欠けた文字を埋める
石碑の写しを広げたのは、宿に戻ってからだった。
夕食の後、ロルフとシオンが外の空気を吸いに出ている間に、カッサンは卓の上に羊皮紙を並べ始めた。神殿跡で取ってきた写しが三枚。断片を拾った順番に並べ、その前に昨日から書き加えてきたものを重ねる。
フィンが向かいの椅子へ座り、地脈計を手入れしながら横目で見ていた。
「読めそうですか」
「半分は、ほぼ確定しました。残りが、どうしても一語だけ」
「一語、ですか」
「はい。石碑の中央、一番深く削られていた部分です。文字の形は残っているのに、意味がわからない」
フィンは手元の地脈計を置いた。
「見せてもらえますか」
カッサンは羊皮紙をフィンの方へ向けた。
石碑全体の文字配置を書き起こしたもので、欠けた箇所は□で示してある。フィンは顎に手を当てて読む。
「"癒しのみでは留まり、毒のみでは枯れる。ふたつはひとつの巡り。混ざり、還り、めぐるとき、傷は門ではなくなる"……この□がわからない、ということですか」
「ここです」
カッサンは一点を指した。
"めぐるとき"の前に、□が一つ入っている。前後の文脈から語数も形も絞れているのに、その一語だけがどうしても合わない。
「□の形は、縦に長い文字です。画数は多くない。でも、現在使われている文字体系にはない形で……古い神殿文字のはずなのに、どの辞書を当たっても出てこない」
「造語、でしょうか」
「それも考えました。でも、石碑に造語を使うのは普通じゃない。後世の者が読めなくなる」
「なら、あえて読めなくした」
カッサンは少しだけ黙った。
「……その可能性も、あります」
フィンは羊皮紙を戻した。解けなくて悔しい顔ではなく、考えるためにいったん手放した顔だった。
扉が開いて、ロルフとシオンが戻ってきた。シオンの頬が少し赤い。外の空気に当たると、体の中の毒が落ち着くのだとロルフから聞いていた。
「何を並べてるんですか」
シオンが卓を覗き込む。
「石碑の写しです。一語だけ読めない文字があって」
「見ていいですか」
「どうぞ」
シオンは羊皮紙を手に取った。文字を追いながら、唇が小さく動く。全部を読んでいるのではなく、カッサンが指した□の周辺だけを何度も往復している。
ロルフは椅子を引いて座り、卓の端に肘をついた。
「わかりそうか」
「わかるというか……」
シオンは羊皮紙を置いた。
「この□、読む文字じゃない気がします」
「読む文字じゃない」
カッサンが静かに問い返す。
「はい。文字というより、形です。見たことがある形なんですけど、文章の中で見たんじゃなくて……神殿の床とか、石台の縁とかで」
カッサンが顔を上げた。
「文様と同じ、ということですか」
「そうだと思います。二つの流れが戻ろうとする、あの形を縦に引き延ばしたものに見えます」
沈黙が落ちた。
フィンが地脈計を手に取り直し、羊皮紙の□を見た。
「文字ではなく、形として読む。つまり……その一語は、音や意味を当てはめるものじゃなくて、図形として見るべきだと」
「たぶん、そうです」
カッサンは筆を手に取り、□の横の余白に、シオンが言った形を書いてみた。縦長で、中央がくびれるようなもの。二本の線が下で合わさり、上でまた開く形。
書き終えて、カッサンは息を止めた。
「……神子を表す紋様に、似ています」
シオンが小さく頷いた。
「大司教も知っているはずです。神子が生まれた時に産着に縫われる紋様と、同じ系統の形です」
「それが、石碑のこの位置に入っている」
「はい」
ロルフは卓の上の羊皮紙を見た。
文章を声に出して確かめる。
「"混ざり、還り、〔神子の紋様〕めぐるとき、傷は門ではなくなる"」
誰も言葉を返さなかった。
しばらくして、フィンが静かに言った。
「条件ですね。神子が関わる時にだけ、傷が門でなくなる」
「そういうことだと思います」
カッサンは筆を置いた。
「石碑は、神子を必要としている。癒しと毒が混ざることを言っているのではなく……神子という存在が巡りの中に入ることを、条件にしている」
シオンの胸元に当てられた手が、少しだけ強くなった。
ロルフはシオンを見た。
恐れてはいない。だが、受け取った重さが顔に出ている。自分がただ毒を運ぶ器ではなく、この場所の巡りを取り戻す上で必要な役割を持っているということを、今日一日かけて少しずつ理解してきたはずだ。
「シオン」
「……はい」
「嫌か」
シオンは少しだけ間を置いた。
「嫌、じゃないです。ただ」
「ただ」
「ちゃんとできるか、わかりません」
「わからなくていい。今日の円い場所で、土が落ち着いただろう」
「はい」
「あそこで種を蒔く時、君に何かをしてもらうことになると思ってた。石碑がそれを裏付けた。それだけです」
「旦那様は、最初からそのつもりでしたか」
「なんとなく。確信はなかったが」
シオンは少しだけ目を細めた。
「なんとなく、で連れてきたんですか」
「必要かもしれないと思ったから連れてきた。確信があってから動くと、土は待ってくれないから」
フィンが小さく息を吐いた。呆れているようでもあり、納得しているようでもある顔だった。
「ロルフは本当に、農夫の言葉でしかしゃべらないですね」
「農夫だからな」
カッサンが羊皮紙を丁寧に畳み始めた。
「石碑の残りの欠けた部分は、大司教を通じて古い神殿の記録を当たります。ただ、この紋様の解釈は正しいと思います。シオン殿が言ったことと、文脈がはっきり合った」
「助かります」
「ロルフ殿。もう一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「種を蒔くのは、いつですか」
ロルフは少し考えた。
「もう少し、土を整えてからです。あの円い場所が今のままでは、蒔いても根が張れない。突破口を二か所塞いで、白い本流の圧を下げてから」
「どのくらいかかりますか」
「三日か、四日か。土次第です」
カッサンは頷いて、羊皮紙を鞄に仕舞った。
フィンが地脈計を点検しながら言う。
「三日の間に、向こうが動かなければ、の話ですね」
「そこは賭けです」
「農夫は賭けをするんですか」
「天気には勝てないので、畑仕事は全部少し賭けです」
フィンは目を伏せて、何か言いかけて止めた。文句のつけようがないと思ったのかもしれない。
シオンが羊皮紙の置いてあった場所をそっと指で撫でた。神子の紋様が書かれた余白のあたりだ。
「旦那様」
「ん」
「僕は、何をすれば良いですか。今のうちにできることがあれば」
「体を休めてくれ。明日も神殿跡へ行く」
「それだけですか」
「それだけ。疲れたまま毒を巡らせると、変な方向へ流れるから」
シオンはわかりましたと頷いた。素直に受け取った顔だった。それが今の二人の距離だとロルフは思った。言い過ぎず、引き止めず、必要な時に必要な分だけ動く。それがここまでやってきた形だ。
夜が深くなっていた。
カッサンとフィンが先に自室へ引いた後、ロルフは卓の上に残った羊皮紙の端を一度だけ見た。
神子の紋様。
石碑の作者は、最初からそれを条件として書き込んでいた。誰かが来ることを、来た時のために準備していた。ヴェルンが土の中で遅らせ続けたのも、その誰かが来るまでの時間を作るためだったのかもしれない。
ロルフは羊皮紙を端に寄せ、立ち上がった。
種を蒔く場所はある。蒔く者もいる。あとは、土を整えるだけだ。
農夫の仕事は、いつだってそこから始まる。




