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君は還るための器じゃない

 ――神子ハ、還ル。


 その声は、部屋のどこかから響いたわけではなかった。

 黒い土の円形槽そのものが、低く鳴いているような響きだった。


 白い根が、天井からゆっくりと揺れる。

 その一本一本が、まるで息をしているみたいに脈打っていた。


「……僕?」


 シオンの喉から零れた声は、ほとんど息に近かった。


 円形槽の上に横たわっていた“それ”が、ゆっくりと上体を起こす。

 白い衣。細い手首。肩まで流れる淡い髪。

 顔を覆っていた殻はひび割れ、欠片がぱらりと黒土へ落ちた。


 その下から現れた顔は、たしかにシオンに似ていた。


 瞳の色。

 細い顎の線。

 ひどく整った、壊れやすそうな顔立ち。


 けれど、決定的に違うものがひとつだけあった。


 表情が、ない。


 悲しみも怒りも、戸惑いもない。

 まるで最初から“そう見える形”として作られただけの顔だった。


「旦那様……」


 シオンの指が、震えながら袖を掴む。


「うん」


 ロルフは短く答え、そのまま半歩だけ前へ出た。

 シオンを庇うように、ではある。

 けれど隠すためではない。逃げ道を塞がない程度の距離を保っている。


 円形槽の上の“シオンに似たもの”が、ゆっくりとこちらへ首を傾けた。


 その動きもまた、人間らしい滑らかさとは少し違う。

 糸で吊られた花を、風のない場所で誰かがそっと揺らしたような、不自然な静けさがあった。


 そしてそれは、唇だけを柔らかく歪めた。


「毒ノ子」


 声は優しかった。

 優しすぎて、気味が悪い。


「苦シカッタデショウ。痛カッタデショウ。モウ、持タナクテイイ」


 シオンの肩がびくりと跳ねる。


「持た、なくて……」


「還レバイイ。要ラナイ毒ハ、ココヘ。清イ祈リダケ、上ヘ」


 白い根が、するすると床へ降りてくる。

 攻撃ではない。絡め取るためでもない。


 迎え入れるような、抱き寄せるための動きだった。


 だからこそ、余計に質が悪い。


「……やめろ」


 ロルフの声が低く落ちる。


 白い“何か”は、初めてロルフへ視線を向けた。

 紫がかった瞳はシオンに似ているのに、その奥には何ひとつ住んでいない。


「混ゼル者」


 それは言った。


「規ヲ乱ス者。土ヲ汚ス者」


「逆だよ」


 ロルフは鍬を下ろさないまま、一歩進んだ。


「汚してるのはそっちだ」


 フィンが円形槽の縁に灯りを翳す。


「槽の周囲、全部“還井”の本流に繋がってます……! この部屋が中枢だ。上で集めた濁りを、ここで“神子の形”に整えてる……!」


 ゼファーの顔が険しくなる。


「つまり、浄化ではなく代替か。上を清く保つために、毒も穢れも全部“神子”という器へ押し込む」


「はい……しかも」


 フィンの声が震える。


「これ、今のシオンさんだけじゃない。古い層が何重にもある。代ごとに、似た器を作って……」


 言い切る前に、シオンが唇を噛んだ。


「……じゃあ、これは」


 白い“シオン”が、その先を引き取るように微笑んだ。


「還ル先」


「ッ……」


「毒ヲ持ツ子ハ、最後ニココヘ還ル。痛ミモ、祈リモ、役目モ。綺麗ナ形ニ戻レル」


 綺麗な形。


 その言葉に、ロルフは鼻で笑った。


「綺麗、ね」


 彼は足元の黒土へ視線を落とす。


 円形槽の土は、黒いように見えて実際は死んでいた。

 湿ってはいる。だが、呼吸していない。

 何かを受け入れるための土じゃない。受け取ったものを、形だけ保って止めるための土だ。


「苗床にもなれない土のくせに」


 ロルフがぼそりと言うと、ゼファーが横で小さく息を吐いた。


「この状況でも農夫の基準か」


「土相手なら当然だよ」


 そしてロルフは、シオンへ振り向いた。


「見て」


「……はい」


「似てるだけだ」


 シオンが目を見開く。


「同じ花に見えても、挿し木に根がないことはある。葉の色が同じでも、土と話してない苗はすぐ分かる」


 ロルフは白い“シオン”を顎で示した。


「君はあれじゃない」


 その一言が、静かに落ちた。


 シオンは円形槽の上の“自分に似た何か”を見つめる。

 似ている。

 あまりにも似ている。

 きっと、ずっと前の自分なら、それだけで足を止めていた。


 痛くない場所。

 毒を持たなくていい形。

 苦しまなくていい神子。


 そんなものを見せられたら、手を伸ばしたくなっていたかもしれない。


 けれど今は違う。


 ロルフの畑で、土に触れた。

 毒を抜かれるだけじゃなく、使うことを覚えた。

 捨てるためじゃなく、生かすために混ぜることを知った。


 シオンはゆっくり息を吸う。


「……違う」


 白い“シオン”の微笑みが、ほんのわずかに止まる。


「僕は」


 シオンは一歩前へ出た。


 声は震えていた。

 でも、逃げる震えじゃなかった。


「僕は、そんなふうに綺麗に戻りたくない」


 円形槽の白い根が、ざわりと揺れた。


「毒ハ、重イ。苦シイ。捨テレバ楽ニナル」


「知ってる」


 シオンは即答した。


「苦しかった。痛かった。捨てられるなら、そうしたかった時もあった」


 白い“シオン”の瞳が、じっと彼を映す。


「でも」


 シオンの指先に、紫の毒が滲んだ。


「今の僕の毒は、要らないものじゃない」


 その瞬間だった。


 円形槽の表面が大きく波打つ。

 白い根が一斉に跳ね上がり、今度は明確な敵意を帯びてシオンへ伸びた。


「シオン!」


 ロルフが前へ出るより早く、ゼファーの結界が閃いた。

 青い光が扇状に広がり、白い根を数本まとめて弾き飛ばす。


「フィン! 動きを見ろ!」

「は、はい!」


 フィンは後ずさりながらも、必死に円形槽の周囲を見回す。


「核は中央じゃない! シオンさんに似た器の下、もっと深くに別の脈があります! 上の形は殻だ!」


「やっぱりか」


 ロルフは鍬を握り直した。


「シオン、あれの表面に惑わされないで。下を見て」


「……はい!」


 白い“シオン”が、初めて表情らしいものを歪めた。

 悲しむように。

 怒るように。

 けれどそのどれもが、本物の感情には見えない。


「神子ハ、役目ヲ果タスモノ」


「違う!」


 シオンが叫んだ。


「役目のために、中身を捨てるのは違う!」


 紫の毒が、今度は霧ではなく細い帯になって奔る。

 狙うのは顔でも胸でもない。

 白い衣の下、円形槽の黒土へ沈んでいる“接続”だ。


 毒が届いた瞬間、白い“シオン”の体がびくりと震えた。


 その足元の黒土が割れる。


 中から覗いたのは、白でも黒でもない、濁った金色の核だった。


「旦那様!」


「うん!」


 ロルフは床を蹴った。


 跳ね上がる白い根を鍬で払い、円形槽の縁へ踏み込む。

 黒土は柔らかいようでいて、妙に反発がない。畑の土なら沈むはずの足が、変に浅く止まる。

 やはり生きた土じゃない。受け止めることを知らない土だ。


「――浅いな」


 ロルフは低く呟いた。


「だから駄目なんだよ」


 鍬を振り上げ、そのまま濁った金色の核へ叩き込む。


 ごん、と重い音。


 白い“シオン”の口が開いた。

 だが漏れたのは悲鳴ではなく、無数の囁きだった。


 ――痛クナイ。

 ――楽ニナル。

 ――還レバイイ。

 ――捨テテシマエ。


「うるさい」


 ロルフはもう一撃、鍬を振り下ろす。


「捨てる捨てないは、本人が決める」


 濁った金色の核に亀裂が入った。

 そこから吹き出したのは光ではない。灰と、白い粉と、そして微かな紫だった。


 シオンが息を呑む。


「……僕の、毒」


「いや」


 ロルフは首を振る。


「君だけじゃない。今まで押し込められてきた分だ」


 フィンが震える声で補足する。


「各時代の“神子”から切り離された残滓……! 祈りの形だけ上へ残して、受けきれないもの全部をこっちへ蓄積してる!」


「最低ですね!」とシオン。

「同感だ!」とゼファーが珍しく即答した。


 その瞬間、円形槽の周囲の白い根が、狂ったみたいに暴れ始めた。


 天井から垂れていた根が壁を叩き、床を裂き、部屋全体が揺れる。

 白い“シオン”の輪郭も崩れ、腕がほどけ、髪が糸に戻り始めた。


 それでもまだ、顔だけはシオンに似たままだ。


「毒ノ子」


 声が、今度は掠れた。


「還ラナケレバ、壊レル」


 シオンはそれを真っ直ぐ見返した。


「壊れても、混ざって、生き直せる」


 その返事に、ロルフがほんの少しだけ目を細める。


 いい答えだ、と思った。


「旦那様」


 シオンが呼ぶ。


「最後、やります」


「うん。一緒に」


 シオンの毒が、今度は静かに広がった。

 荒れない。暴れない。

 黒土の上へ、夜明け前の霧みたいに薄く降りていく。


 ロルフはそれに合わせてスキルを起動した。


『毒素等価交換』


 白い根が嫌がるように軋む。

 だがもう遅い。


 切り分けられ、押し込められ、綺麗な器に整えられてきた残滓が、紫と黒と灰のまま、もう一度混ざり直していく。

 白い“シオン”の顔が、初めて本当の意味で崩れた。


 整いすぎた輪郭が溶け、ただの白い殻へ戻っていく。


「――ァ」


 最後に、それは何かを言いかけた。


 神子、ではない。

 還る、でもない。


 もっと別の、個人の名前のような音だった。

 けれど最後まで形にならず、白い殻はぱきりと割れた。


 中の濁った金色の核が、砕ける。


 円形槽の黒土が大きく沈み込み、白い根が一斉に天井から力を失って垂れ下がった。


 静寂。


 部屋に残ったのは、湿った土の匂いだけだった。

 さっきまでの甘ったるい、綺麗すぎる匂いは消えている。


 フィンが呆然と呟く。


「……止まった」


 ゼファーも剣を下ろした。


「いや、完全には止まっていない。だが中継のひとつは落ちたな」


 ロルフは円形槽の縁から飛び降り、崩れた白殻の欠片を拾う。

 今度のそれは、指先で押すだけで脆く崩れた。

 中身のない保存は、やはり長く持たない。


 シオンがまだ、砕けた核の跡を見ている。


「……僕に、似てました」


「うん」


「ちょっとだけ、怖かったです」


「うん」


「でも」


 シオンはゆっくりロルフを見る。


「もう、戻りたいとは思いませんでした」


 その顔は少し青い。

 けれど、目だけはしっかりしていた。


 ロルフは短く頷く。


「それでいい」


 そのときだった。


 円形槽の底で、こつ、と硬い音がした。


 四人の視線が同時に落ちる。


 崩れた黒土の中から、何か小さなものが露出している。

 フィンが灯りを近づけ、息を呑んだ。


「……石板?」


 ロルフがしゃがみ込み、周囲の土を軽く払う。


 手のひら二枚ぶんほどの、古い黒石の板だった。

 表面には文字が刻まれている。


 白い施設の中では珍しく、その文字には“整えた綺麗さ”がなかった。

 急いで、誰かが隠すみたいに刻んだ字だ。


 ゼファーが読み上げる。


「『第一還槽、代替殻、稼働安定せず』……」


 フィンが続きに目を走らせる。


「『本命体なお深胎にて保持。還樹の根、未だ飽和せず』……」


 部屋の空気が変わる。


 シオンの顔が、強ばった。


「本命体……?」


 ロルフは石板を見つめたまま、静かに言う。


「さっきのは、本物じゃなかったってことだろうね」


「じゃあ……」


「うん」


 ロルフは、崩れた円形槽のさらに奥――まだ開ききっていない暗い通路の先へ目を向けた。


 土はまだ鳴っている。

 さっきより、ずっと深く。

 ずっと重く。


 そして今度の気配は、白くない。


 もっと濃い。

 もっと毒に近い。

 それでいて、ただの瘴気とも違う。


 シオンが小さく呟く。


「……下に、まだいる」


「いるね」


 ロルフは石板を握り直した。


「しかも、今のを“代替殻”って呼ぶなら」


 ゼファーが低く続ける。


「本命体は、さらに深い“胎”にある」


 フィンの喉が鳴る。


「“還樹”っていう言葉も初めて出ました……これ、根の総体の名前だ。施設じゃなくて、もっと大きな何かかもしれない……!」


 その瞬間、広間の奥。

 まだ闇に沈んだままの通路の先から、ひときわ重い脈動が届いた。


 どくん。


 まるで地面の下に巨大な心臓でも埋まっているような音。


 シオンの毒が、何もしていないのにふっと揺れる。

 応じているのだ。


 ロルフはそれを見て、目を細めた。


「……呼ばれてるね」


 返事は誰もしなかった。

 けれど全員が、同じことを感じていた。


 次に降りるべき場所は、もう決まっている。


 白い器ではない。

 そのさらに下。

 “本命体”とやらが眠る、深い胎の底だ。

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