眠る土は、白を通さない
黒土の一角を離れてから、盆地の底はさらに深く沈んでいった。
傾斜そのものはきつくない。けれど、一歩進むごとに空気が重くなる。いや、重いというより、何か別の層へ降りていく感じに近かった。盆地の表面を歩いているはずなのに、地面の下へ潜っていくような圧迫感がある。
白い筋はもう隠れようともしない。
足元の土を這い、石の隙間へ潜り、時には地表へ小さな根の束のように押し上がってくる。そのくせ、ところどころだけ不自然に避ける場所があった。石列の残骸、沈んだ柱、黒い土の名残――そういう“何かがまだ踏ん張っている場所”だけを、白い根は嫌がるように迂回している。
ロルフは歩きながら、それを何度も確かめていた。
「……思ったより、露骨だな」
鍬の先で地面を軽く叩く。白い筋が走る場所と、そうでない場所とでは、返ってくる音が違う。筋の下は乾いて軽い。中身だけを抜かれた土の音だ。けれど、石の残骸や黒土の名残の近くは、まだ少しだけ深みがある。
フィンが地脈計を見ながら言った。
「逃げてるんですよね。白いのが」
「ええ」
ロルフは短く頷く。
「全部飲み込めるなら、とっくにやってるはずです。できないから避けてる」
「でも、石柱も黒土も、もうかなり削られてました」
カッサンの言葉に、ロルフは前を見たまま答える。
「時間をかけて削るつもりなんでしょう。派手に壊すより、そのほうが気づかれにくい」
それは、白いもののやり方そのものだった。
果樹園の甘さを少しずつ抜き、泉の流れを乾かし、白い影として現れてはシオンの毒を剥がそうとする。全部、同じだ。
正面から叩き潰すのではなく、中身だけを奪って空っぽにする。
畑を駄目にする方法としては、ひどく質が悪い。
シオンはロルフの少し後ろを歩いていた。呼吸は落ち着いている。けれど、時折胸元へ当てる手にまだ力がこもる。白い泉で巡らせることを覚え、さっきの黒土で“支え”に触れたことで、ただ引かれるだけではなくなった。だがそのぶん、見えるものも増えたのだろう。
「旦那様」
「ん?」
「この先、道が二つあります」
ロルフは足を止め、振り返る。
シオンは盆地の奥を見つめたまま、少し言葉を探していた。
「見た目には、一つです。でも……白い筋の道と、もう一つ、土の中に残ってる道があります」
「残ってる道?」
「はい。白いのが何度も削ったのに、まだ完全には消えてない道です。細いけど……下まで続いてる」
フィンが眉を寄せる。
「地脈の流れとしては、白いほうしかはっきり読めません。でも、たしかに変なんです。本流に向かうはずの圧が、ところどころだけ薄く外れてる」
ロルフは目を細めた。
白い道は奪うための道だ。
なら、もう一つの細い道は、それに対抗して残されたものかもしれない。
「案内できるか、シオン」
シオンはすぐには答えなかった。胸元へ当てた手に力を込め、一度だけ浅く息を整える。それから、静かに頷いた。
「……たぶん」
「無理ならすぐ言えよ」
「はい、旦那様」
シオンは進路を少し右へ変えた。
見た目には何もない。ただ白い筋が密集する盆地の底が続いているだけだ。だが、シオンがそちらへ一歩踏み出すと、不思議なことに足元の白い筋の密度がわずかに薄くなる。
白いものが通りたがらない場所。
ロルフはすぐにその意味を察した。
「……なるほど」
鍬の先で地面をなぞる。白い筋がほとんど出ていない一帯は、乾いてはいるが完全には死んでいない。土の粒が、まだばらけきっていない。踏みしめた時の返りも少しだけ違う。
「こっちだな」
フィンが半信半疑の顔でついてくる。
「僕には全然見えませんけど……地脈計の針は確かにましです。白い流れから少しだけ外れてる」
「見えなくていいですよ。足元を外さなければ」
ロルフはそう言いながら、白い筋を避けるように進んだ。
しばらく行くと、景色がまた変わる。
盆地の底に、低い岩棚のようなものが現れたのだ。大きな岩ではない。何層かの石が押し重なって、段差のようになっている。白い筋はその手前まではびっしりと走っているのに、岩棚の下へ潜り込むところだけ、不自然な隙間ができていた。
「ここです」
シオンが小さく言う。
「下に、道があります」
フィンが地脈計を岩棚へ向ける。針が大きくぶれたあと、奇妙な角度で止まった。
「……空洞だ」
「やっぱりな」
ロルフは岩棚の縁へしゃがみこんだ。
手を差し入れると、冷たい風がかすかに返ってくる。地上の風ではない。もっと湿って、もっと深い場所から上がってくる空気だ。
しかも、その隙間の周囲には白い筋が寄りついていない。
嫌がっている。
「入口を塞ごうとした跡があるな」
ロルフが言うと、カッサンも岩棚の縁に膝をついた。
「崩した、というより……埋めて隠したように見えます」
「ええ。完全に閉じるためじゃない」
ロルフは石の重なりを見た。
「見つかりにくくするためだ」
その瞬間だった。
岩棚の下から、どくん、と重い鼓動が返った。
今まで感じていたもう一つの心臓の音が、急に近づいたように全員が息を呑む。
シオンの体が小さく震えた。
「っ……」
「シオン!」
ロルフが腕を取る。シオンは倒れなかったが、瞳が揺れていた。
「近いです……旦那様、すぐ下です……」
「白い影か」
「違います。もっと……深い。あれより静かで、でも大きい」
大司教の喉がかすかに鳴る。
「まさか……」
その言葉が終わる前に、岩棚の周囲の白い筋が一斉に濃くなった。
白い根が、遅れて気づいたみたいにざわつき始める。
「見つけられたから、慌ててるんだな」
ロルフは鍬を持ち直した。
次の瞬間、白い根が一斉に岩棚へ向かって這い出す。これまでのようにシオンだけを狙ってはいない。入口そのものを埋めようとしているのが明らかだった。
「カッサン!」
「はい!」
「入口の前へ護符! 大司教はシオンを支えたまま、岩の下を落ち着かせてくれ!」
「承知しました!」
カッサンの護符が次々と飛ぶ。岩棚の前に半円状の光が立ち上がり、白い根の進みを鈍らせる。大司教はシオンの背へ片手を添え、もう片方を岩棚の下へ向けた。薄い光が染み込み、下から上がってくる流れの乱れを抑える。
フィンが地脈計を睨みながら叫ぶ。
「右から回ってきます! 表面を止めても下を潜る!」
「だろうな」
ロルフは岩棚の右側へ回り込み、鍬を深く突き立てた。
「変換」
狙うのは白い根そのものではない。入口のすぐ下を通っている“残った道”だ。シオンが感じ取った、白い筋とは別の細い道。そこへ噛み合わせを増やせば、埋めに来た白い根は嫌がる。
ご、と地面の下で鈍い音がした。
白い根が一斉に止まる。
そのわずかな隙に、シオンが胸元へ手を当てたまま顔を上げた。
「……今なら、見えます」
「何がだ」
「下への道です。白いのが嫌がってる場所が、筋になってる」
「案内しろ」
シオンは頷き、岩棚の左端を指差した。
「そこです。石の重なりの奥……土の色が少しだけ違うところ」
見た目にはほとんどわからない。だがロルフが近づいて鍬の先で土を払うと、たしかに違った。白く抜けた土の中に、わずかに色の残る層がある。そこだけ、石の下へ向かって細く伸びている。
道だ。
しかも、誰かが無理やり掘ったものではない。土の呼吸を残したまま、通れるようにだけ整えられている。
「……うまいな」
ロルフが思わず呟く。
水路を掘る時でも、こんなふうに土を殺さず道を通すのは難しい。入口を隠し、なおかつ下の呼吸を残している。やった相手は、土の扱いを知っている。
その時、シオンがかすかに息を呑んだ。
「旦那様」
「ん?」
「今……聞こえました」
「何が」
シオンは岩棚の暗がりを見つめたまま、唇を震わせる。
「声じゃないです。でも……“急げ”って」
全員が黙った。
風はない。白い根のざわめきと、土の下の重い鼓動だけが続いている。
ロルフはシオンの顔を見た。嘘ではない。聞き間違いでもないのだろう。白い影の呼びかけとは違う。もっと静かで、もっと切迫した何かが、この岩の下からシオンへ触れた。
「……こっちも、待ってるんだな」
ロルフはそう言って、鍬を石の隙間へ差し込んだ。
力任せには動かさない。道を塞ぐために積まれた石なら、雑に崩せば下の空間まで傷める。噛んでいる場所を探し、少しずつずらす。畑で大きな石を掘り出す時と同じだった。
一枚。二枚。
ロルフが石を外すたびに、カッサンが護符で白い根の寄り道を止める。大司教はシオンを支えながら、岩の下の流れを荒らさないよう光を保つ。フィンは地脈計を見ながら、白い筋の太い側道がどこから回り込もうとしているかを叫び続けた。
「左下、一本太いのが来ます!」
「わかった!」
ロルフが鍬を叩き込み、白い筋の通り道をずらす。土は乾いているが、完全には死んでいない。だから噛み合わせを変えられる。これが全部白く抜けきった土なら、もっと苦労していた。
やがて、大人一人が身体を横にして通れそうな隙間が開いた。
そこから、下の空気がふっと上がってくる。
冷たい。けれど白い根の冷たさとは違う。もっと湿って、深く、長く閉ざされていた土の匂いだ。
シオンがその空気に触れた瞬間、表情を変えた。
「……います」
「下にか」
「はい。苦しいのに、まだ崩れてない。ずっと押さえてる」
大司教が思わず一歩前へ出る。
「シオン様、それは……」
だがその問いへ答えるより早く、岩棚の周囲で白い根が再び大きく脈打った。
埋めきれないと悟ったのだろう。今度は入口ではなく、一行そのものへ手を伸ばしてくる。
「来るぞ!」
ロルフの声が飛ぶ。
白い根が扇状に広がる。数が多い。しかも、岩棚の下へ気を取られている今を狙っているのが露骨だった。
カッサンの護符が火花を散らし、大司教の光が薄く壁のように広がる。フィンは地脈計を投げ出しそうな勢いで持ち替え、白い筋の濃い方角を叫ぶ。
ロルフは一瞬だけシオンを見る。
「下りられるか」
シオンは呼吸を整え、頷いた。
「はい、旦那様」
「なら先に行け。お前が一番見える」
その言葉に、シオンの瞳が揺れた。だが迷いは長く続かない。ここでためらえば、また入口が埋まるとわかっているからだ。
「……わかりました」
シオンが身を低くし、開いた隙間へ滑り込む。カッサンが咄嗟に木箱を抱えたままその後ろへ続き、フィンも慌てて地脈計を押し込んだ。
大司教が振り返る。
「ロルフ殿!」
「先に下で受けてください! 僕が最後に入る」
白い根が目前まで迫る。
ロルフは鍬を横薙ぎに振るい、先頭の数本を弾き飛ばした。切れはしない。だが時間は稼げる。その間に大司教も隙間へ入り、最後にロルフが身体を滑り込ませた。
直後、カッサンが護符を入口へ打ちつける。
轟、と鈍い音がして、外から白い根が岩棚を覆った。
だが完全には塞がらない。護符の薄い光と、ロルフがずらした石の噛み合わせが、それをわずかに食い止めていた。
暗がりの中で、ロルフは一度だけ息を整える。
狭い。湿っている。土の匂いが濃い。けれど、白い盆地の上で感じていた空っぽさは少し薄れた。ここにはまだ、別の呼吸がある。
前方でシオンの声が小さく響く。
「旦那様……こっちです」
その声を聞いて、ロルフはようやく口の端をわずかに動かした。
「ええ。行こう」
白い根の上ではなく、その下へ。
奪うための道ではなく、残された道へ。
土の底でずっと耐えていたものへ辿り着くために、一行は暗い通路の奥へ進み始めた。




