白い影は、毒を返さない
白い影は、そこに立っていた。
石の割れ目からせり上がったその姿は、人の形をしているようでいて、人には見えなかった。腕のようなものがあり、肩のようなものがあり、頭の位置らしき場所もある。だが、そこに生き物の温度は一切ない。輪郭だけが土から切り取られたみたいに白く、顔のあるべき場所は、のっぺりと空白のままだった。
盆地の風が止まる。
いや、風が止まったのではない。風の通り道だけが、この白いものを避けているような、不自然な静けさだった。
ロルフは鍬を握ったまま、影の前へ半歩進んだ。
すぐに打ち込むつもりはない。
だが、間合いだけは譲らなかった。
白い影は言葉を発しない。
それでも、その意志だけは痛いほどわかった。視線のないはずのそれが、まっすぐシオンを見ている。返せ、と。あるいは来い、と。そういう種類の圧だけが、土の下の鼓動と一緒にじわじわ押し寄せてくる。
シオンの喉が小さく鳴った。
「……夢で見たものと、同じです」
声は震えていたが、目は逸れていなかった。
ロルフは視線を白い影から外さず、短く聞く。
「何が見えてる」
「白い野原です。ここに立っているのに、向こうにも同じ場所が重なってる。あれが……ずっと僕を引っ張ってた」
「そうか」
ロルフの返事は静かだった。
その落ち着きに引かれるように、シオンの呼吸もわずかだけ整う。大司教は祈ることを忘れたみたいに白い影を見つめ、カッサンは護符を握ったまま動く機を測っている。フィンは地脈計を下げたまま、針の跳ね方に顔をこわばらせていた。
「……本流と、支流の区別が消えかけてる」
フィンが低く呟く。
「どういう意味だ」
ロルフが尋ねると、フィンは目を離さないまま答えた。
「本来なら、中心はもっと奥にあるはずなんです。でも今、目の前のこれに盆地全体の流れが吸われてる。枝先だけじゃなく、根っこごと“ここにいる”みたいになってる」
「分身、ってやつかもしれませんね」
カッサンの声は硬かった。
始祖の記録にあった、名を与えてはならないもの。切り離しを維持するために動く裂け目。もしそれが地脈の深部だけではなく、こうして途中の節目ごとに姿を持てるのだとしたら、厄介どころの話ではない。
ロルフは鍬の柄を握り直した。
「……あんた、何がしたい」
白い影に向けた言葉だった。
返事はない。
だが、石の割れ目の奥でどくん、と一つ重い鼓動が鳴る。まるでそれ自体が返答だと言わんばかりに、周囲の白い根が一斉に震えた。
次の瞬間、細い根が三本、五本と這い出す。
狙いは明らかだった。
「下がれ、シオン!」
ロルフの声と同時に、白い根が地面の上を滑るように走った。速い。土の中ではなく、表面すれすれを這ってくるから余計に嫌らしい。
カッサンの護符が火花を散らし、二本を弾く。だが全部は止められない。
ロルフが鍬を横薙ぎに振るった。
乾いた手応えがあり、白い根が石の上へ弾かれる。だが、切れた感触はなかった。雑草を刈るような柔らかさではない。むしろ中身の詰まらない硬さだけがある。空っぽの蔓を叩いたみたいな、不快な感触だった。
「っ……!」
シオンが胸元を押さえる。
根が近づいた瞬間、引かれる力が一段強くなったのだとロルフにはわかった。白い影そのものが何かをするより、シオンの中にある毒へ“道”が繋がった時のほうが危険らしい。
「大司教!」
「はい!」
「流れを落ち着かせろ。抑えつけるな、逃がすな」
ロルフの指示に、大司教はすぐ反応した。両手を広げ、石の広場全体へ薄い光を流す。浄化ではない。大地の呼吸を乱さない、ごく浅い支えだ。白い根の勢いがわずかに鈍る。
その隙にロルフは地面へ鍬を突き立てた。
「――変換」
低い声とともに、土へ別の巡りが落ちる。
いつもなら毒は力になる。腐った水も、瘴気も、毒の霧も、ロルフの手を通れば別の形へ変えられる。だが、白い根に触れた瞬間だけは違った。
変えにくい。
いや、正確には“材料”が足りない。
そこにあるのは毒でも瘴気でもなく、巡りから切り離された空白そのものだった。悪意が濃いならまだやりようがある。腐っているなら、腐りきった先の熱へ変えられる。だが白い根は、そのどちらでもない。ただ“そのまま抜く”ことしか考えていない。
だからこそ質が悪い。
「旦那様……っ」
シオンの呼吸がまた乱れた。
ロルフは右手の痺れが熱を持つのを感じながら、石の割れ目を睨む。力押しでは分が悪い。白い根は切ってもすぐ次が来る。ここでやるべきなのは、奪うことじゃない。掴ませないことだ。
「シオン、こっち見ろ」
低く呼ぶ。
揺れる瞳が、どうにかロルフへ向く。
「今、何が見える」
「白い野原と……あの影です」
「お前の毒をどうしようとしてる」
「そのまま、持っていこうとしてる。変えないで、受け止めないで……ただ、僕から剥がすみたいに」
「だったら、渡すな」
ロルフの声に、白い影の輪郭がかすかに揺れた。
「お前の中で生きてきたものだろ。勝手に向こうのものにするな」
シオンの指先が、ぎゅっと外套を握る。
その瞬間、引かれ続けていた流れがほんの少しだけ踏みとどまった。
ロルフはそこを逃さない。
「フィン!」
「はい!」
「こいつ、どこから一番太く繋がってる」
フィンは慌てて地脈計を振り、石の広場の下を読む。針は狂ったみたいに暴れていたが、その中でも一方向だけ、明確に深く沈む場所があった。
「割れ目の真下です! でも少しずれてる、中心より西寄り!」
「そこか」
ロルフは白い影の正面から半歩ずれ、石の円の西側へ回った。
白い影は追わない。だが、その下を走る根の脈だけが、露骨にそちらを嫌がるように速くなる。
見えた。
こいつは影そのものが本体じゃない。影はあくまで“出てきた形”で、地脈の噛み合わせを握っているのは石の下にある白い束だ。そこをずらせば、影も安定できなくなる。
「カッサン、護符をそこへ三枚」
「承知!」
護符が空を切って飛び、ロルフの示した位置へ刺さる。淡い光の三角が広がり、白い根の一部がその外へ弾かれた。
大司教の支えが重なり、石の下の流れが一瞬だけ見えやすくなる。
ロルフは鍬を高く持ち上げた。
「――変換」
今度は白い根そのものではなく、その下を通っている“奪われる直前の流れ”へ干渉する。支流から吸い上げられ、ここで束ねられようとしていた実りの欠片。毒でも癒しでもなく、まだどちらにも寄っていない循環の残滓。そこへ噛みつけば、この白いものの手は一瞬遅れる。
鍬が落ちる。
石の下で、ご、と鈍い音がした。
次の瞬間、白い影の輪郭がぶれた。
顔のない頭が、初めて揺らぐ。
白い根の動きが乱れ、シオンへ向かっていた数本が土の上でばらばらに散った。
「効いた!」
フィンが叫ぶ。
だがそれは勝利の声ではなかった。白い影は消えない。代わりに、割れ目の奥でさらに深い鼓動が鳴る。苛立ったような、拒絶するような、重い脈だった。
空気が一段冷える。
白い影が、一歩だけ前へ出た。
土を踏んだようには見えない。ただ、そこに距離だけが縮んだ。
シオンが小さく息を呑む。
「旦那様……来ます」
「ああ」
ロルフは下がらない。
白い影が腕のようなものを持ち上げる。その動きに合わせて、石の広場の周囲の白い根が一斉に脈打った。地面の下から、さらに太い何かが起き上がろうとしている。
ここで長引けばまずい。
ロルフはそう判断した。影の姿を見た。根の束がどこへ噛んでいるかも見えた。これ以上ここで削り合うのは、相手の土俵に立ち続けるのと同じだ。
「一回引く」
短く告げる。
フィンが目を見開いた。
「でも――」
「見えただろ。今はそれで十分だ」
ロルフは白い影から目を離さず、シオンの前へ立つ。
「本体はまだ下だ。こいつは途中の節目に出してる形だよ。ここで無理に叩いても、根っこまでは届かない」
大司教もすぐに察したらしい。光の流れを保ったまま、ゆっくりと後ろへ下がる。
カッサンが護符の残りを石の縁へ投げた。足止め程度の弱い結界だが、いま必要なのはそれで足りる。
白い影は追ってこない。
ただ、割れ目の前に立ったまま、シオンだけを見ている。
顔も、口も、目もないはずなのに、その執着だけははっきりわかった。
シオンの唇が、わずかに震えた。
「……返さない」
小さな声だった。
だが、その一言に白い影の輪郭がまた揺れた。
怒ったのか、戸惑ったのか、それともただ反応しただけか。わからない。けれど、向こうにとって無視できない言葉だったのは確かだ。
ロルフはその変化を見逃さないまま、少しだけ口元を引き締めた。
「そうだ。それでいい」
一行は石の広場から距離を取る。
十歩、二十歩と下がるにつれ、盆地の圧迫感が少しずつ薄れる。だが完全には消えない。白い影はなおも立ち尽くし、地の下の鼓動は低く鳴り続けている。
やがて十分な距離を取ったところで、ロルフはようやく立ち止まった。
フィンが乱れた息を整えながら言う。
「……初対面にしては、だいぶ最悪でしたね」
「最悪で済んだなら上出来だよ」
ロルフは鍬の先についた白い土を払い落とした。
「姿は見た。根の束も見えた。シオンへの干渉の仕方もわかった」
大司教が重く息を吐く。
「言葉を持たない……いや、持たせてはならないものだからこそ、ああいう形なのかもしれません」
「でも、反応はしました」
シオンが胸元を押さえながら言う。まだ息は浅いが、瞳はさっきより強かった。
「旦那様の言葉にも、僕の言葉にも……少しだけ」
ロルフは頷いた。
「ええ。だったら、完全な土塊じゃない。どこかに噛み合う場所がある」
「噛み合う、ですか」
フィンが首を傾げる。
「向こうは“そのまま抜く”ことしかできない。でもこっちは、巡りを変えられる。だったら嫌がる場所があるはずです」
白い影が最も揺れたのは、支流から奪った実りの残滓へロルフが変換を噛ませた瞬間だった。あれは偶然ではない。切り離し続けるための存在なら、別の巡りへ変わることそのものを嫌う。
つまり、そこが根だ。
ロルフは盆地の中央を振り返る。
白い影はまだ立っている。遠目にはただの白い筋の塊にしか見えないが、もうそんな誤魔化しは効かない。
あれは意思に近い。
名前はない。声もない。
それでも、確かに“消えたくない側”としてそこにいる。
ロルフはゆっくりと息を吐いた。
「……面倒だな」
その呟きに、シオンが少しだけ笑う。
「嫌そうですね」
「そりゃ嫌だろ。土の下で勝手に根を張って、果実の甘さまで持っていくんだから」
ぶっきらぼうな返しに、フィンが肩の力を抜いて苦笑した。大司教もカッサンも、その小さなやり取りに救われたみたいに表情を和らげる。
ほんの一瞬だけだが、重すぎた空気がほどけた。
だが、だからこそ次にやるべきこともはっきりする。
この白い影は入口だ。
根源の大地へ続く、裂け目の途中。
ここで立ち止まっていても、世界中へ伸びた白い根は止まらない。
ロルフは鍬を担ぎ直す。
「もっと奥へ行きます」
その一言に、誰も異論を挟まなかった。
白い盆地の中央では、顔のない影がなおも立ち尽くしている。
追ってはこない。
けれど、待っている。
まるで次こそは、こちらの奥まで手を届かせるつもりでいるみたいに。
庭師の仕事は、まだ入口に立ったばかりだった。




