らわせない声だった。
シオンは唇を噛み、それでも頷いた。
以前の彼なら、ここでロルフを置いていくことに怯え、立ちすくんでいたかもしれない。
だが今は違う。
信じて、動ける。
ロルフが縄を押しやると、シオンはすぐに井戸の内壁へ手をかけた。軽い体を活かして足場へ飛び移り、そのまま上へ向かって登り始める。
その直後だった。
割れた石盤の下、縦穴の闇が盛り上がった。
最初に見えたのは指だった。
人のものに似ている。だが、人間の指なら五本で終わるはずのところを、白い線と黒い土が何層にも折り重なり、節を増やし、あり得ない長さで伸びてくる。
次に手の甲。
次に肘。
その肘の先には、また別の腕が癒着していた。
まるで――。
「捨て場に溜まったものを、無理やり人の形にしたみたいですね……」
半ば上まで登ったシオンが、震える声で言う。
「ああ」
ロルフは目を細めた。
「きれいなものだけ上へ返して、残りを全部下に捨て続けた。その澱だ」
白い杭は、浄化のための装置ではなかった。
都合の悪いものを下へ落とし、地上だけを見かけ上整えるための仕組みだった。
ならば、長い年月をかけて底に積もるのは何か。
毒。
病。
濁り。
混ざり合った生命の熱。
癒やしの途中で切り捨てられた痛み。
そういうもの全部だ。
「……最低だな」
ロルフが呟いた瞬間、闇の中の“それ”が反応した。
無数の指がいっせいに開き、白い線が広がる。
床を這い、壁を舐め、逃げ道を塞ぐように制御室の中へ伸びてきた。
「旦那様!」
「登って!」
シオンが再び上へ身を返す。
その判断は正しい。ここで二人とも床に残れば、狭い制御室では動きを封じられる。
ロルフは白い線の一本を鍬で払った。
硬い。
だが、斬れないほどではない。
金属と石がぶつかるような音を立てて線が弾け、灰色の粒が散る。
その粒は床に落ちた瞬間、じわりと黒土のような色へ戻った。
「やっぱりそうか」
この白さは本質じゃない。
切り分けられ、押し固められ、無理やり“整えられた”表皮にすぎない。
なら、剥がせる。
闇の底のものがさらに身を持ち上げる。
腕だけではない。肩に似た塊、胸に似た塊、そのどれもがまともな形をしていない。
人間に近いのは最初だけだ。上がってくるほど、寄せ集めの歪さが露わになる。
白い手のひらの中に、黒い土の目がいくつも埋まっていた。
目はどれも濁っていて、焦点が合っていない。
それでもロルフとシオンだけは、正確に見ていた。
――混ざるな。
声が聞こえた気がした。
耳からではない。
床を通じて、皮膚を通じて、土の感触に紛れて押し込まれてくる。
――分けろ。
――清いものは上へ。
――濁ったものは下へ。
――それが正しい。
「……はっ」
ロルフは鼻で笑った。
「畑を知らないやつの理屈だ」
白い腕が振り下ろされる。
轟音とともに石床が砕け、破片が跳ねた。
ロルフは半歩だけ身体をずらし、その勢いが死んだ瞬間に鍬の柄を叩き込む。
ごき、と鈍い手応え。
白い外殻が割れ、その内側から黒い泥のようなものが溢れた。
泥は生き物めいて蠢くが、地面に触れた途端、どろりと崩れて力を失う。
「ロルフさん!」
上からフィンの声が落ちてくる。
「その黒い部分です! そこ、観測値が一番濃い! たぶん白い層は殻です!」
「分かってる!」
フィンの声とほぼ同時に、ゼファーの魔術が井戸の口から降ってきた。
青い光の杭が三本。
制御室の床へ突き立ち、広がりかけた白い線を壁際へ押し戻す。
「長くは保たん! ロルフ、離脱を優先しろ!」
「そのつもりだよ!」
言いながらも、ロルフは目の前の歪な塊から視線を離さない。
離脱は必要だ。
だが、このまま放って上へ出れば、宿場町の真下にこれを残すことになる。
今すぐ完全に片づけるのは無理でも、せめて這い上がる力だけは削がなければならない。
「シオン!」
「はいっ!」
井戸の中腹から返事が落ちる。
シオンはもうかなり上まで登っていたが、声ははっきりしていた。
「君の毒、白い殻じゃなくて中身に当てられる?」
数瞬の沈黙。
すぐに返ってくる。
「やります!」
「無理ならすぐやめていい!」
「やめません!」
その返事に、ロルフは少しだけ口元を緩めた。
次の瞬間、井戸の内壁から紫の霧が滑り降りてきた。
霧というより、糸だ。
細く、鋭く、シオンの意思に従って一直線に落ちる。
白い腕がそれを弾こうと開く。
だがロルフはその前へ踏み込み、鍬を横薙ぎに払った。
「そっちは僕だ!」
白い線が砕ける。
生まれたわずかな隙間を、紫の糸がすり抜けた。
毒は真っ直ぐ、歪な塊の内側――黒い泥の目玉のひとつへ突き刺さる。
びしゃり、と嫌な音がした。
闇の底から這い上がってきたものが、初めて悲鳴のような振動を放つ。
それは声ではなかった。
だが制御室の壁も、井戸の石積みも、宿場町の土さえも、それを震えとして拾っていた。
「効いてる!」
シオンの息が上ずる。
だが同時に、井戸の中腹でその体がぐらついた。
反動だ。毒を通したことで、逆流する“分別”の圧がシオンへも返っている。
ロルフの目が鋭くなる。
「シオン、下を見るな!」
「っ……はい!」
危うかった。
もし今、あの縦穴の闇をまともに見れば、シオンは自分の毒を“捨てられる側”として掴まれる。
それだけは避けなければならない。
闇の塊が、今度は腕ではなく顔らしきものを持ち上げた。
顔、と呼ぶにはあまりに歪だ。
白い面が何枚も重なり、そこに黒土の裂け目が走っている。
目の位置も口の位置も定まらない。
なのに、不思議と分かってしまう。
これは“捨てられたもの”の側の顔だ。
いらないと言われたほう。
汚いと押し込められたほう。
誰かの都合で、下へ落とされたほう。
だからこそ厄介だった。
ただの魔物より、ずっと性質が悪い。
「旦那様……!」
シオンの声が震える。
怖がっているのは目の前の異形だけじゃない。
そこに自分と似た“扱われ方”を感じてしまったのだ。
ロルフは鍬を構え直したまま、はっきりと言った。
「シオン。あれと君は違う」
「……っ」
「君は捨てられたんじゃない。勝手に捨てようとしたやつらがいただけだ」
白い面が、ぴたりと止まった。
まるでその言葉を嫌がるみたいに。
「毒は悪いものじゃない。混ざり方を間違えるやつが悪い」
ロルフは一歩踏み込む。
「畑でも、人でも、同じだ」
次の瞬間、闇の塊が激しく暴れた。
白い腕が二本、三本、四本と増える。
制御室の壁を掴み、床を引っ掻き、上へ上へと這い出ようとする。
だがロルフは逃がさない。
石床へ手を当てる。
『毒素等価交換』
発動と同時に、制御室の空気が変わった。
白い殻に閉じ込められていたもの。
下へ落とされ、澱となっていたもの。
それらが“毒”としてだけではなく、“偏り”としてロルフの感覚へ流れ込んでくる。
多すぎる。
重い。
長い年月分、捨てられたものの量だ。
「ロルフ様!!」
シオンが叫ぶ。
当然だ。
普通なら受けきれない。
どんな浄化術師でも、こんなものを一度に抱えれば壊れる。
だがロルフは眉ひとつ動かさない。
「問題ない」
むしろ、こういう“使い道を間違えたもの”は得意分野だ。
押し込められた澱を、そのまま抱え込む必要はない。
戻せばいい。
捨て場へではなく、巡る形へ。
ロルフは鍬の石突きを石床へ叩きつけた。
鈍い音が響き、床の紋様が一斉に赤黒く灯る。
「返してやるよ」
白い殻が裂けた。
中から噴き出した黒い土と灰色の粒が、渦を巻いてロルフの周囲を巡る。
それは毒でも瘴気でもなく、長く底に沈んでいた“使われなかった命の熱”だった。
シオンがそれを見て、息を呑む。
「……綺麗」
思わず零れた声だった。
確かに綺麗だった。
白ではない。清らかでもない。
黒も灰も紫も混ざり合った、決して単色ではない色。
それでも、ちゃんと温度がある。
それが本来の土の色だ。
闇の塊が抵抗するように身をよじる。
だがもう遅い。殻は剥がれ、分けられていた流れは混ざり直し始めている。
ロルフは最後に、鍬を大きく振り下ろした。
狙うのは白い面ではない。
その奥、黒い核。
ごん、と腹に響く手応え。
次いで、何かが崩れる音。
異形の上半身が大きくのけぞり、そのまま縦穴の中へ落ちていった。
白い腕が何本か壁に爪を立てたが、支えきれない。
崩れた殻と黒い泥を撒き散らしながら、塊は闇の底へ引き戻されていく。
最後に残ったのは、ひどく濁った視線だけだった。
憎悪でも、殺意でもない。
もっと乾いた、頑なな意志。
――まだ分ける。
――まだ終わらせない。
そんなものが、底の奥で確かにこちらを見ていた。
やがて、音が止む。
制御室に静けさが戻った。
いや、完全な静寂ではない。
井戸の上から聞こえるフィンの荒い息、結界を維持していたゼファーの魔力の唸り、そしてシオンの小さな呼吸。
生きている音が、ちゃんと残っていた。
「……ロルフ」
上からゼファーの声が落ちてくる。
「無事か」
「ああ。いったんは下がった」
「いったん、か」
「うん」
ロルフは割れた石盤の縁へ目を向けた。
縦穴はまだ開いている。
ただし先ほどまでのような強い白い線は消え、代わりにその奥から、ごく弱い風が吹いていた。
風の匂いは、さっきと違う。
灰ばかりじゃない。
もっと深い場所の、湿った土の匂いが混じっている。
フィンが叫ぶ。
「観測値、急落しました! 宿場町の支流は安定に向かってます! でも、真下の本流はそのままです! やっぱりこれ、入口を一個壊しただけで――」
「本体はもっと下にある」
ロルフが言うと、上でフィンが黙った。
否定できないのだろう。
シオンがゆっくり降りてきて、今度はロルフのすぐ隣に立った。
さっきまで上へ逃がしたのに、落ち着いたと見るや戻ってくるあたり、頑固になったものだ。
「旦那様」
「なに」
「今の、あれ……」
シオンは縦穴を見下ろし、少しだけ迷ってから言った。
「……僕、ちょっとだけ、分かってしまいました」
「うん」
「捨てられたくないのに、捨てられたものの感じがした。だから、怖かったです」
ロルフはすぐには答えなかった。
その代わり、制御室の床にしゃがみ込み、崩れた白い殻の破片をひとつ拾い上げる。
見た目はただの白石だ。だが指先に力を込めると、ぱきりと脆く割れ、その中から灰色の粉がこぼれた。
「シオン」
「はい」
「これ、白く見えるだろ」
「……はい」
「でも中身は、ちゃんと混ざってる。無理やり固めてるだけだ」
そう言って、ロルフはその粉を床へ落とした。
粉は土に触れた途端、じわりと色を失い、ただの砂へ戻る。
「君も同じだ、とは言わない」
シオンが目を上げる。
「君はそんなふうに固められて終わる側じゃない。もう、自分で混ざり方を選べる」
しばらく沈黙があった。
それからシオンが、小さく、けれど確かな声で答える。
「……はい」
その返事は、さっきまでよりずっと強かった。
ゼファーが井戸の上から縄を垂らす。
「話は上でしろ。もう一度何か来たら、今度こそ支えきれん」
「分かった」
ロルフは縄を掴み、シオンを先に促した。
今度は並んで上がる。
制御室の空気を背に、井戸の石壁を一段ずつ登っていく。
中腹まで来たところで、ロルフは一度だけ下を見た。
縦穴の闇は静かだった。
だが静かすぎる。
何もない静けさじゃない。
次の手を考えている静けさだ。
その奥。
ほんの一瞬だけ、何かが反射した気がした。
目ではない。
白い線でもない。
濡れた石に刻まれた、古い文字の欠片。
見えたのはたった一文字だけだった。
【還】
戻す、の意味か。
それとも返す、の意味か。
ロルフが眉を寄せた、その瞬間。
文字は闇に沈み、二度と見えなくなった。
やがて二人が井戸の口まで戻ると、フィンが半ば泣きそうな顔でへたり込み、ゼファーは結界を解いた反動で額を押さえていた。
宿の主人にいたっては、祈るような顔で何度も頭を下げている。
「た、助かったんですか……?」と主人。
「今夜のところはね」
ロルフが答えると、主人はその場にへなへなと座り込んだ。
フィンはすぐに立ち直り、紙と炭筆を取り出す。
「今の反応、全部書きます。絶対に忘れたくない。白い層、黒い核、分別装置の残骸、縦穴、その先に本流、あと――」
「フィン」
ゼファーが低く言った。
「興奮するな。手が震えて字が潰れている」
「えっ、あっ、本当だ……!」
慌てて紙を押さえるフィンを見て、シオンがかすかに笑った。
その笑みを見て、ロルフも少しだけ肩の力を抜く。
だが休んではいられない。
井戸の縁には、さっき崩れた白い殻の細かな粉がまだ残っていた。
それは風に吹かれて消えつつあるが、完全には消えていない。
「ゼファー」
「なんだ」
「今夜は交代で見張ろう。この井戸、たぶんまた開く」
「同感だ」
「フィンは寝て」
「えっ」
「倒れられると困る」
「で、でも僕、記録が――」
「三時間」
ロルフが言うと、フィンは口をぱくぱくさせた末、項垂れて頷いた。
「……はい」
シオンが井戸を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「下にいたの、あれで終わりじゃないですよね」
「ああ」
ロルフは即答した。
「さっきのは、溜まっていた澱が形になっただけだ。たぶん門番みたいなものだよ」
「門番」
「本当に面倒なのは、その先だ」
風が吹いた。
井戸の底からではない。
もっと遠く、神殿跡のある方角からだ。
夜空には雲がかかり始めている。
月が薄く滲み、辺境の空気が少しずつ張り詰めていく。
ロルフは井戸の縁に手を置いた。
土はさっきより落ち着いている。
それでも、深いところではまだずっと鳴っていた。
待っている。
あるいは、確かめている。
上へ這い出る力を削がれてもなお、底の本流は止まっていない。
むしろ今ので、こちらのことをよりはっきり認識したはずだ。
「旦那様」
「なに」
シオンが隣で、そっと袖を引いた。
「次は、もっと奥まで行くんですよね」
「そうなる」
「……はい」
短い返事だった。
だが、もう迷いはなかった。
ロルフは闇の井戸を見下ろしながら、静かに言った。
「なら、明日は準備を増やそう」
「準備?」
「土を掘るなら、掘るための段取りがいる」
ゼファーが呆れたように息を吐く。
「この状況でも、君は本当に農夫の理屈で動くんだな」
「当たり前だよ」
ロルフは真顔で答えた。
「底に埋まった厄介ごとを掘り返すのは、畑でも遺跡でも同じだ」
フィンがそれを聞いて、疲れているはずなのに少しだけ目を輝かせた。
「じゃあ明日、資材を集めます! 滑車の増設、支柱、土留め板、導線の記録、あと食料も!」
「うん。倒れない範囲でね」
「はい!」
宿場町の夜は、ようやく少しずつ息を取り戻し始めていた。
だが井戸の底は違う。
あの闇のさらに奥には、まだ“捨てられ続けたもの”の本流がある。
そして、そのさらに先には――きっと、捨てることそのものを正しいと信じている、もっと古い何かがいる。
ロルフは鍬を肩に担ぎ直した。
「今日は寝よう」
シオンが目を瞬かせる。
「寝るんですか」
「寝るよ」
「このあとに?」
「畑仕事は寝不足でやると失敗する」
あまりにもいつも通りの口調で言われて、シオンは数秒きょとんとしたあと、小さく吹き出した。
「……そうですね」
「そうだよ」
だが、宿へ戻ろうとしたそのとき。
井戸の底から、ほんのかすかに音がした。
ごと。
小石が転がったような、ごく小さな音。
皆が振り返る。
次いで、もう一度。
ごと。
井戸の内壁。
ついさっきまで何もなかったその石の一枚に、細く、浅い傷がひとつ走っていた。
爪痕のように見えるそれは、たった二文字だけを刻んでいた。
――次ハ
そこで傷は途切れていた。
風が吹き、粉のような白い砂がさらりと舞う。
ロルフはしばらくその傷を見つめ、それから静かに目を細めた。
「……脅しのつもりかな」
けれど、井戸の底は答えない。
ただ、次があることだけは、はっきり告げていた。




