ふたつが、ひとつになる朝
夜が明けるより少し前に、ロルフは目を覚ました。
眠れていた。考えながら眠ると言った通りに、土のことを考えたまま意識が落ちて、そのまま朝まで続いた。農夫の体はそういうふうにできている。
起き上がり、窓を少し開けた。
冷たい空気が入ってきた。まだ暗い。でも空の端が、ほんのわずかだけ白み始めている。その白さは、白い野原のものとは違う。ちゃんと夜明けの色をしていた。
ロルフは顔を洗い、昨夜畳んだ石碑の写しを鞄へ入れた。鍬は宿の入り口に立てかけてある。それを取り、外へ出た。
廊下をシオンの部屋の前で通ると、もう気配があった。起きている。ロルフが扉を軽く叩くと、間もなく開いた。
シオンはすでに外出の支度を済ませていた。顔色は普通だ。昨夜より少し落ち着いて見える。
「眠れたか」
「はい。旦那様が眠ったのがわかったので」
「わかるのか」
「なんとなく。宿が静かになった感じがするんです」
ロルフは特に返さなかった。
フィンもカッサンも大司教も、顔を合わせた時には全員目が覚めていた。誰も「よく眠れた」とは言わなかったが、誰も重そうな顔もしていなかった。今日やることがはっきりしている日の、静かな緊張だった。
宿を出ると、空が橙色になり始めていた。
神殿跡まで歩く間、誰もほとんど話さなかった。
石列の前に着いた時、ロルフはまず足元を確かめた。
昨日抑えた北と南の突破口は、今朝のところは動いていない。白い筋の縁が昨日と同じ位置に止まっている。一晩で変わらなかったことが、まず確認できた。
「フィン」
「はい」
「下の流れはどうだ」
フィンが地脈計を当てた。しばらく読んで、答える。
「昨日より少し落ち着いてます。北と南を抑えたことで、本流の圧が分散された。今日が動くとしたら、その分散が落ち着いてから……もう数時間は猶予があると思います」
「数時間あれば十分だ」
「はい」
「では先に石碑を確かめる。カッサン、一緒に来てくれ」
「承知しました」
石碑は盆地の外れ、岩棚の手前に半ば埋もれていた。すり減った文字が並ぶ面が、おおよそ北東を向いている。神子の紋様が刻まれていたとカッサンが読んだ欠けた部分は、石碑の中央よりやや下、文章の核心に当たる位置だった。
「向きは北東だな」
ロルフが言うと、カッサンが頷いた。
「ええ。白い野原の方角と、ほぼ一致します」
「つまり石碑は、白い野原へ向けて書かれた」
「書いた者が、届けたかった方向、ということかもしれません」
ロルフは石碑の神子の紋様が刻まれていたはずの欠けた部分を指先で触れた。すり減っているが、ざらついた石の感触の中に、わずかに異なる質感がある。削られた深さが違う。他の文字より深く、丁寧に刻んである。
「ここだけ彫り方が違う」
「はい。私も気づいていました。他の文字は均一なのに、この部分だけ二度刻んだような跡がある」
「念を入れた、ということか」
「伝えたかったのが、ここだったということだと思います」
ロルフは石碑から離れ、円い領域の方を向いた。
北東だ。石碑の文字が向いている方向と、円い場所は同じ方角にある。
「行く」
円の境界に立った時、ロルフは内側の土をまず一度だけ踏んだ。
昨日と変わらない静けさが足裏から返ってくる。でも、今日の方が少し厚い気がした。夜の間に何かが変わったのか、自分の感覚が今日の方が澄んでいるのか、どちらかはわからない。
「シオン、入ってくれ」
シオンが境界を越えた。
一歩目を踏んだ瞬間、シオンの表情が緩んだ。引かれる感覚がない場所だと体が覚えているのだろう。肩から力が抜けて、呼吸が少しだけ深くなる。
「昨日より、温かい気がします」
「俺もそう感じた。夜の間に土が動いたのかもしれない」
「動いた、というのは」
「良い方向に、です」
ロルフはしゃがんで、中央あたりの土を指で掘った。昨日確かめた場所だ。表層の白い粉をわずかにどかすと、下から深い褐色が出てくる。湿り気が昨日より少しだけ増している。
やはり、夜の間に変わっていた。
「始めます」
ロルフは立ち上がり、シオンと向き合った。
フィンとカッサンと大司教は円の外縁に立っている。護符の準備はカッサンが済ませている。フィンは地脈計を持ち、今この瞬間の流れを読み続ける。大司教は光を持つが、今日は使わない。ただ、何か崩れた時のための最後の押さえとして立っている。
「シオン、さっきと同じように入ってくれ。ただし、量を止めないこと。俺が変換を入れても、止めるな」
「はい」
「引き続けるのが辛くなったら声を出してくれ。俺が速度を上げる」
「……俺の限界ではなく、旦那様が速度を上げる、ということですか」
「ええ。お前が無理をするより、俺の側で吸収を速める方が安全だから」
シオンは少し間を置いた。
「……旦那様が無理をするということでは」
「今日は俺が無理をする番です」
シオンは何か言いかけて、止めた。言い返しても変わらないと知っている顔だった。
「わかりました」
「では始める。ゆっくりでいい。最初から全部出すんじゃなく、土が受け取れるかどうかを確かめながら」
「はい」
二人は円の中央へしゃがみこんだ。
向かい合って、両方の手が土へ当たる。
シオンが目を閉じた。
胸元から指先へ、指先から土へ。自分の中で巡っているものを、外へ流す。押さえつけるのではなく、引き留めるのでもなく、ただ流れるままに。昨日の北の突破口でやった時より、量を絞らないように。
黒紫の気配が土に染みた。
ロルフはそれを感じながら、変換を組み立てた。
今日は押さえるための変換ではない。受け取って、別の形に変えて、白い野原の方へ流す。水路を作るのでもなく、壁を作るのでもなく。土の中に眠っていたものが、もう一度巡れるように。通り道を作るだけだ。
(ヴェルンが遅らせていたもの。シオンの毒と同じ気配が、この土の奥にある。それと合わせる)
変換波形を整える。
【毒素等価交換:事象変換・還流】
掌から、静かな波が落ちた。
爆発でも衝撃でもない。水が砂に染みる時のように、静かに、ゆっくりと、土の奥へ降りていく。
次の瞬間、円の中心で何かが応えた。
熱ではない。音でもない。
ただ、土が少しだけ動いた。
ロルフの指先に伝わる質感が変わった。ばらけていた砂が一瞬だけまとまるような、根が方向を定めた瞬間みたいな感触だった。
「……来てます」
シオンの声が、少し変わった。
「ヴェルン様の気配が、近い」
「止めるな」
「はい」
シオンは目を開けなかった。顔はまっすぐ下を向いている。流れを確かめながら、止めないように続ける。
ロルフは変換を維持した。受け取る量が少しずつ増えている。シオンの毒が土に染みるほどに、土の奥にあったものが応えて動く。動いたものをロルフが受け取り、変換して白い野原の方へ流す。流れれば、向こうの圧が変わる。圧が変われば、傷が閉じる方向に動く。
それが、石碑の言っていた「めぐる」ということだとロルフには思えた。
フィンが円の外で声を上げた。
「……本流が、揺れてます!」
低いが、はっきりした声だった。
「白い野原の方の流れが変わってる。圧が、落ちてる」
「続けます」
ロルフが答えた。
シオンの呼吸が少しだけ速くなった。量が増えているせいだ。
「大丈夫か」
「……大丈夫です。でも、引かれる感じが少しあります。向こうから」
「今日のは引いているのではなく、感じているだけだろ」
「……そう、です。怖くないです。なんか、知ってる感じがする」
「ヴェルンの気配か」
「たぶん。ここの土と、向こうが、繋がろうとしてる感じがします」
カッサンが外縁で小さく息を呑んだ。
石碑の言葉が今ここで起きていると、言葉にしなくても全員が感じているのだろう。
ロルフは変換の速度を少し上げた。
シオンの負荷が増えているなら、吸収側を速くすることで均衡を保つ。シオンが止まる前に、循環として完成させる。
土が、もう一度動いた。
今度は大きかった。
円の中央が、ごくわずかだが沈んだ。陥没ではない。土が内側へまとまるように、息を吸い込むように、中心に向かって収束した。
そこから、温かさが上がってきた。
火のような熱ではない。地下から上がってくる、長い時間をかけて守られてきたものの温度だ。白い野原の冷たさとは全然違う。もっと静かで、もっと安定した温かさだった。
「旦那様」
シオンの声が、かすれた。
「温かい」
「わかってる」
「ヴェルン様が……」
「後で聞く。今は続けてくれ」
「はい」
フィンが声を上げた。
「本流の圧が、さらに下がってます! 白い野原の縁が……縮んでる!」
カッサンが護符を握り直した。大司教が静かに光を手の中で保った。
ロルフは受け取る量を最大まで上げた。
シオンの毒が、土の奥のヴェルンの名残と合わさって、白い野原へ向かって流れていく。巡りを取り戻そうとするその流れを、ロルフの変換が支えて、加速する。
円の中の土が、深い色に変わっていった。
白い粉が沈み、褐色が表面へ出てくる。まるで長い間封じられていたものが、ようやく息をつけるように。
白い野原が、音もなく縮んでいった。
縁から中へ。外縁から少しずつ、白い面が土の色に戻り始めた。遅い。一瞬で全部が変わるわけではない。でも、確かに戻っている。
フィンが地脈計を見ながら、かすれた声で言った。
「……門が、閉じてる」
誰も他には何も言わなかった。
ロルフは変換を維持しながら、シオンの手元を見た。
シオンの指先が、白い土の上に当たったまま、少し震えている。疲れではない。違う震え方だ。
「シオン」
「……はい」
「聞こえてるか、ヴェルンの声が」
シオンは少し間を置いた。
「聞こえる、というより……感じます。言葉じゃないけど、意味はわかります」
「何と言ってる」
シオンは目を開けた。
金色の瞳に、涙が薄く浮いていた。泣こうとしているのではない。感じているものが多すぎて、こぼれているのだ。
「……ありがとう、って」
短い沈黙があった。
「それと」
「それと」
「やっと来た、って」
大司教が目を伏せた。カッサンが羊皮紙を胸元へ当てた。フィンは地脈計を見ながら、唇を引き結んだ。
ロルフは変換を、ゆっくりと、落とし始めた。
急に止めると土が不安定になる。水路を閉じる時のように、少しずつ流れを細くして、最後に静かに手を離す。
シオンも合わせて、毒を引いていった。
円の中の土が、静かになった。
温かさは残っている。白い粉はほとんど消えた。深い褐色の土が、朝の光の中に出ている。生きた土の色だ。
ロルフは手を離した。
シオンも手を離した。
しばらく、二人ともそのまま動かなかった。
円の外でフィンが地脈計を読んでいた。針が、静かに、中央へ落ち着いていった。
「……白い野原の流れが、止まりました」
フィンの声は低く、感情の色が薄かった。それは落ち着いているのではなく、言葉にすると崩れそうなものを、淡々と読み上げることで保っているような声だった。
「傷が……閉じてる。完全にではないですが、門として開いている状態ではなくなってます」
「時間はかかるか」
「完全に戻るまでは。でも、今日でもう一方的に奪われることはなくなると思います。自然に土が戻っていくはずです」
「どのくらいで」
「わかりません。地脈のことはそこまで読めないですが……少なくとも、もう白い根が外へ伸びることはなくなる」
ロルフは立ち上がった。
膝の土を払う。手も払う。農夫の手が、いつもと同じ動作で土を落とす。
シオンはまだ中央にいた。立ち上がれないのではなく、立ち上がる前に確かめることがある顔だった。土に触れたまま、何かを聞いている。
少しして、シオンが顔を上げた。
「旦那様」
「ん」
「ヴェルン様が、眠ります」
「そうか」
「もう、踏ん張らなくていいって、わかったみたいです」
ロルフは何も言わなかった。
言わなくても良いことだと思ったからだ。
シオンは立ち上がった。土についた手を、外套の裾でそっと拭う。
円の中の土は、静かだった。
白い野原は、もうそこにない。
盆地に残った白い筋は、根元からの供給が止まったことで、少しずつ薄れていくだろう。石柱の傷も、石台の重さも、塚の部屋の暗さも、今日から少しずつ変わっていく。一気には戻らない。でも、止まっていたものが動き始めた。
ロルフは鍬を担いで、石列の外へ歩き出した。
「帰ります」
シオンが隣に並んだ。
「豊村に、ですか」
「ええ。今日中に出られる」
シオンの歩き方が、少しだけ軽くなった。意識してのことではないとロルフには見えた。ただ、引かれるものがなくなったせいで、自然とそうなったのだ。
「リゼットに連絡を入れます。宿に帰ったら」
「テオへも」
「はい。ガラムにも」
「帰り道に」
「そうしましょう」
石列を抜けながら、ロルフは一度だけ振り返った。
神殿跡は静かだった。傾いた石柱が朝の光を受けて、長い影を地面に落としている。その影の向こう、円い領域の土は今、深い色をしている。
種は蒔いた。
あとは、土に任せる。
農夫の仕事は、それが全部だ。




