先に、手を入れておく
神殿跡の朝は、来るたびに顔が違う。
昨日より白い筋の密度が増している場所もあれば、前日と変わらない場所もある。変化の速さが一定でないのは、下の流れが生き物みたいに動いているからだ。動き方を読めれば、どこへ次に手を入れるかが見えてくる。
ロルフは石列の内側へ入りながら、足元を確かめた。
昨日フィンが「次の突破口になりそう」と示した二か所のうち、北側の一点がすでに変わっていた。白い筋が一晩で三倍ほど密集し、土が表面から浮いている。乾いてはいない。むしろ、押されすぎて逆に水分だけが上へ出てきているような、嫌な湿り方だった。
「北の方が早かったな」
「昨日の夜に動いたんだと思います」
フィンが地脈計を当てながら言った。
「下でも流れが変わってる。昨日ロルフが変換を入れた後、本流がいくつか経路を変えた。その一つがここへ集まってきてる」
「じゃあ、ここを先にやります」
「もう一方は」
「後でいい。こっちが崩れてからじゃ遅い」
ロルフはしゃがみ込み、白い筋の密集した場所を手で押した。土が沈む。中身を抜かれている。表面だけが膜みたいに残っていて、下が空洞に近い。
こういう土は、何かの拍子に一気に崩れる。
「シオン、来てくれ」
「はい」
シオンが隣へしゃがんだ。
「ここへ少しだけ巡らせてくれ。昨日の円い場所でやったみたいに、押さえつけるんじゃなく、流れるように」
「……はい、やってみます」
シオンは両手を土へ当てた。目を閉じ、呼吸を一度整える。胸元から手先へ、手先から土へ、流れるように毒を落とす。昨日の円の中で落ち着けた後の感覚をなぞるように、静かに、急がずに。
黒紫の気配がごく薄く土に染みた。
白い筋が一斉にざわついた。押し返すのではなく、戸惑ったみたいな震え方だ。これも昨日と同じだとロルフには見えた。白い根は毒そのものを嫌うのではなく、巡ろうとするものを嫌う。巡りが入ってくると、奪い方がわからなくなる。
「変換」
ロルフが掌を地面へ当てる。
シオンが落とした巡りと、土の奥にかろうじて残っていた湿りと、白い筋が押しつけていた圧の残滓。三つを材料にして、一つの通り道を作る。水路を掘るように、ただ流れる形を作るだけだ。爆発させるのでも、浄化するのでも、封じるのでもない。
土が低く鳴った。
白い筋が縮んだ。
全部が退いたわけではないが、一番密集していた中心部が、じわりと外へ押し広がった。薄く散ったことで、突破口としての圧が下がる。
「……持ちましたね」
フィンが地脈計を見て言った。
「当面は。完全には消えてないけど、このまま崩れる状態じゃなくなってます」
「南の方は」
「今のところ、昨日と変わらずです。ただ、ここを抑えたことで流れが変わるかもしれないので、少し時間を置いてからの方がいいかもしれません」
「わかった。先に円の場所を見てくる」
大司教とカッサンはフィンとともに北側の観察を続けることにして、ロルフとシオンは昨日の円い領域へ向かった。
石列の端から少し入ったところ、白い筋が境界で止まるあの場所だ。
近づくと、昨日と変わらず白い筋が円の外縁で止まっている。境界はそのまま保たれていた。内側の土も、昨日踏んだ時の感触と同じだ。静かで、詰まっていて、均一だった。
「昨日より少し、強い気がします」
シオンが円の中へ入りながら言った。
「強い?」
「ここの土が、です。昨日は入った時に少し力が抜けた感じがしたんですけど、今日は最初からそれがある。落ち着いてる感じ」
「北の方を抑えたから、ここへの圧が少し下がったのかもしれない」
「土って、そういうふうに繋がってるんですね」
「全部繋がってますよ。畑でも、一か所手入れすると別の場所が変わる」
シオンは足元の土を見た。
「旦那様は、この場所に何を蒔くか、もう見えてますか」
「少しずつ」
「少しずつ、ですか」
「まだ全部じゃない。でも、外から持ってくるものじゃないとは思ってます」
シオンは首を傾けた。
「外から持ってこない、というのは」
「この土の中に、すでにあるものを使う。それを蒔くと呼ぶかどうかはわからないけど」
ロルフはしゃがんで、円の中心あたりの土を指で軽く掘った。浅いところはやはり白い粉が混じっている。だが二節ほど掘ると、土の色が変わる。白くも黒くもない、深い褐色の土が出てくる。
これが残っていた。
「シオン」
「はい」
「ここへ触れてみてくれ。さっき北でやったのと同じやり方で」
シオンは膝をつき、ロルフが掘った場所へ指先を当てた。
しばらく、何もしゃべらなかった。
風が一度だけ通り過ぎた。石列が低く鳴った。それだけだった。
それから、シオンがゆっくりと顔を上げた。
「……あります」
「何が」
「ヴェルン様の、名残が。ここにも」
ロルフは息を止めた。
「塚の下だけじゃなかったのか」
「はい。もっとずっと薄いですけど、同じ気配がします。この円の中の土全体に、うっすらと」
ロルフは円の内側を見渡した。
土の下に残る気配。白い根が唯一入り込めない場所。そして、昨日から今日にかけて少し強くなっている感触。
繋がった。
「……この場所、ヴェルンが最後まで残したんだな」
「残した、というより」
シオンは少しだけ考えてから、言葉を選ぶように続けた。
「たぶん、ここだけは手を付けなかったんだと思います。塚の部屋も、石台も、全部が白い根を遅らせるために使われた。でも、ここだけは何にも使わずに、ただ、守ってた」
「何のために」
「次に来る人が、ここから始められるように」
ロルフは少し間を置いた。
農夫として、それはわかる感覚だった。畑で一番良い土は、急いで使わない。次の季節のために、次の作物のために、あえて耕さずに残しておく場所がある。
「……最初の一手を、ここで打つんですね」
シオンが静かに言った。問いではなく、確認だった。
「ええ」
ロルフは立ち上がり、円の外縁を一度歩いて回った。
境界の形は、改めて見るとゆるいいびつさがある。完全な円ではなく、石の根元に合わせてわずかに歪んでいる。それが自然なのだろうとロルフには思えた。完璧に整った形ではなく、土の都合に合わせた形だ。
「南の突破口を今日中に抑えてから、ここへ本格的に手を入れます」
「今日から、ですか」
「準備だけ。蒔くのはもう一日待ちます」
「待つのはなぜですか」
「昨日と今日で土の状態が変わった。もう一日見て、どっちへ動くかを確かめたい。急いで蒔いて根付かないより、一日待って確かめてからの方がいい」
シオンはそれを聞いて、こくりと頷いた。
「旦那様の言う通りにします」
「自分の体のことだから、自分で決めてくれていいんだが」
「でも、土のことはロルフ様の方がよくわかってます。僕の毒は僕のものですけど、ここの土に合わせた使い方は、旦那様に任せます」
その言い方に、ロルフは少しだけ間を置いた。
任せる、と簡単に言うが、それが簡単でないことをロルフは知っている。自分の体の中にあるものを、誰かの判断で動かすことへの信頼が必要だ。シオンはその信頼を、言葉少なに差し出してくる。
「……わかった。そういうことなら、ちゃんとやります」
「はい」
「失敗しないとは言えないが、丁寧にやります」
「それで十分です」
シオンはそう言って、円の中に立ったまま空を見た。
地下にいた時間が長かったので、空が広く感じる。白い野原の遠い天井ではなく、ちゃんと空だとわかる色がある。
「旦那様」
「ん」
「蒔いた後、どうなると思いますか」
「白い野原が閉じたら、ですか」
「はい」
ロルフはしばらく考えた。
「土が戻ると思います。ゆっくりと。一気には戻らないから、また時間がかかる」
「それは、また通いに来るんですか」
「様子を見る必要はある。ただ、毎日来る必要はなくなるはずです」
「じゃあ、豊村に戻れますね」
シオンの声が、少しだけ柔らかくなった。
「リゼットが心配してました。果樹園の手入れも、ロルフ様でないとできない部分があって」
「連絡はしてある」
「してましたか」
「ガラムに頼みました。数日中には戻ると」
シオンはそれを聞いて、ふっと表情が和らいだ。豊村のことを考える時の顔だ。神殿跡の空気の中でも、あの場所への帰り道がちゃんとそこにある顔だった。
「早く帰りたいです」
「もう少し、待ってくれ」
「はい。でも、早く帰りたいです」
同じことをもう一回言ったのは、せかしているのではないとロルフにはわかった。ここが終わったら帰れるということを、自分に言い聞かせているのだ。怖くなった時に、どこへ帰るかを決めておく。それがシオンなりの踏ん張り方なのだろう。
円の外縁では、白い筋が相変わらず止まっている。
焦りはない。だが、のんびりもしていない。
今日中に南の突破口を抑えて、この土を最後の一手のために整える。それが今日の仕事だ。
ロルフは鍬を担いで、フィンたちの待つ方へ歩き出した。
シオンが隣に並んで、歩幅を合わせた。




