沈む石は、土の声を残している
白い窪地を離れてから、盆地の底はゆるやかに姿を変えていった。
最初は、ただ草が薄くなっただけに見えた。次に、石が増えた。やがて、その石の出方が妙だと誰の目にもわかるようになる。自然に転がったものではない。平たい石が一定の間隔で土から顔を出し、時折その並びがゆるく弧を描いている。
昔、何かを囲っていた跡だ。
あるいは、何かを通さないために並べられた跡かもしれない。
ロルフは足を止め、半ば土へ埋もれた石の一つへしゃがみこんだ。表面を払う。苔はない。乾ききっているわけでもないのに、石の肌だけが不自然なくらい清潔だった。白い筋が近くまで伸びてきているのに、そこだけは触れたがっていないように見える。
「……ここもか」
鍬の先で周囲の土を軽く掘る。すると石の根元から、細い溝のようなものが現れた。一本ではない。石と石とを繋ぐように、円弧を描いて走っている。
フィンが地脈計を抱えたまま近づき、息を呑む。
「これ、窪地の石柱と同じ系統ですね。小さいけど、下に何か通してる」
「通してるっていうより、噛ませてるな」
ロルフは土を指でほぐしながら言った。
「流れの上に、石で癖をつけてる。水路をまっすぐ通さない時のやり方に近い」
「地脈に、わざと癖をつけるんですか」
カッサンが問うと、ロルフはあっさり頷いた。
「まっすぐ流れると勢いがつきすぎることがありますからね。畑でも、水をそのまま落とすと土ごと持っていかれる。だから一回、角を作るんです」
大司教は沈んだ目で、白い筋と石の列を見比べた。
「……誰かが、止めようとしていたのですね」
「止めるというより、弱らせようとしてたんでしょう」
ロルフは立ち上がる。
「全部防ぐには足りない。でも、放っておくよりずっとましだ。そういう打ち方です」
シオンは石の列の奥を見つめていた。ここまで来る間も、胸元へ手を当てる仕草は消えていない。ただ、白い泉で“巡らせる”ことを覚えてからは、引かれた時の崩れ方が少し違っていた。ただ怯えるのではなく、自分の中で踏みとどまろうとする間ができている。
「旦那様」
「ん?」
「この先……まだあります」
声は小さいが、迷いはない。
「石も、白い筋も。どっちも増えてます。押さえようとしてたものと、押し返そうとしてるものが……ずっと同じ場所を取り合ってる感じです」
「だろうな」
ロルフは短く答え、石の列が伸びる方角へ目をやった。
盆地の底はさらに沈み、その先に薄い靄のような白さが溜まっている。霧ではない。昼の光の中でもなお色を失ったままの空気が、低く澱んでいるのだ。
その手前まで、石列は続いていた。
折れたもの、沈んだもの、半ば白い筋へ埋もれたもの。完全な形で残っている石は少ない。それでも並びを追っていけば、もとはかなり大きな円を描いていたのだとわかった。
「……囲いか」
フィンが呟く。
「中心を閉じるための?」
「たぶんね」
ロルフはそう言ったが、声には納得だけでなく面倒くささも混じっていた。
大きな囲いが壊れているということは、壊れるだけの時間か、壊されるだけの力があったということだ。そして今もなお白い筋が勝手に這い回っている以上、囲いは役目を果たしきれなかったのだろう。
けれど、完全に無駄だったわけでもない。
そう思わせる何かが、足元の土には残っていた。
ロルフはまたしゃがみ、白い筋と石列のあいだの土を触った。白い筋そのものは冷たく、乾いた空っぽさを持っている。だが石の近くの土には、ごく薄くだが、別の呼吸があった。弱い。今にも消えそうなくらい弱い。けれど死んではいない。
「まだ踏ん張ってるな」
その一言に、シオンがロルフを見た。
「何が、ですか」
「土だよ」
ロルフは指先の土を払う。
「白いのに押されてるけど、全部渡してるわけじゃない。ここらの石が残してる癖のせいか、奥でまだ噛んでる場所がある」
フィンが顔をしかめる。
「その“噛んでる場所”って、僕にも見えるような言い方してくれません?」
「うーん……」
ロルフは少し考え、石列の続く先を顎で示した。
「水を引く溝って、全部が同じ深さじゃないでしょう。浅いところがあると、そこでちょっとだけ流れが遅くなる。そういう場所が、まだあるってことです」
「……なるほど、なんとなくは」
「なんとなくで十分ですよ。今はまだ」
そう言ってロルフは歩き出した。
石列に沿って進む。白い筋は相変わらず足元を走り続けているが、石の近くではわずかに細くなる。嫌がっているというシオンの感覚は、どうやら間違っていないらしい。
しばらく進むと、地形がまた変わった。
盆地の底が急に平らになり、その中央にだけ黒っぽい土が残っている一帯があった。周囲は白い。草も薄い。なのにその一角だけは、色が抜けきっていない。何かを育てられるほどの元気はもうなさそうだが、それでも“死んだ土”の顔ではなかった。
しかも、その黒土の周りを囲むように、折れた石柱が何本も沈んでいる。
一本一本は窪地で見た石柱ほど大きくない。だが数が違った。十本、二十本では足りない。半ば土に埋もれているものまで含めれば、かなりの本数がある。
「……ここか」
ロルフが自然と声を低くする。
フィンの地脈計は、もう見なくてもいいくらい激しく震えていた。
「本流のすぐ上です。いや、“上”というより……蓋の裏側に立ってるみたいな感じです」
「言いたいことはわかる」
ロルフは黒土の縁まで進み、鍬の先でそっと地面を叩いた。白い部分から返る音は乾いて軽い。だが黒土の上は違う。重いわけではない。もっと、奥行きのある音だった。地面の下にまだ層があり、呼吸できる空間が残っている時の音だ。
「ここだけ、生きてるんですね」
シオンの声には、わずかな安堵と、もっと強い緊張が混じっていた。
「ええ」
ロルフは頷く。
「その代わり、相当踏まれてる」
黒土の一角へ膝をつく。手のひらを当てると、じわりとした熱にも似た感触が返ってくる。温かいわけではない。耐え続けた土が持つ、鈍い熱だった。
その時、シオンの体が小さく震えた。
「っ……」
「シオン?」
ロルフが振り向くと、シオンは目を見開いたまま黒土の中央を見ていた。
「……誰か、います」
大司教が息を呑む。
「白い影ですか」
シオンは首を振った。
「違います。あれとは、違う。もっと静かで……でも、ずっとここで支えてる感じがします」
黒土の中央には、何もない。
少なくとも見た目には。ただ色の残った土と、折れた石柱があるだけだ。
けれどロルフにも、シオンが嘘を言っていないのはわかった。自分の手の下の土が、単なる地面ではなく“誰かの意思に近いもの”をまだ抱えているような感触を返してくるのだ。
フィンが緊張した声で言う。
「旦那様、下、動いてます」
「白いのか」
「両方です。白いのが押してる。でも、この黒い土の下にも何か流れがある。弱いけど、白いのに押し返してる」
ロルフは手を当てたまま目を閉じた。
見ようとする。
土の呼吸を。
白いものの押し方と、黒土の踏ん張り方を。
すると、ぼんやりとだが輪郭が見えてくる。
白い筋は、やはり奪うための道だ。あちこちから抜いた実り、巡りかけた毒、定まりきらない流れ――そういう“途中のもの”をここへ運び、さらに深い場所へ落とそうとしている。
その通り道の真ん中へ、この黒土は打ち込まれている。
土そのものが、蓋になっている。
「……土になったのか」
ロルフは無意識に呟いた。
その言葉に、シオンの肩が揺れる。
「旦那様」
「まだ断言はできない。けど、石だけじゃここまで持たない」
ロルフは目を開けた。
「何かが、ここでずっと踏ん張ってる。石の癖だけじゃない。もっと中身のある支え方だ」
大司教の顔色が変わる。
「それは、まさか――」
言葉は最後まで続かなかった。
続けるより早く、黒土の周囲で白い筋が一斉に脈打ったからだ。
どくん、と。
今までより近い鼓動が、地面のすぐ下で鳴る。
黒土の縁へ走っていた白い筋が、ゆっくりと太さを増していく。一本一本が根というより、細い腕のようにも見えた。
「来ます!」
フィンの叫びと同時に、白い根が円を描くように黒土へ伸びた。
今までのようにシオンだけを狙ってはいない。
狙いは、この黒土そのものだ。
「石を壊す気か」
ロルフは立ち上がり、鍬を構える。
「いや……違うな。土を剥がす気だ」
白い根は黒土の縁へ触れた瞬間、そこを掘るようにうねり始めた。覆い隠すのではない。表面をめくって、下にあるものを剥がそうとしている。
シオンの顔が強張る。
「だめです!」
声が珍しく強かった。
「あれを剥がしたら、もっと下が開きます!」
「大司教!」
「はい!」
「支えてください。押し返そうとするな、沈ませるな。今の形を崩すな」
大司教はすぐに黒土の縁へ膝をつき、両手をかざした。淡い光が土の表面を薄く覆う。カッサンは護符を広く打ち、白い根の動きを鈍らせようとする。フィンは一番太い流れの位置を読み上げた。
「右手前! そこが一番深いです!」
ロルフは黒土の縁へ回り込み、鍬を打ち込む。
「変換」
白い根へ直接ぶつけない。今度は黒土の下で踏ん張り続けている“支えの流れ”へ、自分の巡りを噛ませる。重なれば保つ。巡り続けるなら、剥がされにくい。
ご、と重い音が返る。
白い根が一瞬だけ止まった。
だが次の瞬間、さらに別方向から二本、三本と食い込む。数で削り取るつもりだ。力押しではない。執拗に、少しずつ、耐えている土を剥がしていくやり方。
「しつこいな……!」
ロルフの舌打ちが漏れる。
畑でも一番厄介なのは、派手に枯らす病気じゃない。こういうふうに、少しずつ中身だけ奪っていくやつだ。見た目が保たれるぶん、気づいた時には根が痩せている。
「旦那様!」
シオンが一歩前へ出る。
「僕も、やります」
「無理はするな」
「でも、ここ……僕と同じです」
その一言に、ロルフは鍬を握ったままシオンを見る。
シオンの瞳はまだ揺れている。怖くないはずがない。けれど、目の前の黒土から感じるものが、自分自身と無関係ではないのだと直感している顔だった。
「抱え込んだまま、ずっと押し返してる。誰かが、そうしてます」
シオンは胸元へ手を当てる。
「だったら、少しだけなら……僕にも、わかります」
ロルフは短く息を吐いた。
「……やれ」
それだけ言う。
シオンは頷き、黒土の縁へ膝をついた。目を閉じ、自分の中で巡らせた毒を、今度は外へ漏らすのではなく、黒土の下へ触れるように落としていく。
黒紫の気配が土の表面をなぞる。
その瞬間、黒土の中央がかすかに脈打った。
まるで、長く眠っていたものがその気配に応えたみたいに。
「……やっぱり」
シオンの声が震える。
「ここにいます。誰かが……まだ、ここに」
白い根が一斉にざわめいた。
その反応は明らかだった。
そこに触れられるのが困るのだ。
だから剥がそうとしている。
「フィン!」
ロルフが叫ぶ。
「一番嫌がってる場所は!」
「中央の少し左! 石柱の欠けた列の真下です!」
ロルフは迷わずそこへ回り込み、鍬を高く振り上げた。
「変換!」
今度は白い根が剥がそうとしている“継ぎ目”へ直接噛ませる。黒土の下で支え続けているものと、シオンの巡らせた毒の気配と、自分の等価交換。それらを一瞬だけ同じ土壌へ置く。
どくん、と地の下で何かが強く脈打った。
黒土の色が、ほんの少しだけ濃くなる。
同時に、白い根がまとめて弾かれた。
数本がひび割れたように退き、残りも一斉に距離を取る。完全に消えたわけではない。だが、さっきまでの執拗さが嘘みたいに鈍っていた。
フィンが声を上げる。
「戻った! 黒土の下の流れが、少しだけ持ち直してる!」
大司教も目を見開く。
「光が、拒まれていない……」
ロルフは鍬を地面へ立てたまま、荒い息を吐く。
右腕の痺れがまた熱を持っていた。無茶な使い方だとわかっている。だが今ので、また一つ確かなことが見えた。
白い根は、ただ奪うだけではない。
“支え続けているもの”をひどく嫌っている。
しかも、それがシオンの毒と触れ合うことを恐れている。
シオンが目を開ける。呼吸は荒い。それでもその瞳には、さっきまでとは違う色があった。
「……優しいです」
ぽつりと、また同じ言葉を言う。
「苦しいのに、怒ってない。ずっと押さえてるのに、押し返して壊そうとしてない……ただ、これ以上広がらないようにしてる」
ロルフは黒土を見つめた。
土になる覚悟。
支え続けるだけの、長い時間。
そして、シオンが“優しい”と感じる気配。
答えはまだ出ない。
けれど、その輪郭だけは少しずつ繋がってきていた。
「……先にいるな」
ロルフが言う。
「ここは途中だ。もっと奥に、本当に踏ん張ってる場所がある」
シオンは小さく頷く。
「はい。ここは……支えの名残です。もっと深いところに、元があります」
白い根は、再び押し寄せてはこない。
黒土の縁でなおも脈打っているが、さっきまでの勢いは失っていた。こちらが下の“支え”へ触れたことで、無理に剥がすのを諦めたのかもしれない。あるいは、もっと奥へ誘っているだけか。
どちらでも、やることは変わらない。
ロルフは鍬を担ぎ直した。
「行きますよ」
全員が頷く。
黒土の一角に残る微かなぬくもりを背に、一行はさらに盆地の奥へ歩き出す。白い筋はまだ道を作っている。だがその道の下に、踏ん張り続ける土の声も確かに残っていた。
それがわかっただけでも、今は十分だった。




