土に言っておく
フィンからの返事が届いたのは、ロルフが返事を送ってから四日後だった。
短かった。
『観測値の詳細は別紙に同封しています。ゼファー殿との合流地点を、神殿跡から一里ほど手前の宿場町に設定しました。五日後の朝を目安にしています。来られますか。——フィン』
別紙には数字と図が細かく書き込まれていた。フィンの几帳面な手が、地脈の観測値を層ごとに記録している。表層、中層、深層、さらにその下の層。深くなるほど値が変わり、一番下の層だけ、他とは方向の違う圧が記録されていた。
ロルフはそれを見て、少し黙った。
シオンが隣から覗き込んだ。
「行けますか、五日後に」
「行けます」
「豊村の手入れは」
「三日でやれることをやって、残りはリゼットに頼む」
「リゼットさんに、どこまで話しますか」
「正直に話す」
「全部ですか」
「必要な部分は」
シオンは少し間を置いた。
「リゼットさん、心配しますよ」
「心配させた上で、頼む方が誠実です」
シオンはそれを聞いて、何も言わなかった。言い返すことがなかったのだろう。
その夜、夕食の後でリゼットを呼んだ。
テオは早めに眠っていた。四人でテーブルについた。ロルフとシオン、リゼットとガラムだ。ガラムは翌日に出発の予定だったが、話があると聞いて残ってくれた。
「また出かけます。五日後に」
リゼットが「また神殿跡ですか」と聞いた。
「そちらの方向です。今度は少し深い場所になるかもしれない」
「深い場所、というのは」
「地下です。神殿跡の土の奥に、まだ確かめていない場所がある」
リゼットはしばらく黙った。
「危ないですか」
「程度はわからないけど、危険がないとは言えない」
「正直ですね」
「嘘をついても仕方がない」
リゼットはテーブルの上で手を組んだ。考えている顔だった。怒っているのでも、悲しんでいるのでもない。受け取って、整理している顔だ。
「その間の豊村は、私が見ます」
「お願いします」
「果樹の北の列は、水が少し多めになってきているので、三日に一度は水路を確かめてください。出発前に一緒に見ておきたいです」
「明日の午前中に見ましょう」
「西の端の白い粉は、まだ残ってますが、少しずつ減ってるので問題はないと思います。ただ、土が乾燥しやすいので、雨が降らない日が続いたら、灌漑の頻度を上げる方がいい」
「判断はリゼットに任せます」
「任せてもらえますか」
「リゼットが今まで見てきた通りにやれば大丈夫だから」
リゼットは少しだけ目を細めた。嬉しそうな顔だったが、すぐに表情を引き締めた。
「テオに何か言いますか、出発前に」
「起きている時間に声をかける」
「何と言うつもりですか」
「少し出かける、と」
「それだけですか」
「それだけでいいと思う。テオに心配させても仕方ない」
「テオは薄々わかってますよ」
ロルフは少し間を置いた。
「そうか」
「賢い子ですから。ロルフさんの顔が違う時は、気づいてます。だから敢えて聞かない」
「……わかった。少し話しておく」
リゼットは頷いた。
ガラムが「私にできることはありますか」と言った。
「王都への情報伝達を続けてほしい。フィンとゼファーへの連絡はこれで終わりだが、定期報告は止めないでほしい」
「承知しました。何か変化があれば、すぐにオーヌ殿へ」
「ええ。あと、豊村に異変があった時も、オーヌとフィンの両方へ知らせてほしい」
「豊村に異変、というのは」
「土の様子が急変した時。白い筋が戻ってきた時。あるいは見知らぬ人間が来た時」
ガラムは少し表情を固くしたが、すぐに頷いた。
「わかりました。念には念を、ということですね」
「そういうことです」
出発まで三日、ロルフとシオンは豊村の手入れに集中した。
北の列の水路を調整した。西の端の土に、シオンが少し毒を落として巡りを助けた。果樹の剪定の仕方をリゼットと一緒に確認した。テオに、いくつかの観察の仕方を伝えた。
テオは「どこへ行くの」と聞かなかった。代わりに「帰ってきたら、新しい芽が何本になってるか教える」と言った。ロルフは「わかった」と答えた。それだけだった。
出発前日の夜、ロルフはひとりで果樹の列を歩いた。
手入れを確認するためだったが、それだけでもなかった。豊村の土に、出発前に一度だけ手を当てておきたかった。
列の端まで歩いて、根元にしゃがんだ。掌を地面に置いた。
豊村の土の感触が返ってくる。
均一で、湿り気があって、巡りがある。自分たちが手入れしてきた土だとわかる感触だ。白い野原が閉じてから、白い粉の退き方が少しずつ速くなっている。昨日より今日の方が、土の色が戻っている場所が増えていた。
土の奥の気配は、今夜も薄くある。深い場所から、こちらを確かめるように。
ロルフはそれを感じながら、土に手を当てたまま黙っていた。
言葉にする必要はないと思っていた。でも、農夫として長くやっていると、出かける前に畑に何かを伝える癖がつく。言葉というより、意図の置き方に近い。これから何をしに行くか、戻ってきてから何をするか。それを土に知らせておく感覚。
ロルフはしばらくそうしていた。
それから、立ち上がった。
シオンが列の入り口に立っていた。いつからいたのかはわからない。
「気づいていたか」
「はい。邪魔したくなかったので」
「邪魔じゃないよ」
「土に何か伝えてるんだと思って」
「そんなところ」
シオンは一歩歩み寄った。
「旦那様はいつもそうしますね。出かける前に、土に手を当てて」
「癖みたいなもの」
「なんて言うんですか、土に」
「言葉にはならない。ただ、行ってきますと帰ってくると、それだけ」
「土は返事しますか」
「わからないけど、変わった感触が返ってくる時はある」
「今日は」
「今日は……変わらなかった」
「それはどういう意味ですか」
「いつも通り、ということだと思う」
シオンはその言葉を少し転がしてから、静かに笑った。
「いつも通り、なら大丈夫ですね」
「そう取ることにした」
二人で列を戻りながら、シオンが言った。
「旦那様、明日の朝は早いですか」
「日が出る前に出たい。神殿跡手前の宿場まで丸一日かかるから」
「じゃあ今夜は早めに寝ます」
「そうしてくれ」
「旦那様も、ちゃんと眠れますか」
「たぶん」
「たぶん、というのは」
「土のことを考えながら眠るので、それで眠れれば大丈夫」
シオンは「農夫らしいですね」と言った。
「農夫だから」
「それが一番安心する答えです」
翌朝、暗いうちに起きた。
リゼットがすでに台所にいた。前の夜のうちに用意してくれていた携行食を袋に詰めてくれている。
「気をつけてください」
「世話になります」
「お土産は要りません。ちゃんと帰ってきてください」
「帰ります」
「シオンさんも」
「はい。帰ります」
リゼットは少しだけ目を細めた。それ以上は言わなかった。言い過ぎない加減を、この子は知っている。
テオはまだ眠っていた。起こさなかった。
ロルフは玄関を出る前に、小屋の入り口の土を一度だけ踏んだ。
豊村の土の感触が、靴越しに返ってくる。
行ってくる、という気持ちを、足の裏で伝えた。
シオンが隣に並んだ。
「行きますか」
朝の霧が濃かった。紫の靄が地面を低く流れている。果樹の輪郭が霧の中に沈んでいる。
二人は豊村の入り口を出た。
道は神殿跡の方向へ続いている。今日の終わりに、フィンとゼファーが待っている宿場がある。
ロルフは鍬を担いで歩き始めた。
シオンが隣に並んで、歩幅を合わせた。
霧が晴れていく。地面が見えてくる。一歩一歩の土の感触が靴越しに返ってくる。豊村の土から、少しずつ、別の土になっていく境目を、ロルフは感じながら歩いた。
「旦那様」
「ん」
「今日から、また始まりますね」
「ああ」
「どんなふうに終わると思いますか」
「終わってみないとわからない」
「でも、終わると思っている?」
「思ってる」
「それで十分です」
シオンはそれだけ言って、前を向いた。
霧の中を、二人が歩いていく。
豊村の土が遠くなり、別の土が近づいてくる。
深い場所で何かが待っている。形はまだ見えない。でも、近づけば見える。
農夫の仕事は、いつも近づくことから始まる。




