白い手は、同じものを掴みにくる
石の広場からいったん距離を取ったあとも、誰もしばらくは口を開かなかった。
足を止めれば、あの白い影の気配がまだ背中へ貼りついているのがわかる。追ってきているわけではない。けれど視線のないはずのものに見られている、あの嫌な感覚だけが、盆地の空気に薄く残っていた。
ロルフは歩きながら、何度か鍬の先で地面を叩いた。
白い筋は、石の広場から離れても消えない。むしろ盆地の外縁を這うように、何本も何本も走っている。細いものは草の影に紛れ、太いものは地表へ押し上がって、小さな根の列みたいにうねっていた。
「……見えてるぶんだけで、これだもんな」
ロルフが低く呟く。
フィンは地脈計を覗き込みながら、苦い顔で頷いた。
「下はもっと多いです。表面に出てるのは、たぶん一部だけでしょうね。しかも全部が中央の石床へ戻るわけじゃない。いくつか、別の方向へ太く沈んでます」
「別の方向?」
「はい。石の広場は“節”の一つにすぎないってことです。本流はもっと奥にある」
その言葉に、シオンが胸元へ手を当てた。
さっきより顔色は落ち着いている。けれど、盆地に入ってからずっと、呼ばれている感覚そのものは弱まっていないのだろう。むしろ、中心から離れてもなお消えないあたり、あの白い影だけが相手ではないとわかる。
「旦那様」
シオンが前を見たまま言う。
「さっきの場所から離れても、まだ引かれます。少し薄くなりましたけど……消えてはいません」
「だろうな」
ロルフは歩幅を緩めずに答えた。
「石の上にいたのは、あくまで途中の口だ。根っこは別にある」
「……同じようなものが、まだいるんでしょうか」
その問いには、誰もすぐには答えなかった。
白い影が一つだけだと断言できるほど、目の前の盆地は単純じゃない。無数の白い筋が地の下を走り、それぞれが少しずつ何かを奪っている。途中の節が一つなら、その先にある根も一つとは限らない。
けれどロルフは、しばらく土の感触を探ったあとで首を横に振った。
「姿がいくつもあるとは限りませんよ」
フィンが顔を上げる。
「どういう意味ですか」
「根が広いんだ。広い根を持った草って、あちこちの地面から顔出すでしょう。別の株に見えても、下じゃ繋がってることがある」
畑でよくある話だった。地上だけ見れば離れた場所に生えている雑草が、掘ってみると地下茎でべったり繋がっている。一本抜いたと思っても、根を残せばすぐ別のところから顔を出す。
今の白いものも、たぶんそれに近い。
フィンは納得したように、しかし嫌そうに眉を寄せた。
「つまり、途中に顔を出す場所はいくつもあるけど、根は一つかもしれない、と」
「そういうことです」
大司教が重い声で言う。
「……切り離しそのものが、根を張っている」
ロルフはそれに返事をしなかった。だが否定もしなかった。
しばらく進むと、盆地の地形がゆるやかに変わり始めた。白い筋は相変わらず足元を走っているが、今度は一方向へ露骨に寄っている。盆地の西側、切り立った岩壁のほうだ。
岩壁の下には、かつて水が湧いていたらしい窪地が見える。今は乾いている。石が露出し、砂だけが薄く溜まった枯れた泉だった。
ロルフはその手前で立ち止まった。
「ここだな」
フィンが地脈計を確認し、強く頷く。
「ええ。石の広場から分かれてた太い流れ、全部ここへ寄ってます。下に空洞がある……いや、空洞というより、通路みたいなものです」
「通路」
「地脈の流れそのものが掘った道じゃない。もっと後から、何かが無理やり押し広げた感じです」
シオンが枯れた泉を見つめたまま、息を浅くする。
「……近いです」
「どのくらいだ」
「さっきの影より、もっと奥。でも、あそこは繋がってます。白い野原の、もっと深いところへ」
ロルフは乾いた泉の縁へしゃがみ込み、砂を掴んだ。
表面はさらさらしている。だが一寸ほど掘ると、指先に絡みつくような冷たさがあった。水が涸れたあとの土ではない。水の通り道そのものを、別のものに使われた跡だ。
「嫌な抜け方してるな」
言ってから、ロルフは泉の底を見渡した。
白い筋が何本も集まり、中央の石の裂け目へ落ち込んでいる。そこだけ周囲より白い。まるで根の付け根が露出したみたいだった。
「旦那様」
シオンの声が少し揺れた。
ロルフが振り向くより先に、その異変は起きた。
シオンの足元の土が、音もなく白み始めたのだ。
「っ……!」
シオンが一歩下がる。
だが遅い。地面の下から白い筋がするりと這い上がり、足首へ絡みつこうとする。祠や石の広場で見た細い根とは違う。もっと滑らかで、もっと生き物じみていた。
「寄るな!」
ロルフの鍬が振るわれ、白い根を弾く。乾いた手応え。だが、やはり切れない。叩かれた根は土へ落ちると、すぐに別の角度から這い直してくる。
「護符を!」
「はい!」
カッサンが即座に札を打つ。淡い火花が散り、シオンの周囲へ半円状の結界が広がる。根の一本が弾かれ、泉の底へ落ちた。
だが、その瞬間、シオンの呼吸が大きく乱れた。
「旦那様……!」
「落ち着け。何が起きてる」
ロルフが肩を支える。シオンは胸元を押さえたまま、苦しげに息を継いだ。
「中の毒が……引っ張られるんじゃなくて……引き剥がされるみたいに……!」
その表現に、ロルフの目が細くなる。
引っ張るのではない。引き剥がす。
それは確かに、今目の前の白い根の動きに近かった。欲しいものだけを抜くために、そこにあるものを“生きたまま外す”ような、そんなやり方。
大司教がすぐにシオンの背へ手をかざした。薄い癒しの光が流れ込み、乱れた呼吸をなだめる。だが、それでも白い根の勢いは止まらない。
「旦那様、あれ……僕だけじゃなく……」
シオンが苦しげに泉の底を見る。
ロルフも視線を落とし、すぐに気づいた。
泉の底に落ちていた枯れ枝や石のまわりからも、白さがじわじわ広がっている。生命そのものを吸っているのではない。けれど、そこにあった“巡りの名残”を片端から剥がし取っている。
「同じものしか掴めないわけじゃないな」
ロルフが低く言う。
「でも、掴みやすいものはある」
フィンが顔を強張らせる。
「シオンの毒みたいに、神に近いものですか」
「たぶんな。果実の甘さも、泉の流れも、こいつにとっては“まだ形を決めきってないもの”なんだろ」
まだどこへでも巡れたはずのもの。
毒にも癒しにも、実りにも枯れにも偏りきっていないもの。
そういう“途中のもの”ほど、この白い根はそのまま剥がして持っていける。
だからシオンは危ない。神の毒をその身に抱えたまま生きてきた存在だからこそ、最も掴みやすい。
ロルフは一瞬だけ考え、すぐに決めた。
「シオン、流せるか」
揺れる瞳がロルフを見る。
「……何を、ですか」
「毒をだよ。そのまま抱え込むな。昨日は守った。でも今日は違う。巡らせろ」
シオンが息を呑む。
「巡らせる……」
「そうだ。向こうは“そのままの毒”を引き剥がしたい。だったら、そのまま持ってるな。お前の中で回せ。僕が噛ませる」
言葉の意味を理解するまで、シオンは数秒かかったらしい。
けれど、ロルフの目は迷っていない。
ただ耐えるだけでは、また奪われる。
向こうが嫌うのは“変わること”だ。ならば、巡りの中へ置き直してしまえばいい。
「……やってみます」
シオンは苦しそうな呼吸のまま、それでも頷いた。
ロルフは白い根の前へ踏み出す。
「大司教、支えてください。広げすぎるとシオンの負担が増える。薄くでいい」
「はい!」
「フィン、下の流れがどっちへ逃げるか見てろ」
「了解です!」
「カッサン、護符はシオンの周りじゃなく泉の縁へ。逃げ道を絞る」
「承知!」
全員が即座に動く。
シオンは目を閉じ、自分の胸元へ手を当てた。これまでなら“旦那様へ渡す”ことを前提に扱っていた毒を、今度は自分の中で巡らせ直す。怖くないはずがない。長年、自分を蝕むものとして抱えてきた力だ。それを自分の意志で動かすのは、剣を自分の身体の中で振るうようなものだった。
それでもシオンはやった。
黒紫の気配が、ふっと体の輪郭をなぞるように滲む。
白い根が、初めて露骨に揺れた。
「――今だ」
ロルフの鍬が泉の底へ突き立つ。
「変換」
毒を直接奪わせない。シオンの中で動き始めた毒の巡りへ、自分の等価交換を噛ませる。毒を別の何かへ変えるのではなく、“止まったものではない”と土へ教え込む。巡るものは、剥がしにくい。根から吸ったばかりの水を横取りするのと、流れの途中で河そのものを掴むのでは、難しさが違う。
白い根がびくりと跳ねた。
泉の底で脈動が乱れる。
一本、二本とシオンへ伸びかけていた根が、進む先を失ったように地面へ這い戻る。
「止まった……!」
フィンが叫ぶ。
「いや、違う。逃げてる! 下の流れ、噛み合わなくなってる!」
カッサンの護符が泉の縁で光り、逃げ場を絞る。大司教の支えが、シオンの巡りを崩さないように薄く保つ。ロルフは鍬を突き立てたまま、土の奥の手応えを探る。
確かにいる。
白い根の奥で、何かが戸惑っている。
それは怒りというより、嫌悪に近かった。
掴みたかったものが、掴んだ端から形を変えていく。
切り離したまま保ちたいのに、巡りへ戻ろうとする。
それがたまらなく気に入らない――そんな反応だった。
「……やっぱり、お前」
ロルフが低く呟く。
「変わるのが嫌なんだな」
その言葉に応えるみたいに、泉の底でどくん、と重い鼓動が返る。
だが、さっきまでのような強引さはない。むしろ、どう噛みつけばいいのか迷っているようだった。
シオンが目を開ける。呼吸はまだ荒い。けれど、さっきの一方的な引き剥がされる感覚は薄れているのだろう。自分の胸元へ置いた手に、少しだけ力が戻っていた。
「……旦那様」
「ああ」
「今、離れました」
「だろうな」
ロルフはようやく鍬を抜いた。
泉の底の白さは消えていない。けれど、さっきみたいな露骨な脈動は収まっている。引き剥がすための手が、いったん引いたのだ。
フィンがまだ信じられないという顔で、地脈計とシオンを見比べる。
「巡らせたら、掴みにくくなった……?」
「そのままだから持っていきやすいんですよ」
ロルフは土を払って立ち上がる。
「畑の上に置きっぱなしの肥料袋なら盗めるけど、土に混ざって巡り始めたものは、簡単には抜けないでしょう」
「その例え、嫌にわかりやすいですね……」
シオンが少しだけ笑った。
ほんの小さな笑みだったが、ついさっきまで苦しそうに呼吸していた顔を思えば、それだけで十分だった。
大司教はシオンの背へかざしていた手を下ろし、静かに息を吐く。
「つまり……シオン様の毒が“奪われるもの”ではなく、“巡るもの”として定まるほど、あれは触れにくくなる」
「そういうことです」
ロルフは泉の底を見下ろした。
「逆に言えば、向こうはそれを一番嫌がる。だから狙ってくる」
カッサンが険しい顔で木箱を抱え直す。
「この先、さらに深い場所では、もっと強く干渉してくるでしょうね」
「でしょうね」
ロルフはあっさり答えた。
「でも、嫌がる場所がわかったのは収穫ですよ」
泉の底の奥、白い筋が集まって消えていく裂け目を見つめる。
あの先に、本当に深い根がある。
石の広場の白い影。
この泉で伸びた白い手。
どれも途中の顔でしかない。
だが、少なくとも今のでわかった。
あちらは奪うことしかできない。
そして、巡り始めたものには弱い。
なら、まだ手はある。
シオンが胸元に手を当てたまま、裂け目の奥を見た。
「旦那様……この先です」
「わかってる」
「もっと深いところに、まだ大きいものがいる。あれは、さっきの影とも……今の手とも少し違う」
ロルフは短く頷く。
盆地の風が、かすかに白い砂を巻き上げる。
その奥で、地の下の鼓動がまた一つ、重く鳴った。
まるで、今のやり取りをちゃんと見ていたみたいに。
ロルフは鍬を肩へ担ぎ直した。
「行くぞ」
それだけで全員が動く。
白い泉の底には、まだ根が残っている。だが、さっきまでのように這い出してはこない。逃がしたくないのか、あるいは次の場所へ誘っているのか。それはまだわからなかった。
けれど、庭師の仕事は、こういう時に止まらない。
根がどこまで伸びているのか。
何を奪い、何を嫌い、何を恐れているのか。
そこまで辿り着かなければ、土は戻せない。
盆地のさらに奥へ向かう一行の背を、白い風が静かに追いかけていた。




