表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/100

動く前の夜

 フィンからの報告が届いたのは、ゼファーが来てから五日後だった。


 ガラムが運んできた荷の中に、他の書状より厚みのある封書が混じっていた。蠟の色はフィンのものだ。茶色に地脈の紋様を押した、あの男らしい封書だった。


「相変わらず早い」


 ガラムが「地脈で移動するので仕方ないでしょう」と言った。


 ロルフは封を開けながら縁側へ歩いた。


 リゼットが「また難しそうな話ですか」と言った。


「たぶん」


「ご飯の前に終わらせてください」


「わかった」


 シオンが隣に来た。二人で封書を読んだ。


 フィンの字は几帳面で、数字の記載が細かく、ところどころに小さな図が入っている。報告書というより調査記録の体裁だった。読んでいくと、三つのことが書かれていた。


 一つ目。白い野原が閉じてから、神殿跡周辺の地脈の流れは安定している。閉じる前と比べて本流の圧が著しく低下しており、周辺の土地で白い根が新たに伸びた形跡はない。


 二つ目。ただし、深い層の観測値に変化がある。閉じる前は白い野原への一方向だった圧が、閉じた後に分散した。複数の方向へ散ったが、そのうちの一本が、真下へ向かっている。豊村方向ではなく、真下だ。それは神殿跡のさらに深い地層を経由して、どこかへ向かっている。


 三つ目。ゼファーの研究室の観測値と自分の観測値を照合したところ、方向と時期が一致した。白い野原が閉じた翌日から、真下への圧が確認されている。フィンはゼファーとすでに連絡を取っていた。


 最後に一行だけ、フィンらしい余談が添えてあった。


『念のため言っておくと、これは白い野原が閉じたことで解放されたエネルギーが逃げ道を探しているのか、それとも最初からそこにいた何かが動いたのかが、まだ判断できません。どちらかによって対応が変わります。——フィン』


 ロルフは読み終えて、封書を膝の上に置いた。


 シオンも同じところを読み終えている。


「真下、ですね」


「ゼファーが言ったことと一致した」


「フィンさんがゼファーさんとすでに連絡を取っていたのは」


「フィンが先に動いたんだろう。あの人は気になることがあったら確かめずにはいられないから」


 シオンは封書の最後の一行を見た。


「最初からそこにいた何かが動いたのか、解放されたエネルギーが逃げているのか」


「どちらだと思う」


「……最初からいた何かだと思います」


「俺もそう思う」


「なぜですか、旦那様は」


「土の感触が違うから。逃げているエネルギーなら、方向が定まらない。放射状に散って、行き場のない動き方をする。でも昨日も今日も感じているものは、一定の方向から来ている。場所が決まってる」


「場所が決まっている、というのは」


「ずっとそこにいる、ということ」


 シオンは少し黙った。


 豊村の霧が風に揺れた。果樹の葉が、かすかな音を立てた。


「……大典儀が言っていたことを、思い出しています」


「あの方はまだいる、という言葉か」


「はい。毒と癒しの統合を恐れている何かが。私が倒れても終わりではない、と」


「白い野原が統合に向かう動きだったとしたら、それを恐れるものが動くのは、理屈として合っている」


「対処できますか」


 ロルフはしばらく黙った。


 正直に言えば、まだわからなかった。白い野原は土の問題として向き合えた。石碑があり、ヴェルンの名残があり、シオンの毒と自分の変換が材料として機能した。しかし、真下にいる何かは、まだ形が見えていない。形が見えないものに対して、どう手を入れるかは、近づいて確かめるまでわからない。


「わからない。でも、やれることはある」


「何からやりますか」


「まず、フィンとゼファーと話す。観測値の詳細を共有してもらう。それから、神殿跡の土の状態を改めて確かめる。白い野原が閉じた後の変化を直接見ておきたい」


「神殿跡へ、また行くんですか」


「いずれ行くことになる。ただし今日明日ではない。準備を整えてからだ」


「準備とは」


「土の状態の把握と、フィンとゼファーの情報の整理。それと、ここを離れる前にやっておくべき手入れが果樹園にある」


「それは、またここを離れるということですか」


 ロルフは少し間を置いた。


「可能性は高い」


「約束を守ってくれますか」


「一人で行かない、という約束か」


「はい」


「守る」


 シオンはそれを聞いて、静かに頷いた。不安が消えたわけではないが、今できることを確かめた顔だった。


 夕食の後、ロルフはフィンへの返事を書いた。


 今度は長めだ。観測値の詳細を送ってほしいこと、ゼファーとの情報共有の場を作ってほしいこと、神殿跡の土の変化を継続して観測してほしいこと。それから最後に一行。


『真下にいるものの形が見えない。近づかなければわからない。準備ができたら動く。——ロルフ』


 ゼファーへの返事も書いた。


『フィンの報告を受けました。観測値が一致したことを確認しました。神殿跡の調査に同行できますか。——ロルフ』


 どちらもガラムに預けた。


「次に商隊が王都方向へ出る時に届けてほしい」


「明後日には出ます。早めに届けましょう」


「助かります」


「ロルフ殿、また動かれるんですか」


「いずれは」


「危ないんですか」


「どの程度かはまだわからない。ただ、確かめに行かないと何もわからない」


 ガラムは少し間を置いた。


「……商売人の勘で言いますと、相手が見えない間は動かないのが得策です」


「そうかもしれないけど、農夫の感覚では、土の中を確かめずに種を蒔くのは怖い」


「まあ……ロルフ殿らしい判断ですね」


 ガラムは苦笑して、封書を受け取った。


 夜。


 リゼットが早めに帰った後、テオが眠り込んだ後、縁側に二人だけが残った。


 ロルフは土に手を当てた。


 今日の豊村の土は静かだった。昨日より静かかもしれない。ただ、奥の深い場所からの気配は変わらずにある。測ったような間隔で、こちらを確かめている。


 シオンが膝を抱えて座っていた。


「旦那様」


「ん」


「ヴェルン様が言っていた、教団の上にある目。あれが、今感じているものだと思いますか」


「わからないけど、無関係ではないと思う」


「どんなものだと思いますか」


 ロルフはしばらく考えた。


「土で言えば、岩盤みたいなものかもしれない」


「岩盤」


「地表の土は色々変わる。雨が降っても、作物が育っても、虫が巣を作っても、地表は変わっていく。でも、岩盤はそのどれにも動じない。ずっとそこにある」


「ずっとそこにいる何か、ということですか」


「そういうことだと思う。白い野原も、教団も、大典儀も、全部その上で起きていたことで、岩盤そのものは動かなかった」


「でも今、動いている」


「動いたのか、こちらが近づいたのかはまだわからない。ただ、感じるようになった」


 シオンは遠くを見た。


 霧の向こうに果樹の輪郭がある。自分たちが手入れしてきた豊村だ。


「……旦那様は怖くないですか、本当に」


「少しは怖い」


「どのくらい」


「白い野原へ最初に入った時くらい」


「あの時は結構怖かったですよね」


「そうだな」


「でも行った」


「行かなければわからないことがあったから」


 シオンは少し考えた。


「今回も同じですか」


「同じです。行かなければわからない。でも、行く前に知れることは知っておく。準備できることはしておく」


「それが農夫のやり方ですか」


「それが農夫のやり方です」


 シオンは膝から顔を上げた。


「……一つ、聞いていいですか」


「どうした?」


「旦那様は、これがどう終わると思っていますか」


 ロルフはしばらく黙った。


「終わると思うか、という意味で聞いているか」


「はい」


「終わると思っている」


「根拠は」


「白い野原が閉じた。岩盤みたいな何かが、長い時間そこにいた。でも、長い時間そこにいるということは、変わっていないということではない。土の中の岩盤も、長い時間をかけて変わる。水が入れば割れるし、根が張れば動く」

「それが、ロルフ様と僕だということですか」


「今のところはそう思っている」


 シオンはそれを聞いて、少し間を置いた。


「……難しいことを、農夫の言葉で言いますね、旦那様は」


「農夫だから」


「それが一番わかりやすいです、僕には」


「なら良かった」


 霧が少し薄くなった。星がかすかに見えた。


 土の奥の気配は、まだそこにある。深く、静かに、こちらを見ている。


 ロルフはそれを感じながら、目を閉じた。


 岩盤でも、長い時間をかければ形は変わる。水が入れば割れる。根が張れば動く。


 ただし、一晩では変わらない。


 だから今夜は休む。


「シオン、もう寝てくれ。明日、果樹の手入れをしてから返事を書く」


「果樹の手入れが先ですか」


「まず目の前のことから」


「……わかりました」


 シオンが立ち上がった。扉を開ける前に振り返った。


「旦那様」


「ん」


「次に行く時も、帰ってきますよね」


「帰る」


「約束ですか」


「約束にしたいなら」


 シオンは少しだけ笑った。


「約束です」


 扉が閉まった。


 ロルフは縁側に一人残って、土に手を当てたまま夜の霧を見た。


 フィンの報告書が膝の上にある。ゼファーへの返事は書いた。次に行く場所は、おそらく神殿跡だ。そこでまた土を確かめて、真下にいる何かと向き合うことになる。


 どんな形で来るかは、まだわからない。


 でも、来る時に来る。


 それまでは、今日の土を見る。明日の果樹を手入れする。リゼットの台帳を確認する。テオが見つけた新芽の様子を確かめる。


 農夫の仕事は、今あるものから始まる。


 霧の奥で、果樹が静かに立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ