動く前の夜
フィンからの報告が届いたのは、ゼファーが来てから五日後だった。
ガラムが運んできた荷の中に、他の書状より厚みのある封書が混じっていた。蠟の色はフィンのものだ。茶色に地脈の紋様を押した、あの男らしい封書だった。
「相変わらず早い」
ガラムが「地脈で移動するので仕方ないでしょう」と言った。
ロルフは封を開けながら縁側へ歩いた。
リゼットが「また難しそうな話ですか」と言った。
「たぶん」
「ご飯の前に終わらせてください」
「わかった」
シオンが隣に来た。二人で封書を読んだ。
フィンの字は几帳面で、数字の記載が細かく、ところどころに小さな図が入っている。報告書というより調査記録の体裁だった。読んでいくと、三つのことが書かれていた。
一つ目。白い野原が閉じてから、神殿跡周辺の地脈の流れは安定している。閉じる前と比べて本流の圧が著しく低下しており、周辺の土地で白い根が新たに伸びた形跡はない。
二つ目。ただし、深い層の観測値に変化がある。閉じる前は白い野原への一方向だった圧が、閉じた後に分散した。複数の方向へ散ったが、そのうちの一本が、真下へ向かっている。豊村方向ではなく、真下だ。それは神殿跡のさらに深い地層を経由して、どこかへ向かっている。
三つ目。ゼファーの研究室の観測値と自分の観測値を照合したところ、方向と時期が一致した。白い野原が閉じた翌日から、真下への圧が確認されている。フィンはゼファーとすでに連絡を取っていた。
最後に一行だけ、フィンらしい余談が添えてあった。
『念のため言っておくと、これは白い野原が閉じたことで解放されたエネルギーが逃げ道を探しているのか、それとも最初からそこにいた何かが動いたのかが、まだ判断できません。どちらかによって対応が変わります。——フィン』
ロルフは読み終えて、封書を膝の上に置いた。
シオンも同じところを読み終えている。
「真下、ですね」
「ゼファーが言ったことと一致した」
「フィンさんがゼファーさんとすでに連絡を取っていたのは」
「フィンが先に動いたんだろう。あの人は気になることがあったら確かめずにはいられないから」
シオンは封書の最後の一行を見た。
「最初からそこにいた何かが動いたのか、解放されたエネルギーが逃げているのか」
「どちらだと思う」
「……最初からいた何かだと思います」
「俺もそう思う」
「なぜですか、旦那様は」
「土の感触が違うから。逃げているエネルギーなら、方向が定まらない。放射状に散って、行き場のない動き方をする。でも昨日も今日も感じているものは、一定の方向から来ている。場所が決まってる」
「場所が決まっている、というのは」
「ずっとそこにいる、ということ」
シオンは少し黙った。
豊村の霧が風に揺れた。果樹の葉が、かすかな音を立てた。
「……大典儀が言っていたことを、思い出しています」
「あの方はまだいる、という言葉か」
「はい。毒と癒しの統合を恐れている何かが。私が倒れても終わりではない、と」
「白い野原が統合に向かう動きだったとしたら、それを恐れるものが動くのは、理屈として合っている」
「対処できますか」
ロルフはしばらく黙った。
正直に言えば、まだわからなかった。白い野原は土の問題として向き合えた。石碑があり、ヴェルンの名残があり、シオンの毒と自分の変換が材料として機能した。しかし、真下にいる何かは、まだ形が見えていない。形が見えないものに対して、どう手を入れるかは、近づいて確かめるまでわからない。
「わからない。でも、やれることはある」
「何からやりますか」
「まず、フィンとゼファーと話す。観測値の詳細を共有してもらう。それから、神殿跡の土の状態を改めて確かめる。白い野原が閉じた後の変化を直接見ておきたい」
「神殿跡へ、また行くんですか」
「いずれ行くことになる。ただし今日明日ではない。準備を整えてからだ」
「準備とは」
「土の状態の把握と、フィンとゼファーの情報の整理。それと、ここを離れる前にやっておくべき手入れが果樹園にある」
「それは、またここを離れるということですか」
ロルフは少し間を置いた。
「可能性は高い」
「約束を守ってくれますか」
「一人で行かない、という約束か」
「はい」
「守る」
シオンはそれを聞いて、静かに頷いた。不安が消えたわけではないが、今できることを確かめた顔だった。
夕食の後、ロルフはフィンへの返事を書いた。
今度は長めだ。観測値の詳細を送ってほしいこと、ゼファーとの情報共有の場を作ってほしいこと、神殿跡の土の変化を継続して観測してほしいこと。それから最後に一行。
『真下にいるものの形が見えない。近づかなければわからない。準備ができたら動く。——ロルフ』
ゼファーへの返事も書いた。
『フィンの報告を受けました。観測値が一致したことを確認しました。神殿跡の調査に同行できますか。——ロルフ』
どちらもガラムに預けた。
「次に商隊が王都方向へ出る時に届けてほしい」
「明後日には出ます。早めに届けましょう」
「助かります」
「ロルフ殿、また動かれるんですか」
「いずれは」
「危ないんですか」
「どの程度かはまだわからない。ただ、確かめに行かないと何もわからない」
ガラムは少し間を置いた。
「……商売人の勘で言いますと、相手が見えない間は動かないのが得策です」
「そうかもしれないけど、農夫の感覚では、土の中を確かめずに種を蒔くのは怖い」
「まあ……ロルフ殿らしい判断ですね」
ガラムは苦笑して、封書を受け取った。
夜。
リゼットが早めに帰った後、テオが眠り込んだ後、縁側に二人だけが残った。
ロルフは土に手を当てた。
今日の豊村の土は静かだった。昨日より静かかもしれない。ただ、奥の深い場所からの気配は変わらずにある。測ったような間隔で、こちらを確かめている。
シオンが膝を抱えて座っていた。
「旦那様」
「ん」
「ヴェルン様が言っていた、教団の上にある目。あれが、今感じているものだと思いますか」
「わからないけど、無関係ではないと思う」
「どんなものだと思いますか」
ロルフはしばらく考えた。
「土で言えば、岩盤みたいなものかもしれない」
「岩盤」
「地表の土は色々変わる。雨が降っても、作物が育っても、虫が巣を作っても、地表は変わっていく。でも、岩盤はそのどれにも動じない。ずっとそこにある」
「ずっとそこにいる何か、ということですか」
「そういうことだと思う。白い野原も、教団も、大典儀も、全部その上で起きていたことで、岩盤そのものは動かなかった」
「でも今、動いている」
「動いたのか、こちらが近づいたのかはまだわからない。ただ、感じるようになった」
シオンは遠くを見た。
霧の向こうに果樹の輪郭がある。自分たちが手入れしてきた豊村だ。
「……旦那様は怖くないですか、本当に」
「少しは怖い」
「どのくらい」
「白い野原へ最初に入った時くらい」
「あの時は結構怖かったですよね」
「そうだな」
「でも行った」
「行かなければわからないことがあったから」
シオンは少し考えた。
「今回も同じですか」
「同じです。行かなければわからない。でも、行く前に知れることは知っておく。準備できることはしておく」
「それが農夫のやり方ですか」
「それが農夫のやり方です」
シオンは膝から顔を上げた。
「……一つ、聞いていいですか」
「どうした?」
「旦那様は、これがどう終わると思っていますか」
ロルフはしばらく黙った。
「終わると思うか、という意味で聞いているか」
「はい」
「終わると思っている」
「根拠は」
「白い野原が閉じた。岩盤みたいな何かが、長い時間そこにいた。でも、長い時間そこにいるということは、変わっていないということではない。土の中の岩盤も、長い時間をかけて変わる。水が入れば割れるし、根が張れば動く」
「それが、ロルフ様と僕だということですか」
「今のところはそう思っている」
シオンはそれを聞いて、少し間を置いた。
「……難しいことを、農夫の言葉で言いますね、旦那様は」
「農夫だから」
「それが一番わかりやすいです、僕には」
「なら良かった」
霧が少し薄くなった。星がかすかに見えた。
土の奥の気配は、まだそこにある。深く、静かに、こちらを見ている。
ロルフはそれを感じながら、目を閉じた。
岩盤でも、長い時間をかければ形は変わる。水が入れば割れる。根が張れば動く。
ただし、一晩では変わらない。
だから今夜は休む。
「シオン、もう寝てくれ。明日、果樹の手入れをしてから返事を書く」
「果樹の手入れが先ですか」
「まず目の前のことから」
「……わかりました」
シオンが立ち上がった。扉を開ける前に振り返った。
「旦那様」
「ん」
「次に行く時も、帰ってきますよね」
「帰る」
「約束ですか」
「約束にしたいなら」
シオンは少しだけ笑った。
「約束です」
扉が閉まった。
ロルフは縁側に一人残って、土に手を当てたまま夜の霧を見た。
フィンの報告書が膝の上にある。ゼファーへの返事は書いた。次に行く場所は、おそらく神殿跡だ。そこでまた土を確かめて、真下にいる何かと向き合うことになる。
どんな形で来るかは、まだわからない。
でも、来る時に来る。
それまでは、今日の土を見る。明日の果樹を手入れする。リゼットの台帳を確認する。テオが見つけた新芽の様子を確かめる。
農夫の仕事は、今あるものから始まる。
霧の奥で、果樹が静かに立っていた。




