土は教えてくれる
南の突破口は、午後になってから動いた。
午前中はフィンが地脈計で見た限りでは昨日と変わらなかった。それが日が高くなってから少しずつ圧が増し、白い筋が石列の根元へ這い寄り始めた。北を抑えた流れが、やはりこちらへ回ってきたのだろう。
「北より速いですね」
フィンが地脈計を読みながら言った。
「こっちは午前中で動いてる」
「向こうも学習してるからな」
ロルフはしゃがんで白い筋の先端を確かめた。昨日見た時よりも太さが増している。石列の一番低い場所、土が薄くなっているところへ向かって、じわじわ食い込もうとしていた。
「ここを先に押さえないと、夕方には石列の内側まで出てくる」
「では急ぎますか」
「急ぎはしない。手順を間違えると、逆に広げる」
ロルフは北の突破口で使った手順を頭の中でなぞった。シオンの毒を薄く落とし、変換で巡りを作り、白い本流が回り込む前に通り道を塞ぐ。ただし南は地形が違う。石列の内側に向かって地面がわずかに傾いている。流れの向きがそのぶんだけ余分にある。
「シオン」
「はい」
「今の体の具合はどうだ」
シオンは少しだけ考えた。
「昨日よりは落ち着いてます。円の中にいる時間があったおかげだと思います」
「午前中、あそこで休んでたのが効いたな」
「はい。引かれる感じが、今はほとんどない」
「なら動ける」
「はい」
南の突破口への手順は、北とほぼ同じで進めた。シオンが毒を落とし、ロルフが変換を入れる。違うのは、地面の傾きに合わせて変換の方向をわずかに調整したことだ。流れが内側へ向きやすい分、入口そのものを少し外へ押し返すように通り道を作る。
白い筋がざわめき、一度だけ太くなってから、じわりと退いた。
北の時より時間がかかったが、崩れなかった。
「……押さえました」
フィンが地脈計を見て言った。
「圧が下がってます。完全ではないですけど、今日のうちに石列の内側まで出てくることはなさそうです」
「よし」
ロルフは立ち上がり、両手をはたいた。土が落ちる。
太陽が西へ傾き始めていた。今日の仕事はここまでにするつもりだった。蒔く前日に体を使いすぎるのは、畑仕事でも避ける。翌朝に力が残っていなければ、肝心な時に手が鈍る。
「今日はもう宿に戻ります」
カッサンが手元の羊皮紙を片付けながら言った。
「明日が、本番ですね」
「そういうことです」
「何か、必要なものはありますか」
「今夜、石碑の写しをもう一度見たい。蒔く順番を整理しておきたいから」
「準備しておきます」
大司教が静かに付け加えた。
「私も同席させてもらえますか」
「どうぞ」
一行は神殿跡を出た。
夕暮れの風が、昨日と同じ方向から来た。土の匂いがする。今日の手入れが効いているのか、昨日より少しだけ湿り気がある気がした。気のせいかもしれないが、こういう小さな変化を見落とさないことが大事だとロルフは思っていた。
宿に戻ると、カッサンはすぐに石碑の写しを卓へ広げた。
三枚の羊皮紙が並ぶ。昨日、シオンが神子の紋様と読んだ□の部分には、今日カッサンが書き加えた小さな記号がある。文字ではなく形として、二つの流れが一つへ戻る形を縦に引き延ばしたもの。
ロルフはそれを見ながら、椅子に座った。
「順番を確かめたい。石碑の文言を頭から読んでくれるか」
カッサンが写しを持ち上げ、読み始めた。
「"根は、毒を拒まない。土は、癒しだけでは痩せる。ゆえに、ここへ眠る者は、片側を封ずるのでなく、巡りを遅らせる"」
一度区切る。
「"癒しのみでは留まり、毒のみでは枯れる。ふたつはひとつの巡り"」
もう一度区切る。
「"混ざり、還り、〔神子の紋様〕めぐるとき、傷は門ではなくなる"」
部屋が静かになった。
フィンが地脈計を膝の上で転がしながら、天井を見た。
「逆から読むと順番が見えてくる気がします。まず傷がある。次に神子が巡りに入る。二つが混ざって還る。そうして初めて、傷が門でなくなる」
「それが蒔く、ということか」
大司教が問うと、ロルフはしばらく黙った。
「蒔くという言い方が正しいかどうかわからないが、やることとしては近い」
「具体的には」
「円い場所の土に、シオンの毒と、俺の変換を同時に入れる。北や南でやったのと似てるが、あれは押さえるための手入れだった。今度は違う。巡りを作るんじゃなくて、巡りそのものに変える」
「違いはどこにあるんですか」
フィンが聞いた。
「押さえる時は、俺が主で、シオンの毒は材料として使う。次にやるのは、シオンが主で、俺は変換を支える役に回る」
シオンが顔を上げた。
「僕が主、ですか」
「ええ。あの場所の土にはヴェルンの名残がある。シオンが同じ神子の気配として触れることで、土が応える。俺はその応えを変換で受け取って、白い野原の側へ流す」
「……俺の手を通して、向こうへ届かせるということですか」
「そういうことです」
シオンは黙って考えていた。難しいからではなく、自分の中で組み立てている時の静けさだった。
「できると思いますか、僕に」
「昨日と今日でやってきたことと、根本は変わらない。ただし量が違う」
「どのくらい」
「昨日の倍か、三倍か。触れてみないとわからない」
「失敗したら」
「失敗してもすぐに取り返せないような作業じゃない。ただ、やり直しが効かないとしたら、量が足りなかった時だ」
「足りない方が危ない」
「ええ。出しすぎた分は俺が変換できる。でも途中で止まってしまうと、土が中途半端な状態で固まる」
シオンはそれを聞いて、一度だけ深く息を吸った。
「……わかりました。途中で止めない、ということですね」
「そういうことです」
「旦那様が支えてくれるなら、できます」
その言い方に、大司教が少しだけ目を細めた。フィンはわざとらしく地脈計へ目を落とした。カッサンは静かに羊皮紙に何かを書き始めた。誰も何も言わなかったが、部屋の空気が少しだけ和らいだ。
ロルフは石碑の写しを手に取り、神子の紋様が書き込まれた部分を見た。
「もう一つ確かめたい。この紋様、向きがあるか」
カッサンが手を止めた。
「向き、ですか」
「石碑のどの方向を向いていたか、現地で確認したか」
「……していません。欠けていた部分だったので、向きまでは」
「明日、見てから始めてもいいか」
「もちろんです。石碑の残りがあれば、方向は読めると思います」
「では明日、まず石碑を確かめて、それから円の場所へ入る」
「承知しました」
カッサンは羊皮紙へ書き込みを続けた。準備を整える人間の手の動きだった。
フィンが地脈計を仕舞いながら言った。
「眠れますか、今夜」
「眠れなくても横になる」
「ロルフらしい答えですね」
「明日体が動かなかったら困るだろ」
「そりゃそうですけど……普通は眠れるかどうか心配するところで」
「心配してもしなくても、夜は明ける」
フィンは苦笑した。言い返す気が失せた顔だった。
シオンが立ち上がり、窓の外を見た。
夜の神殿跡の方向には、当然何も見えない。ただ、暗い空と、星のかすかな光があるだけだ。白い野原も、傾いた石柱も、円い土の場所も、全部夜の中にある。
「旦那様」
「ん」
「ヴェルン様は、今夜も踏ん張ってると思いますか」
「踏ん張ってるでしょう。ここまで踏ん張ってきたんだから」
「明日、間に合いますか」
「わからないけど」
ロルフは正直に言った。
「でも、今夜あの土が崩れるなら、今頃フィンの地脈計が騒いでる。静かなままなら、まだ持ってる」
フィンは思わず地脈計を確かめた。針はわずかに揺れているが、異常というほどではない。
「……今のところは、です」
「なら今夜は大丈夫だ。明日の朝、また確かめる」
シオンは窓から離れた。
「わかりました。では、寝ます」
「そうしてくれ。明日、体が要る」
「はい」
シオンは自室へ向かいかけて、一度だけ振り返った。
「旦那様」
「なんだ」
「明日、終わったら……帰れますか」
「帰る」
一言だった。余分なものが何もない答えだった。
それだけでシオンは頷いて、扉を閉めた。
部屋に残ったのはロルフと、片付けを続けるカッサンと、地脈計を膝の上で持て余しているフィンだった。大司教は先に引いていた。
ロルフは石碑の写しをもう一度広げ、全体を見た。
文字の並びは変わらない。欠けた部分も、埋まった部分も、昨日のままだ。だが、今夜見ると少し違って見えた。書いた人間が何を伝えたかったのか、土の言葉で書かれたものを人の言葉へ翻訳しようとしたのか、その必死さみたいなものが今夜は読める気がした。
(ふたつはひとつの巡り)
毒だけでも、癒しだけでも、痩せる。
それはそうだ。畑でも、肥料だけやっても育たないことがある。水だけ与えても同じだ。必要なものが揃って、適切な順番で、土に合わせた形で入れて、はじめて根が張る。
ロルフは写しを畳んだ。
「カッサン、今夜はもういい。明日のために休んでくれ」
「もう少しだけ……石碑の欠けた前後を補完できないか、試してみます」
「無理しないでくれ」
「はい。でも、眠れなければやることがあった方がましなので」
フィンが小さく笑った。
「僕もそんな感じです。眠れる気がしない」
「横になってりゃそのうち眠れる」
「ロルフはどうするんですか」
「もう少し、土のことを考えます」
フィンはため息をついた。
「それが一番眠れなそうですよ」
「考えながら眠れる」
「本当ですか」
「農夫は翌日の畑のことを考えながら眠るもんだ」
フィンは返す言葉を探して、やめた。
ロルフは窓の外の暗さを見た。
土は夜に正直だと言った。夜が明ける前に、あの円い場所の土は今夜何をしているだろうか。静かに待っているか、あるいはほんの少しだけ、明日に向けて何かを準備しているか。
畑の土は、蒔く前の夜に少しだけ変わることがある。
長く農夫をやっていると、そういう夜明けを何度か経験する。特別なことは何もしていないのに、翌朝に種を入れると土がすんなり受け取る。まるで準備していたみたいに。
明日がそういう朝ならいい。
ロルフはそう思いながら、写しを枕元に置いて目を閉じた。




