土が戻る、速さのこと
翌朝。
ロルフは誰より先に起きた。いつも通りだ。
外へ出ると、霧はまだ濃かった。紫の靄が地面の上を低く流れている。その中を、果樹の列に向かって歩いた。帰ってきてから最初の朝の見回りだ。
列の端から順番に確かめていく。
葉の色、実の張り、枝先の向き。根元の土。水路の流れ。変わっているところと、変わっていないところがある。ロルフがいなかった分、リゼットが手入れをしていた。その跡が土に残っている。丁寧な手つきだとわかる。深く掘りすぎず、踏みすぎず、植物の都合に合わせた直し方だった。
悪くない。
むしろ、いくつかはロルフがやるより上手かった。リゼットは根気がある。毎日同じ場所を同じ目で見続けることが、自然とできる。
果樹の中ほどまで来た時、足が少し止まった。
去る前に白い土が広がっていた場所だ。
小枝の目印が五本、刺さったままになっている。その周囲の土を踏んで確かめた。
変わっていた。
白い粉が薄い。去る前と比べると、明らかに薄い。白い野原が閉じたことで、根元から奪われていたものが止まったのだろう。土が少しずつ、色を取り戻し始めている。全部ではない。端の方はまだ白が残っている。でも中心から外側へ向かって、褐色が戻ってきていた。
「思ったより早い」
独り言だった。
ロルフはしゃがんで、土を指で掘った。表層は白い粉がまだある。でも指の幅ほど下は、ちゃんと土の色だ。巡りが戻っているということだ。地表に出ていた白さは、時間をかけて沈んで消える。
小枝を五本とも抜いた。
もう目印は要らない。
朝食の時間になると、テオが飛び込んできた。
「ロルフさん、西の水路に何かいます!」
「何かとは」
「白くてぷよぷよした、変なやつ」
「菌類だな」
「食べられますか」
「食べたら死ぬ」
「なんで知ってるんですか」
「形で大体わかる」
リゼットが「触らないでよ、テオ」と言いながら皿を並べた。
シオンが台所から出てきた。昨日よりさらに顔色が良い。帰ってきてから一番よく眠れたのだろう。
「白い菌類ですか」
「ええ。白い根が退いた後に出てくることがある。土の中の死んだ繊維を分解する役割だ。出ているなら、それだけ土が動き始めているということです」
「良いことなんですか」
「良いこと。ただ触れると肌がかぶれるので、テオは近づかない方がいい」
「なんで僕だけ」と、テオが言った。
「触るから」と、ロルフが言った。
「触らないよ!」と、テオが言った。
「触りそうな顔をしてる」と、ロルフが言った。
リゼットが「触ったら夕飯なしです」と言った。テオが「わかった」と言って座った。
シオンがスープを持ってきた。豊村に帰ってきた最初の朝食だ。リゼットが昨夜のうちに仕込んでいたものだった。
一口飲んで、ロルフは少しだけ間を置いた。
「美味い」
「昨日言えばよかったのに」と、リゼットが言った。
「昨日は疲れてた」
「今日は疲れてないんですか」
「少し」
「正直なんだか正直じゃないんだか」
シオンが隣で「旦那様はいつも正直ですよ」と言った。
リゼットが「シオンさんはそう言いますよね」と言った。
シオンが「そう見えるということは、そういうことでは」と言った。
リゼットが少し考えてから「確かに」と言った。
午前中は果樹の手入れをした。
シオンが隣についた。昨日「土に触れていないと落ち着かない」と言った通りに、率先して根元の土を確かめたり、実の張りを確認したりしていた。手の動かし方が、神殿跡での作業の延長にある。深いところへ意識を向ける癖が、果樹の根を読む時にそのまま出ていた。
「シオン、そこの根元、少し押さえてくれ」
「ここですか」
「少し水が多い。根が溺れかけてる」
シオンは言われた通りに指先を土へ当てた。しばらくして、顔が少し変わった。
「確かに。ひんやりしてます」
「水路の詰まりだな。午後に直す」
「一緒にやっていいですか」
「どうぞ」
シオンは少し嬉しそうな顔をして、それを隠すように土を見た。
リゼットが遠くからそれを見ていた。見ていた、というより、確かめていた。二人が帰ってきてから、シオンの何かが変わっているのを感じているのだろう。
昼になってリゼットが水を持ってきた時、シオンに小声で聞いた。
「シオンさん、なんか……落ち着きましたね」
「そうですか」
「なんか前は、ちょっと張り詰めてる感じがしたんですけど。今日は違う気がします」
シオンは少し考えた。
「神殿跡で、いろいろありました」
「何が」
「ひとことでは説明が難しいですが……自分の毒が、何のためにあるかが、少しわかった気がします」
リゼットは「なんか難しい話ですね」と言ったが、その目は真剣だった。
「でも、良かったです。なんか……シオンさんが帰ってきた感じがします」
「今まで帰ってきてましたよ」
「いや、そういう意味じゃなくて」
リゼットはうまく言葉にできずに、少し眉を下げた。
「なんか……ここがちゃんとシオンさんの場所だって思ってもらえてる感じ、かな。今日は」
シオンはしばらく黙った。
「……前からそう思ってましたよ」
「本当に?」
「本当に。ただ、今日の方がもっとそう思えてます」
リゼットが少しだけ目を細めた。
「それで十分です」
そう言って水を置いて、仕事に戻った。
午後。
水路の詰まりを直した。原因は根の一部が水路の内側へ伸びすぎていたことだ。根を傷めないよう慎重に切り分けて、詰まっていた泥を除いて、流れを戻した。
シオンは工具の持ち方が危なかったが、言われたことを一度で覚えた。覚えたら丁寧にやった。
「やったことあるか」
「ないですけど、やれそうでした」
「そういうことが大事だ」
「どういう意味ですか」
「土の仕事は、やったことがある人間がいつも上手いとは限らない。土と相談できる人間の方が長持ちする」
シオンは工具を持ち直しながら、その言葉を噛みしめていた。
「旦那様は、最初から土と相談できてたんですか」
「子供の頃から土触ってたから、気づいたらそうなってた」
「いつから畑を」
「物心がついた頃には、鍬を持ってた」
「親御さんが農家でしたか」
「ええ」
「……今は」
「いない」
短い答えだった。追及する気配がないことを、シオンはわかって聞いた。それ以上は聞かなかった。
水路の流れが戻った。透明な水が、詰まっていた場所を抜けてさらさら流れ始めた。
「良かった」
シオンが言った。達成の声だった。
「果樹の根、楽になりましたか」
「数日で変わる。今日明日は様子見だ」
「毎日来てもいいですか」
「来ればいい」
「毎日」
「毎日来ればいい」
シオンは少しだけ笑った。許可をもらったということではなく、聞かなくても来るつもりだったが言っておきたかった、という笑い方だった。
夕方。
ガラムが来た。
手紙を受け取っていたのだろう、手土産の果物を一籠持ってきた。豊村では育っていない品種で、街道沿いで手に入れてきたものだった。
「ロルフ殿、お帰りなさいまし。無事で何より」
「ありがとう。何か変わったことはあったか」
「村の外の話ですが、少し気になることが」
ガラムは声を落とした。
「王都の方で、また動きがあったようです。ここ一週間で、例の監察官メビウス殿が、辺境へ向けて調査の手を伸ばし始めたという話が入ってきました」
「豊村の方へか」
「まだここまでは来ていませんが、方向としては一致しています。金冠草の件を引っ張って、出所を辿ろうとしているようで」
ロルフは少し考えた。
「来たら来たで話す。それだけだ」
「その……逃げなくてよろしいので?」
「逃げてどこへ行く。ここが俺の畑だ」
ガラムは「いやあ」という顔をして、籠を置いた。
「ロルフ殿のそういうところ、商人として見習えるものじゃないんですが、頭が下がります」
「商売は逃げた方がいい時もあるだろ」
「そうなんですよ。なので、商人にはなれないんですが、ロルフ殿の生き方は」
シオンが後ろから「旦那様はそういう人です」と言った。
ガラムが「はあ、よく御存じで」と言った。
ロルフは何も言わなかった。
ガラムが帰った後、シオンが果物の籠を持ち上げた。
「王都から来るかもしれないんですね」
「かもしれない」
「旦那様は、どうするつもりですか」
「畑の仕事をする」
「それだけですか」
「来た時に考える。来ないかもしれない」
シオンは籠を持ったまま、ロルフを見た。
「怖くないですか」
「何が」
「また追い出されるとか」
「ここは俺が作った土地だ。追い出す権限を持った人間は、今のところいない」
シオンはそれを聞いて、少しだけ安心した顔をした。安心したことを隠さなかった。
「そうですね。旦那様がそう言うなら」
「お前が怖いなら、怖くていい」
「怖いです。少し」
「正直でいい」
「旦那様は怖くないですか、本当に」
「少し」
シオンが目を丸くした。
「少し怖い、んですか」
「ゼロじゃない。でも、畑を捨てて逃げる方が嫌だ」
シオンはそれを聞いて、少し目を細めた。
「……それが旦那様ですね」
「そうだ」
「じゃあ僕も、ここにいます」
「それはシオンが決めることだ」
「決めました。ここにいます」
一言だった。神殿跡での「帰る」という言葉と同じ重さがある。帰る場所を決めている者の言い方だった。
夜が来た。
豊村の霧が濃くなる。いつも通りの夜の霧だ。
ロルフは縁側に出て、土に指先を当てた。
大地の下の鼓動を確かめる癖が、今もある。白い野原が閉じてから、その鼓動は変わっていた。重く、不揃いだったものが、少しずつ均一になってきている。土が、正しい巡りを取り戻し始めている。
完全に戻るには時間がかかる。でも、動いている。
それで十分だった。
シオンが縁側に並んで座った。
「明日も畑ですか」
「ええ」
「北の列、根元が少し乾いてた気がします。昨日気づいたので、明日確かめたい」
「わかった。一緒に見る」
「はい」
二人でしばらく、霧の中を見ていた。
紫の霧の向こうに、果樹の輪郭がある。テオが「星が見えない」と言いながら寝た部屋の明かりが、まだ細く漏れていた。リゼットが台所で何かを仕舞っている音がする。
普通の夜だった。
白い野原もなく、石碑もなく、ヴェルンの気配もない。ただ豊村の夜があるだけだ。
ロルフはそれで十分だと思った。
「旦那様」
「ん」
「帰ってきて、よかったです」
「来たな」
「毎回そういう返し方をしますね」
「他に何を言えばいい」
「もう少し気の利いたことを」
「農夫だから」
シオンが小さく笑った。
「農夫でも言えると思いますけど」
「難しい」
「難しくないと思います」
「シオンが言えばいい」
「……僕が言うんですか」
「ええ」
シオンはしばらく黙った。
それから、小さく言った。
「帰ってきて、よかった。旦那様と一緒に」
「そうだな」
ロルフが短く返した。
気の利いた返し方ではなかった。でも、シオンはそれ以上何も求めなかった。それが正しい返し方だと知っているから。
霧が流れた。
果樹が、風もないのに少し揺れた。
土の下で、巡りがゆっくりと動いていた。




