宿場町の土は、黙っていなかった
豊村を出てから二日目の夕暮れ、ロルフとシオンは神殿跡へ続く街道沿いの宿場町へ辿り着いた。
石畳の続く小さな町だった。
行商人が荷車を引き、旅人たちが外套についた土埃を払い、軒先では干し肉の匂いが漂っている。見た目だけなら、どこにでもある辺境の中継地だ。
だが、ロルフは町の門をくぐった瞬間に足を止めた。
「……おかしい」
隣を歩いていたシオンが、すぐにロルフの袖へ指先を添えた。
「旦那様。やっぱり、ですか」
「ああ」
ロルフはしゃがみ込み、石畳の隙間にたまった土へそっと触れる。
乾いているように見える。色も悪くない。雑草も、それなりに根を張っている。
けれど、指先から伝わる感触はひどく不自然だった。
土が、浅い。
ただ表面だけを取り繕って、その下が空っぽになっているような感覚。肥えた畑を歩いたときに感じる、あの柔らかな反発がない。
根が土と話していない。
「耕したあとの畑みたい、ではないですね……」
「耕した畑なら、もっと呼吸してる。これは……そうだな」
ロルフは少し考えてから、静かに言った。
「上澄みだけ綺麗にした、駄目な水路みたいなもんだ」
シオンの表情が強ばる。
「下に、なにかいる?」
「いる、というより……流れを止められてる」
王都でも、似たような兆候はあった。
表面だけは整っていても、土の底で魔力の巡りが淀み、腐り、やがて全部を駄目にする。
ただし、ここは王都とは違う。
もっと静かで、もっと冷たい。
悪意すら薄い、ただ“そうあるべき形”へ押し戻そうとするような気配。
まるで毒も癒やしも混ざり合うことを嫌う、融通の利かない岩盤の意志だ。
「歓迎されてないみたいですね」
「畑に踏み込んだ害獣が警戒されるのは普通だよ」
ロルフがそう言うと、シオンは小さく笑った。
「旦那様がそうなら、世の農夫はみんな泣きます」
「僕は農夫だよ」
「そこは否定しないんですね」
そんなやり取りを交わしながら、二人は宿へ向かった。
フィンとゼファーが先に着いているはずの宿は、町の中央から少し外れた、古びた二階建ての建物だった。看板の端が欠けていて、看板というより板切れに近い。だが厩の藁は新しく、水桶もよく手入れされている。
こういう宿は、外見より中身が良い。
「失礼する」
戸を開けると、最初に顔を上げたのはフィンだった。
「ロルフさん!」
机いっぱいに紙束を広げていた地脈研究者は、珍しく椅子を鳴らして立ち上がった。
その向かいには、青灰色の外套をまとったゼファーが腕を組んで座っている。旅装でも姿勢が崩れないあたり、いかにも王都の魔導師団副団長らしい。
「予定より早い到着だな」
「道が荒れてなかったからね。そっちは?」
ゼファーは答える代わりに、机の上の地図を指で叩いた。
「良くない。観測値が、昨日からさらに沈んだ」
「沈んだ?」
フィンが紙束をかき分けながら補足する。
「地脈の流れが、です。神殿跡の周辺だけじゃありません。この宿場町の地下を通る支流まで、全部“下へ”引かれています。普通の陥没や魔獣の巣では説明がつきません」
「吸われてるのか」
「ええ。しかも、選り分けるみたいに」
その言葉に、シオンがわずかに目を伏せた。
「……毒だけじゃない、ですね」
「ああ」
ロルフは頷く。
「癒やしもだ。混ざったものを嫌って、もう一度切り分けようとしてる」
ゼファーの目が細くなった。
「やはり君にもそう見えるか」
「見えるというより、土がそう言ってる」
「相変わらず、便利なのか不便なのか分からん感覚だな」
「農家には必要な感覚だよ」
「君の“農家”の定義は、一度王都で議論するべきだと思う」
言いながらも、ゼファーは少しだけ口元を緩めた。
以前ならあり得なかった反応だ。王都の人間にしては、だいぶ土の上で考えることを覚えてきたらしい。
フィンが新しい紙を広げる。
「宿場町に入る前、違和感はありましたか?」
「あった。表面だけ保って、その下が死にかけてる。畑で言えば、見かけだけの土だ」
「やっぱり……」
フィンは安堵と緊張が混じった息を吐いた。
「僕の計測が間違っていなかった。町の人たちは、まだ気づいていません。井戸水も飲めるし、作物も見た目は保っています。でも、このまま引かれ続ければ、数日で根が焼けます」
「先に症状が出るのは人より畑だな」
「はい。次に家畜、最後に人間です」
宿の主人が運んできた茶から、かすかに焦げた匂いがした。
煮出しすぎではない。薪でもない。
土の底で流れが擦れて、熱を持っている匂いだ。
ロルフは湯飲みを置いた。
「今夜のうちに見てくる」
「神殿跡へですか?」とフィン。
「その前に町の下だ」
ゼファーが眉をひそめる。
「町の下?」
「上流で何か起きても、途中の土が健全ならここまで歪まない。つまり、神殿跡からの流れを受けて、この町の地下で“選別”が起きてる場所がある」
「中継点、ということか」
「たぶんね。根を断たずに枝葉ばかり見ると、あとで面倒になる」
その瞬間だった。
ドン、と宿の床が小さく跳ねた。
揺れは一度きり。地震というには弱すぎる。
だが、湯飲みの茶が同時に波打ち、シオンの肩がびくりと震えた。
「……来ます」
次の瞬間、表の通りから悲鳴が上がった。
四人は同時に立ち上がる。
外へ出ると、宿の裏手、共同井戸のある広場に人だかりができていた。
町人たちが距離を取り、誰も近づけずにいる。
井戸の縁から、白い筋が垂れていた。
糸のように細く、月光を吸ったような青白さを帯びるそれは、ゆっくりと石を這い、土へ染み込まずに広がっている。
フィンの顔色が変わった。
「白の平原と同じ……!」
「いや、少し違う」
ロルフは前へ出る。
白い筋はただの汚染ではない。
土へ降りようとして、拒まれている。
混ざるべきものが混ざれず、行き場を失って滲み出している状態だ。
シオンが一歩、並ぶ。
決意があった。
「やれます。今なら、僕も合わせられる」
「無理はしなくていい」
「無理じゃありません」
シオンは白い筋を見つめたまま、静かに言う。
「これは、前みたいな“毒”だけじゃない。だからこそ、僕が必要です」
ロルフは少しだけ目を細め、それから頷いた。
「……分かった。じゃあ一緒にやろう」
白い筋の前にしゃがみ込み、ロルフは片手を土へ、もう片手を井戸の石縁へ置く。
隣でシオンが息を整えた。
冷たい。
いや、冷たすぎる。
毒ならもっと明確な悪意がある。腐敗臭も、刺激も、拒絶もある。
だがこれは違う。
あまりにも整いすぎた“分別”だ。
毒は毒へ。
癒やしは癒やしへ。
生は生へ。
死は死へ。
混ざることを許さず、世界を綺麗なまま壊そうとする力。
「――面倒な雑草だな」
ロルフが呟いた。
「雑草に失礼です」
「そうかもしれない」
少しだけ笑ってから、ロルフはスキルを起動した。
『毒素等価交換』
瞬間、白い筋がびくりと脈打つ。
シオンの掌から滲んだ毒が、糸のように細く伸び、白い筋へ絡みついた。
拒絶し合うはずの二つがぶつかった刹那、井戸の底で鈍い音が鳴る。
ガン、と。
まるで、閉じていた蓋を内側から叩いたような音だった。
「下に空洞がある!」とフィンが叫ぶ。
「しかも一つじゃない!」とゼファーが周囲へ結界陣を展開する。
白い筋は激しくのたうち、今度は一気にロルフへ流れ込もうとした。
選別できないものを、異物として排除しようとしているのだ。
だがロルフは退かない。
「毒も、癒やしも、畑じゃ同じだ」
掌の下の土が鳴った。
乾いた表層の下で、眠っていた黒い土が応える。
「使いどころを間違えなければ、ちゃんと実りになる」
次の瞬間、白い筋が音を立てて崩れた。
霜のようだったそれは、砕けて、溶けて、濃い灰色の粒へ変わる。
粒はそのまま土へ沈み込み、硬く痩せた地面をゆっくりとほぐしていった。
石畳の隙間から、小さな芽が一本、顔を出す。
あまりにささやかな変化だった。
だが、それだけで十分だった。
町人たちが息を呑む。
フィンが震える声で呟いた。
「……戻った。流れが、少しだけ戻りました」
「少しだけ、か」
ロルフは立ち上がり、井戸を見下ろした。
底は暗く、月明かりも届かない。
けれど、そのさらに下。
土の奥で、確かに“何か”がこちらを見返していた。
白の平原で感じたものより、もっと深い。
もっと古く、もっと頑固だ。
そして、今ので向こうにも伝わった。
自分たちが来た、と。
シオンもそれを感じたのだろう。そっとロルフの袖を握る。
「起こしちゃいましたね」
「たぶん最初から起きてたよ」
ゼファーが剣呑な顔で井戸へ視線を落とした。
「今夜、潜るのは危険だ」
「分かってる。まずは入口を確かめる」
「入口?」
ロルフは井戸の縁に手を置いたまま答える。
「これは水場じゃない。昔はたぶん、地脈を均すための縦穴だ。あとで井戸に作り替えたんだろう」
フィンの目が見開かれる。
「古い神殿の設備……!」
「えええ……そんなもの、宿場町の真ん中に残してたんですかここ」
誰に言うでもなくぼやくフィンに、ロルフは肩を竦めた。
「古い畑の水路なんて、だいたいそんなものだよ。使う人間が意味を忘れて、形だけ残る」
そのとき、井戸の底からまた音がした。
今度は、はっきりと。
ゴリ、と。
岩が擦れるような、重い音。
広場の空気が凍りつく。
そして井戸の内壁に、白い線が一本、縦に走った。
それは亀裂ではなかった。
まるで誰かが爪でなぞったように、正確すぎる一本線。
ゆっくりと。
こちらへ向かって、昇ってくる。
シオンが息を呑む。
「ああ」
ロルフは鍬に手をかけた。
「どうやら、向こうも挨拶する気になったらしい」
白い線は、井戸の闇からもう一本、さらにもう一本と現れ始める。
宿場町の土が、低く軋んだ。
今夜掘り返すことになるのは、ただの地面ではない。
世界が長く蓋をしてきた、底のひとつだ。




