傾いた柱が、指している場所
翌朝、神殿跡の空気は昨日より冷えていた。
霧がかかっているわけではない。だが地面から上がってくる空気が薄く湿っており、踏み出すたびに足裏に昨夜の気配が残っていた。土は夜の方が正直だと言ったが、朝に来るとそれが凝って残っている感じがある。畑でも同じだ。日が上がりきる前の一巡りで、一日の土の機嫌がわかる。
ロルフは石列の手前で立ち止まり、敷地全体を見た。
昨日と変わっているところと、変わっていないところがある。変わっていないように見えても、触れれば違いが出る。ひとまず目で見てから手を入れる。それが段取りだ。
後ろでシオンが並ぶ。
「……昨日より、白い筋が外へ出てきてます」
「気づいてたか」
「はい。縁の石列の隙間から、少し這い出てる」
ロルフは石列の一つへ近づき、足元を見た。石の根元の土に、細い白い筋が昨日はなかった場所まで伸びている。地表ではなく、石の下を通って染み出してきているようだった。
「フィン」
少し遅れてフィンが来た。大司教とカッサンも続く。宿で別の宿にしていた二人を今日は合流させていた。
「昨日より広がってますか」
「ええ。石列の外縁まで出てきてる」
フィンは地脈計を地面へ押し当て、しばらく読んだ。
「……深い層は、逆に少し落ち着いてます。昨日ロルフが変換したせいで、本流の圧が再調整された可能性がある」
「つまり、奥は静かになったぶん、表に出てきた」
「そういうことだと思います」
ロルフは鍬の先で石列の根元を軽く掘った。白い筋はほんの数センチだが確実に外へ出てきていた。動き方が昨日と変わっている。深いところへ押さえをかけたことで、流れが表面へ迂回してきたのだ。水に近い動きだ。塞いだ方向の反対側へ回る。
「学習が早いな」
「向こうも生き物みたいですからね」
カッサンが言う。その口調には皮肉がなかった。ただ事実として認識している声だった。
大司教は石列の内側へ入り、昨日一行が動いた場所を静かに見て回っていた。石台の位置、黒土の一角、フィンが地脈計を当てた場所。その順番を確かめるような歩き方だった。
「ロルフ殿」
「なんですか」
「昨日の変換は、どの程度持ちますか」
「わかりません。土次第です」
「土次第」
「ええ。良い土なら昨日の変換が地盤になって広がる。弱った土だとそのうち薄れる」
「ここの土は」
ロルフは少しだけ考えた。
「中程度だと思います。完全に死んでいない。でも十分に生きているとも言えない」
「では、長くは持たない」
「だから今日も来ました」
大司教は何か言おうとして、止めた。昨日から、この人はそういうことをする。言葉にする前に、言葉で補う必要がないものを選び分けている。癒し手として長く生きてきた者の癖なのかもしれなかった。
ロルフは傾いた石柱の方へ歩いた。
昨日から気になっていたものだ。他の柱はほぼ垂直に立っているか、あるいは長い時間で風化して崩れかけているかのどちらかだ。だが一本だけ、明らかに意図的な角度で斜めになっている柱がある。
近づいて見ると、柱自体の質が他と違っていた。石の色が少し暗い。触れると、他の柱より温度がわずかに高い。正確には、冷えにくい石だ。朝のこの気温で、手で触れてすぐわかる程度の温度差がある。
「シオン、来てくれ」
「はい」
シオンが隣に立つ。ロルフは柱を示した。
「触れてみてくれないか」
シオンは頷き、白い手を石へ当てた。
数秒、黙っている。
それからゆっくりと、目を細める。
「……旦那様」
「なんだ」
「この柱、倒れてるんじゃないです」
「わかってた。倒れかけた角度じゃない」
「はい。……指してます」
「どこを」
シオンは柱の傾いた方向を目で追った。石の柱が斜めになっている方向を延長すれば、どこかへ向かう。視線でなぞると、それは敷地の中央よりやや外れた場所、昨日は素通りした区画あたりへ向かっていた。
「あそこに、何かあります」
「白い筋か」
「いえ。白いのが、特に避けてる場所です」
ロルフは柱の角度を確かめた。意図的に傾けられたのなら、指している先には意味がある。
「フィン、あの方向、地脈計で読めるか」
フィンは言われた方向へ動き、地脈計を向けた。針が左右に揺れてから、ゆっくりと落ち着いていく。
「……変です」
「どう変だ」
「白い本流が通っているはずの位置なのに、そこだけ針が逃げる。磁石が同じ極同士で弾かれる感じで
す」
「弾かれる」
「何かが、白い流れを通さないようにしている。でも、昨日見た黒土とも違う。もっと……安定してます」
ロルフは歩き出した。
フィンが示した方向は、石列の内側でも外れた端の方だった。他の石柱から少し離れており、地面も一段低い。盆地でいえば、一番底に近い側だ。
近づくほど、足元が変わる。
白い筋が消える。急に消えるのではなく、ある一点を境に、すうっと途切れる。その境目は直線ではない。曲線だ。何かを囲むように、ゆるくカーブしている。
「……円だな」
ロルフは足元を確かめながら言った。
「白い筋が通れない、円い領域がある」
カッサンが周囲を歩いて確かめる。
「直径で言えば……大人が十数歩で渡れる程度でしょうか」
「大きくはないな」
「ええ。でも、境界がはっきりしています。急に白い筋が消える」
ロルフはその円の中心あたりへ進んだ。
地面は他と変わらない。乾いた土だ。だが踏んだ時の感触が少し違う。詰まっている。上から何かが押さえているのではなく、下から支えられているような、小さな踏み返しがある。
しゃがみ込み、掌を地面に当てる。
温かくはない。かといって白い根の冷たさでもない。ただ、普通の土の温度だった。普通の土があることが、この場所ではむしろ際立っていた。
「……普通の土だ」
「普通の?」
フィンが眉を寄せる。
「変換されてもなく、白い根に削られてもなく、ただ土として残ってる」
「そんな場所が、まだあるんですか」
「ここだけかもしれない」
シオンが円の縁から中を見ていた。入っていいか、迷っている立ち方だった。
「シオン、入ってみてくれ」
「……はい」
シオンが一歩踏み込む。踏んだ瞬間、彼の表情がわずかに変わった。怖がる方向ではない。むしろ逆で、体の力が少しだけ抜けた。
「……落ち着きます」
「そうか」
「なんでしょう、これ。白いのに引かれる感じもないし、下から何かが来る感じもない。ただ……静かです」
「静かな土は、疲れてない」
ロルフはそう言って、円の内側を一周した。中央に向かうほど、土の密度が均一になる。植物を育てる土としてこういう場所を探す時に感じる、あの「良い畑になりそうだ」という感覚が、かすかにある。
「これは、守られてたんだな」
「何から、ですか」
「白い根からも、こちらからも」
ロルフは立ち上がり、円の外を見た。
石柱が一本だけ、この場所を指して傾いている。敷地の中で白い筋が唯一入り込めない区画。普通の土が、普通のまま残っている場所。
「種を保存する場所は、土が一番良いところを選ぶ」
誰に言うともなく、ロルフはそう言った。
「駄目な土に種を置いても、長くは持たない。ここが残されたのは、何か次に使うものを守るためだった可能性がある」
カッサンが息をのんだ。
「次に使うもの……石碑の欠けた部分と関係があるかもしれません」
「調べてみてくれ。俺は土を見る」
「はい」
ロルフはしゃがみ直し、この円の土を丁寧に確かめ始めた。農夫の手の動きだった。急がず、土を壊さず、何が残っているかを読む。
シオンはその隣で静かに立っていた。
白い筋のない場所で、胸元に当てていた手を少しだけ下ろしている。ここにいると、毒が外へ漏れにくい。引かれる方向がない。
「旦那様」
「ん」
「ここ、好きです」
ロルフは手を止めずに答えた。
「土が静かだからか」
「それもありますけど」
シオンは少しだけ間を置いた。
「白いのがいない場所で、旦那様が普通に土を触ってるのを見てると……なんか、最初の頃を思い出します」
「最初の頃」
「豊村に来た最初の日です。旦那様が井戸の水を浄化して、果樹園を作って……あの頃も、こういう顔で土を触ってました」
ロルフは土から目を上げなかった。
「今も同じだろう」
「そうですね。でも最近、下へ下へと行くことが多かったので。こうして地面に手を当ててるのを見ると、ここが旦那様の本来いる場所だと思って」
「農夫だからな」
「はい」
シオンの声は静かだった。恋しいとも違う。もっと素朴な、この人はここにいると正しいという確認のような声だった。
土を読みながら、ロルフはこの場所が何のために残されたかを考えていた。
種を守る場所。次に使うもの。石碑の言葉。混ざり、還り、めぐる時。
全部がまだ繋がりきっていない。だが、一つ一つは確実に近づいている。畑仕事で言えば、種が何かはわかった。土がどこかもわかった。あとは蒔くべき時と、蒔き方だ。
それを間違えると、せっかくの種が腐る。
「フィン、もう一度聞くが」
顔を上げてフィンを見る。
「白い本流が次に動いてくるとしたら、どこからだ」
フィンは地脈計を見た。しばらく読んで、この円の外縁の一点を示した。
「ここと、ここです。今は止まってますが、昨日変換した後で流れが変わった影響で、この二点が次の突破口になりそうな圧が溜まってる」
「わかった。そこは今日のうちに手を入れておきます」
「今日も変換するんですか」
「軽くだけ。本命は、この場所の土を使う時のための下準備にする」
「この場所を……使う、とは」
ロルフは立ち上がった。
「ここが、最後に種を蒔く場所になると思ってます」
誰も笑わなかった。
フィンはきゅっと地脈計を握り直した。カッサンは石碑の写しを再び取り出した。大司教は目を伏せて、祈りとも息をつくこととも違う、静かな間を置いた。
シオンだけが、ロルフをじっと見ていた。
「種は、なんですか」
ロルフは短く答えた。
「まだ、わからない」
「……わからないのに、蒔く場所が先にわかったんですか」
「農夫はそういうもんだ」
シオンは少しだけ目を丸くしてから、ほんの小さく笑った。
「……旦那様らしいです」
「どうも」
円の外では、白い筋が境界線の手前でじっと止まっている。昨日よりは大人しい。だが諦めてはいない。これも、同じだ。どちらかが動けば、もう一方が応じる。
ロルフは鍬を担いで、フィンが示した突破口の方へ歩いた。
今日の仕事は地道なものになる。一手一手を積んで、次の手のための土台を作る。それだけだ。
農夫の仕事に、近道はない。




