帰り道と、帰った先
神殿跡から宿までの道は、来た時より短く感じた。
気のせいだとロルフにはわかっていた。距離は変わらない。ただ、引かれるものがなくなると、足が軽くなる。シオンの歩き方が証明していた。白い野原を離れるたびに少しずつ軽くなっていたが、今日は最初の一歩から違った。
フィンが隣を歩きながら、何度か地脈計を確かめていた。
「止まってます」
「何が」
「白い本流の動きが、さっきから変化なしです。閉じた状態で安定してる。向こうが学習して別の突破口を探す気配もない」
「そうか」
「信じられないんですけどね、正直に言うと」
ロルフは前を見たまま答えた。
「なぜ」
「地脈の裂け目ってのは、一度開いたら人の手で閉じられるものじゃないと思ってたので。古い記録でも、封じるか遅らせるかしかできない、という話ばかりで」
「ヴェルンがそう言ってたんだろ」
「本人が言ってたというより、石碑に残してたわけですが……まあ、その通りではありました」
「本人は閉じられると思ってたんでしょう。だから最後まで踏ん張ってた」
フィンは少し黙った。
「……そうですね」
「次が来るまで待ってたんだから、来た意味があった」
それだけ言って、ロルフは歩くのをやめなかった。
カッサンが後ろで大司教と話しているのが聞こえた。声は低く、内容は聞き取れなかったが、落ち着いた話し方だった。来た時と帰りとで、大司教の空気は変わっていた。重さの種類が違う。来た時は何かを背負っていた重さで、今は何かを受け取った重さだった。
シオンがロルフの少し後ろを歩いていた。
特別なことは何もしていない。ただ歩いている。でも時々、足元の土をわずかに確かめるような踏み方をしている。神殿跡で土に触れ続けた後の癖だろう。ロルフには見覚えがある。自分が畑から戻った後にも同じことをするからだ。
宿に戻ってから、ロルフはガラムへの手紙を書いた。
短い文面だった。
『今日中に出る。三日で豊村へ着く。——ロルフ』
シオンが後ろから覗き込んだ。
「短いですね」
「必要なことだけ書いた」
「ガラムさんなら、もう少し詳しく書いても」
「着いてから話す方が早い」
シオンは何か言いかけて、止めた。この人は手紙が短い、という顔で引いた。
フィンに別れを告げたのは、出発の前だった。フィンはこの後、いくつか別の地脈の観測点を回る仕事が残っているという。
「また連絡します。白い野原の跡がどう変化するか、定期的に見ておきたいので」
「頼む」
「ロルフから頼まれるとは思いませんでしたね」
「何がおかしい」
「いや、おかしくはないんですけど。ロルフって、あまり人に頼まないので」
「頼める人間に頼む、それだけです」
フィンは少し目を細めた。それから、さっぱりした顔で手を差し出した。
「お役に立てて良かったです。シオン殿も、お体に気をつけて」
「フィンさんも」
シオンが頷いた。
カッサンは別れ際に、石碑の写しの最終稿を渡してくれた。欠けた部分を補完した版だ。神子の紋様の位置も、前後の文脈も、きれいに整理されていた。
「記録として残しておきます。大司教の許可をいただいて、神殿の古文書庫にも収めるつもりです」
「そうしてください」
「次の神子が来た時のために」
その言葉に、シオンが少しだけ目を丸くした。
「次の、神子」
「はい。こういうことはまた起きるかもしれない。だったら、誰かが来た時に読めるものを残しておく方がいい」
「……ヴェルン様がやったことと、同じですね」
「そうなります」
シオンは小さく頷いた。何かを噛みしめるような間だった。
大司教は最後に、ロルフとシオンへ向かって頭を下げた。
「私は……今回の旅で、ずいぶんと考えさせられました。癒しとは何か、ということを」
「答えは出ましたか」
「まだです。でも、問い方が変わりました」
ロルフは特に返さなかった。答えが出ていなくても、問い方が変わるのは十分なことだと思っていた。
「ロルフ殿」
「はい」
「教団の中にある、毒を巡りから切り離してきた慣習については……私の方で、少しずつ変えていくつもりです。一度に全部は無理ですが」
「土の仕事と同じだから、急がなくていいです」
大司教は少しだけ笑った。今回の旅で初めて見た、力の抜けた笑い方だった。
三日の道を、一行は二人になって歩いた。
フィンとカッサンと大司教は別の方向へ向かい、ロルフとシオンだけが豊村への道へ戻った。
最初の日は無口だった。
無口というより、言葉の必要がなかった。神殿跡で使ったものが体の中で落ち着くのに、ひと晩かかる。シオンは夜だけ早めに眠って、朝は普通に起きた。ロルフは夜に土の状態を少し確かめてから眠った。白い野原の方向を感じ取れるかどうか、念のために確かめたが、特に何も返ってこなかった。
閉じている。
それだけがわかった。
二日目の夜、焚き火のそばでシオンが口を開いた。
「旦那様」
「ん」
「ヴェルン様のことを考えてました」
「どんなことを」
「あの人は、神子として生まれて、毒の器として扱われて、最後は土になることを選んだわけですよね」
「そうみたいだな」
「……同じです、最初は」
ロルフは薪をひとつ足した。
「僕も、毒の器として扱われてました。呪われた子だって言われて、死を待つだけの場所へ捨てられた。ヴェルン様も、似たようなことがあったんじゃないかと思って」
「かもしれないな」
「でも、あの人は誰かに土に触れてもらえるまで踏ん張り続けた。僕は旦那様に会えた。そこが違う」
「何が言いたい」
「……よかった、って思ってます」
シオンは焚き火を見たまま言った。
「ヴェルン様は長い時間をかけて、誰かが来るのを待てた。僕は早いうちに旦那様に会えた。それだけのことですけど」
「それだけじゃないだろ」
「どういう意味ですか」
「ヴェルンが踏ん張ってくれたから、あの土が残ってた。あの土が残ってたから、シオンの毒が受け取ってもらえた。繋がってる」
シオンはしばらく黙った。
「……そうですね」
「だから、早いか遅いかじゃない。ちゃんと繋がってたんだ、最初から」
焚き火が低く鳴った。
シオンが膝を抱えて、火を見ていた。その横顔には、豊村に来た最初の頃の死を待つだけだった表情はなかった。もっと先へ向いている顔だった。
「旦那様」
「ん」
「豊村に戻ったら、果樹園の手入れを手伝いたいです」
「リゼットが管理してるが」
「それでも。旦那様の隣で土を触りたい。神殿跡で手を当てすぎて、なんか土に触れていないと落ち着かない気がして」
「農夫みたいなことを言うな」
「旦那様の真似をしてたらそうなりました」
ロルフは少しだけ目を細めた。
「それでいい」
「本当ですか」
「土に触れたくなるなら、それだけ土がわかってきたということだ」
シオンはその言葉を受け取って、少し間を置いてから、ゆっくり笑った。弾けるような笑い方ではなく、じんわりと温かいものが出てくる笑い方だった。
豊村についたのは、三日目の夕方だった。
死の霧が村を包んでいる。紫の霧だ。でも、ロルフには馴染みのある匂いがする。腐った空気ではなく、自分が手入れを続けてきた土地の匂いだ。
村の入り口を抜けた瞬間、声が飛んできた。
「ロルフさーん!!」
リゼットが走ってくる。その後ろから、テオが転がるように追いかけてくる。テオは途中で転んで、起き上がって、また走ってくる。
「帰ってきた! 本当に帰ってきた! シオンさんも!」
「ただいま」
シオンが答えた。声が柔らかかった。
「顔色は大丈夫ですか?! ガラムさんから手紙が来て、今日着くって書いてあったから、ずっと待ってたんです! 果樹園のこととか、水路のこととか、聞きたいことが山ほどあって!」
「一つずつ話す」
ロルフが言った。
「今夜は飯だけ食う」
「ご飯はもう作ってあります! シオンさんが好きなやつも!」
「ありがとう」
シオンが言った。
リゼットが少しだけ目を細めた。シオンの顔を見て、何かを察したらしい。賑やかな子だが、ちゃんと読む。
「……お疲れになりましたか」
「少し」
「そうですよね。ゆっくりしてください。ご飯だけ食べて、あとはゆっくり」
「ありがとう、リゼット」
テオがロルフの腕を引っ張った。
「ロルフさん、聞いてください! 果樹の西の列、三本、新しい芽が出てきたんです! リゼットねえちゃんじゃなくて、僕が見つけたんです!」
「よく見つけた」
「えっ、それだけですか」
「偉い」
「そっちでもない! もっと感動してください!!」
「感動してる」
「顔が感動してない!!」
リゼットが「テオ、ロルフさんはそういう顔なの」と言った。
テオが「何その顔」と言った。
シオンが「いつもの顔です」と言った。
ロルフは何も言わなかった。
村の広場を抜けながら、足元の土を踏んだ。豊村の土だ。自分が最初に来た日から手入れをし続けてきた土の感触が、靴越しに返ってくる。
変わっていない。
いや、変わっている。良い方向に。自分がいない間もリゼットが手入れをして、テオが観察をして、村の人間が踏み固めてきた土だ。一人の農夫の土ではなく、この村みんなの土になっていた。
夕飯は賑やかだった。
リゼットが質問をして、ロルフが短く答えて、テオが余計なことを言って、シオンが笑って、またリゼットが質問する。その繰り返しが、夜が深くなるまで続いた。
神殿跡でのことは、ほとんど話さなかった。
いずれ話すことになるかもしれないが、今夜は必要ない。今夜は豊村の土と、リゼットの作った飯と、テオの声があれば十分だった。
夜が更けて、テオが眠り込み、リゼットが片付けを始めた。
シオンが縁側へ出た。ロルフもそれに続いた。
紫の霧の向こうに、星がかすかに見えた。
「旦那様」
「ん」
「帰ってきました」
「来たな」
「なんか……やっと、って感じがします」
「白い野原も、やっと、と言ってたな」
シオンはそれを聞いて、少しだけ目を細めた。
「もしかして、それを言いたくてここに連れてきたんですか」
「たまたまだ」
「たまたまにしては、うまいこと言いました」
「農夫が詩人みたいなことを言うと嫌ですか」
「嫌じゃないです」
シオンは紫の霧を見た。
「好きです」
一言だった。霧に向けた言葉なのか、ロルフに向けた言葉なのか、どちらとも取れる言い方だった。
ロルフは答えなかった。
縁側の木が、静かに軋んだ。
豊村の夜は、霧が深くて、静かで、温かかった。




