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盆地は、白い鼓動を隠している

夜明けは、静かすぎるほど静かだった。


尾根の向こうであれだけ不気味な鼓動を打っていた盆地が、朝の光を受けると何事もなかったみたいな顔をする。空は薄く晴れ、風も弱い。鳥の声こそ少ないが、荒れ地として見ればおかしすぎるほど穏やかな朝だった。


だからこそ、余計に気味が悪い。


ロルフは焚き火の残りを土で潰しながら、尾根の先を見た。白い盆地はまだ直接は見えない。だが、足裏の奥へ返ってくる感触だけで十分だった。土の下で鳴っているもう一つの鼓動は、夜のあいだよりずっとはっきりしている。


隠すのをやめた、という感じに近かった。


「旦那様」


背後から、シオンが小さく呼んだ。


振り返ると、昨夜よりは顔色が戻っている。まだ万全とは言えないが、少なくとも寝る前みたいな危うい軽さはない。寝床を土から浮かせたのと、大司教の支え、ロルフの変換がひとまず効いたのだろう。


「どうだ」


「引かれる感じは、まだあります。でも……昨夜みたいに急には来ません」


「ならいい。急に持っていかれるよりは、まだ手が打てる」


ロルフはそう言って、シオンの手首を軽く取った。温度は少し低いが、昨夜よりはだいぶましだ。脈も浅くない。


シオンはされるがままになりながら、わずかに目を伏せる。


「昨夜は、ご迷惑を」


「今さらだろ。そういうの込みで一緒に来てる」


いつもの調子で返されて、シオンの口元がほんの少しだけ緩んだ。


フィンはそんな二人を横目で見つつ、地脈計を何度も調整している。針の振れが大きい。朝になって少し落ち着くどころか、むしろ盆地方向へ向けると露骨に跳ねるようになっていた。


「……本当に起きてますね、向こう」


「寝てるなら、夜のうちにあんな手伸ばしてこないだろ」


ロルフは荷を背負い直し、鍬を肩へ担いだ。


「行くぞ。日が高くなる前に、盆地の入口を見たい」


大司教とカッサンも短く頷く。


昨夜の一件で、誰ももう“様子見”だとは思っていない。あれは明確な干渉だった。向こうはこちらを認識しているし、シオンを奪おうとしている。ならば、踏み込むしかない。


尾根を越えるまでの道は短かった。だが、一歩ごとに空気が変わっていくのがわかった。


草はまだ立っている。土も乾ききってはいない。けれど色が薄い。生命が死んだというより、何かを遠慮している色だった。朝露を受けているはずなのに、葉先は光を弾まない。根が水を飲んでいても、その先へ巡らせる力を忘れてしまったみたいな弱さがある。


ロルフは何度かしゃがみ、土を確かめながら進んだ。


白い筋も昨日よりよく見える。細いものは髪の毛みたいに、太いものは幼い根みたいに地表へ浮かんでいて、全部が盆地の中央へ向かっていた。夜のあいだに伸びたわけではないだろう。光の下で、ようやくこちらが見えるようになっただけだ。


「これ、思ってたよりずっと広いですね」


フィンが地脈計と盆地を見比べながら呟く。


「一本の異常じゃない。支流ごとに薄く手を入れてる。だから王都側じゃ“何となくおかしい”程度にしか見えなかったのか……」


「露骨に壊したら、誰でも気づくからな」


ロルフはそう言って、白い筋の一本を鍬の先で軽くなぞった。


冷たい。乾いているのに、水気を抜かれた土とは違う。むしろ根だけが妙に生っぽい感触を残している。土の中を這っているのは、流れというより執着に近い何かだった。


シオンは盆地の中央を見つめたまま、小さく言った。


「旦那様、真ん中へ行くほど、声が近いです」


「何て言ってる」


「……言葉というより、引っ張る感じです。こっちへ来い、って。僕の中の毒を、向こうが自分のものみたいに」


その言い方に、大司教の顔が苦く沈んだ。


ロルフは気づいていたが、今はそこへ触れなかった。後悔や自責を掘り返しても、土はよくならない。必要なのは、今どう流れを戻すかだ。


一行は尾根を下り、盆地の縁へ入る。


入った瞬間、空気の密度が変わった。


風が弱い。音も少ない。なのに、耳の奥だけがざわつく。目に見えない水の底へ踏み込んだみたいな圧迫感だった。フィンは顔をしかめ、地脈計を持つ手に力を入れる。カッサンも無意識に木箱を抱きしめていた。


「……濃いですね」


カッサンの声は低かった。


「魔力、ですか」


フィンが首を振る。


「普通の濃さじゃないです。詰まってるのに巡ってない。淀んだ湖を無理やり流れって呼んでるみたいな……」


ロルフは土を踏みしめたまま、前方を見た。


盆地の中央に近づくほど、白い筋は密度を増していく。地表へ露出した根が、土の上でゆっくり脈打っているようにも見えた。実際に動いているわけではない。だが、近づいているこちらの呼吸へ合わせて、向こうも呼吸を返してくるような錯覚がある。


錯覚じゃない可能性のほうが高いのが、さらに嫌だった。


「止まってください」


唐突にフィンが言った。


全員が足を止める。フィンは地脈計を地面すれすれまで下げ、針の動きを睨んだ。


「この先、足元が抜けます。地表はあるけど、下の流れが空洞になってる」


ロルフはしゃがみ、鍬の柄で地面を叩いた。乾いた音が二度、三度。四度目で、音が変わる。中が空いている土の音だ。


「やっぱりな」


「わかるんですか」


「果樹園の時と似てる。ただ、こっちはもっと深い」


ロルフは白い筋の流れを追い、空洞を避けるように歩幅を調整し始めた。盆地全体が畑なら、今のこれは根腐れが進んだ場所を踏み抜かないように見て回る作業に近い。面倒だが、慣れている。


やがて一行は、盆地の中央手前にある石の広場へ辿り着いた。


広場といっても、人工的に整えられたものではない。地面からせり上がった平たい岩盤が、周囲の土を押しのけて丸く顔を出しているだけだ。けれど、その形は不自然なほど整っていた。大きな円の中心に、割れたような筋が一本走っている。


その割れ目へ向かって、無数の白い筋が集まっていた。


シオンが息を呑む。


「……ここです」


「中心か」


「たぶん。でも、まだ“本体”じゃありません」


ロルフは石の縁にしゃがみこみ、割れ目へ手を近づけた。冷たさが指先を刺す。だが、それだけではない。石の下にあるものが、こちらを窺っているのがわかる。


生きている根だ、とロルフは思った。


ただし植物の根ではない。切り離し続けるためだけに育った、白い意志の根だ。


「昨日の祠は支流。ここは、支流が束になる節目ですね」


フィンがそう言った時、地の下でどくん、と大きな鼓動が鳴った。


石の広場がわずかに震える。


次の瞬間、シオンが強く胸元を押さえた。


「っ……!」


「シオン!」


ロルフが腕を支える。シオンは倒れはしなかったが、呼吸が一気に浅くなった。石の割れ目の奥から、見えない手がそのまま伸びてきたみたいに、毒が引かれているのだろう。


「近い……旦那様、すごく……近いです……」


「まだ持っていかせるな。立てるか」


「はい……でも……」


その“でも”が終わる前だった。


石の割れ目の奥で、白い筋が一斉に明るくなった。


光ではない。色が濃くなったというほうが近い。抜けた白さそのものが、そこに形を持って現れたみたいな、不自然な白だった。


大司教が低く息を呑む。


「まさか……」


割れ目の奥から、細い根が一本、するりと這い出した。


ただの根なら、誰もここまで緊張しなかっただろう。問題はその動きだった。土を探るようでも、獲物を探すようでもなく、まっすぐにシオンの足元へ向かっている。


ロルフの目が細くなる。


「寄るな」


鍬の柄で根を払いのける。乾いた手応えのあと、根は弾かれて石へ落ちた。だが、それで終わらない。割れ目の奥から二本、三本と細い白が伸びる。


フィンが青ざめた声を上げる。


「出てきてる……!」


「大司教、後ろを支えてください。カッサン、シオンの足元から白いのを近づけるな」


「承知しました!」


カッサンはすぐに護符を抜き、シオンの周囲へ打ち込む。淡い火花が散り、迫ってきた白い根をわずかに逸らした。大司教は癒しの光をシオンの背へ流し込み、引かれる流れそのものを落ち着かせる。


ロルフは前へ出る。


石の広場の中心。割れ目の前。

 そこがこの盆地の“口”だと、もうわかっていた。


鍬を逆手に持ち替え、割れ目の脇へ深く突き立てる。


「――変換」


声と同時に、毒素等価交換が土の奥へ落ちた。


白い根がびくりと震える。


ロルフがやっていることは、昨日の応急処置の延長だ。奪われたものをただ取り返すのではなく、ここで奪うことそのものが噛み合わなくなるよう、巡りの相をずらす。白い根が“そのまま抜く”ことしかできないなら、それは最も嫌うやり方のはずだった。


実際、効いている。


這い出していた根の動きが一瞬だけ乱れ、石の割れ目の奥で脈がもつれた。


しかし、そこで終わらなかった。


どくん、と。

 さっきまでより深く、重い鼓動が返る。


石の割れ目がさらに広がった。


その奥から、白い何かがゆっくりとせり上がってくる。


人の形に見えたのは、たぶん偶然じゃない。


だが人ではない。顔がない。輪郭だけが白く、光でも霧でもない曖昧な形で立ち上がる。腕のようなものがあり、肩のようなものがある。ただしそこに生きた人間の温度は一切なかった。


シオンの喉が震える。


「……あれです」


夢で見たものと同じだと、その声だけでわかった。


白い影は言葉を発しなかった。


けれど、全員が理解した。


視線のないはずのその存在が、まっすぐシオンを見ている。


返せ、と。

 あるいは、来い、と。

 そんな意思だけが、土の下からそのまま浮かび上がってきていた。


ロルフは影の前へ半歩出る。


鍬を持つ手は下ろさない。だが、すぐに打ち込むつもりもなかった。


まずは土を見て、相手の根の張り方を知る。庭師のやることは、いつだってそこからだ。


「……あんたか」


低い声が、白い広場に落ちる。


白い影は答えない。


ただ、割れ目の奥から伸びた細い根が、なおもしつこくシオンの足元を目指していた。


ロルフの視線がさらに細くなる。


「人の畑を荒らしておいて、だんまりは感じ悪いな」


それでも影は何も言わない。


だが沈黙のまま、石の下で鼓動がまた一つ鳴った。

 まるで、それ自体が返答であるかのように。


盆地の空気が一段冷える。


フィンは息を止め、カッサンは護符を握り直し、大司教は祈るのではなくただ目の前の白さを見据えていた。


シオンはロルフの背を見つめたまま、苦しげに、それでもはっきりと声を出す。


「旦那様……そいつ、僕の毒を……」


「ああ」


ロルフは答える。


「でも、お前のものだ」


白い影の輪郭が、かすかに揺れた。


怒ったのか、戸惑ったのか、それともただ反応しただけなのかはわからない。だが、初めてこちらの言葉が届いた手応えがあった。


ロルフは鍬の柄を握り直す。


土の下の根は、想像以上に深く、広く張っている。

 けれど、こうして地上へ顔を出した以上、もう“ただの異変”ではいられない。


次は、向き合う番だ。


白い影と、白い盆地と、その下で鳴るもう一つの鼓動。

 それらすべてを前にして、ロルフは静かに息を吐いた。


庭師の仕事は、ここからが本番だった。

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