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夜は、毒を引き抜こうとする

 尾根の手前で野営地を決めたのは、日が完全に落ちるより少し前だった。


 盆地を真正面に見下ろせる場所は避けた。あの白さを一晩中視界に入れていれば、落ち着いて眠れる者などいない。ロルフは尾根から少しだけ引いた斜面の裏側を選び、風がまともに抜けず、なおかつ地脈の流れを感じ取りやすい地面を探した。


 その手つきは、畑の畝を決める時と変わらなかった。


 石の多い場所は避ける。雨が降った時に水の逃げ道になりすぎる場所も駄目だ。逆に、柔らかすぎる土も落ち着かない。寝床には向いても、何かあった時に足元を取られる。地脈が荒れている日ならなおさらだった。


 ロルフはしゃがみ込み、土をひとつかみ掬って、指先で軽く潰した。


「ここだな」


 そう言った時には、もう半分以上決まっている。


 フィンは荷を下ろしながら周囲を見回した。


「やっぱり、そういうのは触るとわかるんですね」


「わかるよ。踏んだ感じでもだいたい」


「さらっと言ってますけど、僕はまだ全然わかりませんからね」


「お前は流れを見ろ。土の寝心地まで競わなくていい」


「競ってないです。分野が違うだけで」


 そんなやり取りをしながら、各自が野営の支度に散る。


 カッサンは火を起こす準備をし、大司教は自分の長衣の裾を見て一瞬だけ眉をひそめたあと、諦めたようにそのまま地面へ膝をついた。もはや土汚れにいちいち反応している余裕もないのだろう。ある意味では、昨日よりずっと現場に馴染んでいる。


 シオンは荷を整えようとして、ふいに足を止めた。


 胸元へ手がいく。


 その動きは、ここ数日ずっと続いているものだった。体内の毒が暴れている時の苦しみ方とは違う。ただ、遠くから何かに引かれているような、そんな気色の悪い違和感が抜けないのだ。


 ロルフはそれを見逃さなかったが、すぐには声をかけなかった。手を止めて見ているだけのほうが、相手に余計な緊張を与えずに済むこともある。


 シオンは数秒だけ呼吸を整え、それから何事もなかったみたいに荷を下ろした。


 見ないふりをしたわけじゃない。見たうえで、今は動けると判断した顔だった。


 それを確認してから、ロルフはゆっくり立ち上がる。


「シオン」


「はい」


「寝床、お前はこっちな」


 ロルフが指したのは、五人分の寝床の中でも一番内側だった。風除けになる岩があり、焚き火の熱もほどよく届く場所だ。


 シオンはすぐに意味を察したらしい。


「僕だけ、守られすぎでは……」


「今さらだろ。引かれてる自覚あるなら、変な遠慮すんな」


 言い方はぶっきらぼうだったが、シオンはそれ以上何も言わず、小さく頷いた。


「……はい、旦那様」


 火が入ると、乾いた枝が小さく鳴った。


 夜の気温は昼よりかなり落ちる。斜面の裏手に陣取っても、空気の冷たさまでは完全には防げない。簡単な鍋に水を張り、干し肉と乾燥豆、それから果樹園でもらった干し果実を少しだけ刻んで入れると、甘さと塩気が混ざった匂いが立った。


 旅の食事としては十分だ。


 だが今夜の五人は、腹が減っているというより、口を動かしていないと考えすぎるという顔をしていた。


 最初に口を開いたのはフィンだった。


「昼に見た白い筋、あれはもう“流れ”って呼ぶには具体的すぎますね。地脈の歪みが地表近くへ押し上げられた結果だとしても、あんなふうに根みたいな形が出るのは普通じゃない」


「普通の異変じゃないんだろ」


 ロルフは鍋をかき混ぜながら答える。


「本流が太すぎるうえに、あちこちの支流から少しずつ抜いてる。水の流れっていうより、根っこが伸びて吸ってる感じだ」


 カッサンが木箱へ目を落とした。


「神が引き裂かれた裂け目に生まれたもの……もし本当にそれが存在するなら、流れそのものではなく“切り離す機能”だけが残っているのかもしれません」


 大司教は静かな声で続ける。


「毒と癒しを分け、片方ずつ別の血脈へ預けた。教団はそのうち一方だけを正しいものと信じた。もし裂け目がそのまま残っているのなら……統合に向かう流れを、本能的に嫌うのでしょう」


 言葉にしてしまえば筋は通っている。


 だが、通っているからこそ、あの白い盆地の不気味さは増した。


 統合されると困る。だから切り離し続ける。

 それだけのために、土の下で何本もの“根”を伸ばし、各地の実りから中身だけを奪っている。


 畑荒らしとしては、ひどく質が悪い。


 ロルフは鍋を火から下ろし、器へよそった。


「どんな理屈だろうと、やってることは単純ですよ。要るものだけ抜いて、あとは空っぽで残す。果樹園の実もそうだったし、たぶんシオンも同じだ」


 その言葉に、シオンの指先がわずかに止まる。


 ロルフは構わず続けた。


「暴れてる毒なら、僕にはわかる。けど今お前の中で起きてるのは逆だ。毒が勝手に膨らんでるんじゃない。どこかへ持っていかれようとしてる」


 シオンは器を両手で持ったまま、小さく息を吐いた。


「はい……僕も、そう思います」


「怖いか」


 直球の問いだった。


 シオンは一瞬だけ目を伏せ、それから正直に頷く。


「怖いです」


 焚き火の向こうで、火がぱちりと爆ぜた。


「痛いとか、苦しいとかとは少し違うんです。自分の中身を、誰かに勝手に抜かれていく感じで……僕じゃなくなるみたいで」


 フィンもカッサンも何も挟まなかった。


 大司教だけが、ゆっくりと顔を上げる。


「……それは、教団があなた方の一族にしてきたことと同じですね」


 シオンは少しだけ目を見開いたが、否定はしなかった。


 言われてみれば、その通りだった。


 毒の意味を奪い、都合の悪い半身として切り離し、残った側だけを神聖だと呼ぶ。やってきたことの形が、そのまま今夜の異変へ重なっている。


 ロルフは器を持ったまま、淡々と言った。


「だから余計に、向こうの好きにさせるわけにはいかない」


 シオンが顔を上げる。


 ロルフはごく普通の声で続けた。


「お前の毒はお前のだ。勝手に持っていかせるもんじゃない」


 その言葉が、焚き火の熱よりまっすぐにシオンへ届いたらしい。シオンは器を握る指先へ少しだけ力を入れ、ゆっくり頷いた。


「……はい、旦那様」


 食事を終える頃には、完全に夜になっていた。


 星は出ている。だが、盆地の方角だけは空気が妙に白く、闇がすっきりと落ちない。霧ではない。光っているわけでもない。ただ、暗くなりきらない白さが沈殿している。昼間に尾根から見た、あの中心の白と同じ色だ。


 フィンは地脈計を抱えたまま、焚き火から少し離れた場所で何度も針の動きを確かめていた。


「……おかしいな」


「何がだ」


 ロルフが声をかけると、フィンは振り返らずに答えた。


「脈が一定じゃないんです。最初は大きな本流が一つだけだと思ってたけど、今は違う。大きいのが一つ鳴る間に、細いのが何本も別の間隔で返ってくる」


「細い根が先に動いて、本流があとから脈打つ感じか」


「たぶん。しかも、こっちを探ってるみたいに周期が変わる」


 ロルフは盆地の方を見る。


 昼間、白い筋に果実を埋めた時もそうだった。こちらが見ようとすると、向こうもまたこちらを感じ返してくる。偶然では説明しづらい。


 思った以上に“起きている”。


 大司教は木箱を開き、羊皮紙を膝に置いた。


「夜のうちに、もう一度記録を確かめておきましょう。明日踏み込むなら、少しでも手掛かりが欲しい」


 カッサンが火に近づき、紙へ影が落ちないよう位置を調整する。


「昼の祠での反応を見る限り、記述そのものが地脈へ影響を及ぼす可能性があります。読む箇所は慎重に選ぶべきです」


「わかっています」


 そう言って大司教が読み上げたのは、既に見た断片の少し後ろにある、欠けの多い記述だった。


「――『二つはもとは一つの巡りである。毒は癒しを害さず、癒しは毒を否まず、土の下にて同じ水脈を飲む。だが引き裂かれし後、裂け目は偏りを愛し、偏りは裂け目を育てる』」


 誰もすぐには声を発しなかった。


 火の音だけが小さく響く。


 ロルフはその文を頭の中で反芻する。難しい言い回しだが、要するに言っていることは単純だ。


 偏りが裂け目を育てる。


 どちらか片方だけを正しいとし、もう片方を捨てるほど、切り離しそのものが力を持つ。ならば、教団が長年続けてきたことは、知らないうちにその“裂け目”を養ってきたことになる。


「ひどい話ですね」


 ロルフがぽつりと言うと、大司教は苦い顔で目を閉じた。


「……返す言葉もありません」


「別に責めてるわけじゃないですよ。土を悪くした畑主って、だいたい自分じゃ気づいてないもんですし」


 慰めているのか突き放しているのかわからない口調に、フィンが小さく肩を揺らした。だが笑いにはならない。今夜の空気は、それを許すほど軽くなかった。


 寝る順番も、見張りの順も、自然と決まった。


 最初はロルフ、次にフィン、夜半をカッサン、明け方を大司教。シオンには休んでいろとロルフが言い切ったので、そこに異論を差し挟む者はいない。


「旦那様、本当に僕は……」


「休め」


 ロルフは寝床を整えながら言った。


「明日、中に入るならお前の感覚が一番要る。今のうちに少しでも寝とけ」


 シオンは唇を開きかけ、やがて諦めたように小さく頷いた。


「……はい」


 それでも完全には落ち着かないのだろう。寝床へ入ってからも、何度か身体の向きを変えていた。白い外套を畳んで枕代わりにし、目を閉じても、呼吸が深くなるまで少し時間がかかる。


 ロルフは焚き火の番をしながら、その様子を横目で見ていた。


 土の下の脈は、さっきから一定にならない。大きいのが一つ、遅れて細いのが二つ、三つ。時々その順番が入れ替わる。見えない根が、暗闇の中で這い回っているみたいな、不快な鼓動だった。


 半刻ほど経った頃だろうか。


 ようやくシオンの呼吸が少し深くなり、フィンも道具を抱えたままうとうとし始めた頃、ロルフはふいに違和感を覚えた。


 音ではない。匂いでもない。

 足裏から先に来る、土の冷えだった。


 さっきまで焚き火の熱でほどよく緩んでいた地面が、急に芯から冷えた気がしたのだ。夜気が強まったというより、もっと下から何かが抜けていくような感触だった。


 ロルフの目が細くなる。


 立ち上がって寝床の並びを見ると、異変はすぐに見つかった。


「シオン」


 呼びかけても返事はない。


 眠っている。だが様子がおかしい。


 額にはうっすら汗が浮き、指先が強張っている。胸元を押さえる手に、無意識の力がこもっていた。呼吸は浅く、唇の色が少し抜けている。


 ロルフはすぐにその傍へしゃがみこんだ。


「シオン、起きろ」


 肩へ手を置いた瞬間、ぞくりとした冷たさが掌へ這った。


 熱が奪われているわけじゃない。

 もっと中身に近いところ――体内に巡る毒の気配そのものが、薄く剥がされていくような感触だった。


「っ……」


 シオンの唇がかすかに動く。


 閉じた瞼の下で、眼球が激しく揺れていた。


「来るな……」


 夢を見ている。


 ロルフは夜半の白い野原を思い出した。顔のない白い影。何も言わず、ただシオンを掴んで引こうとするもの。あれが今、夢の中だけではなく、現実の地脈ごしに手を伸ばしてきているのだと、触れた瞬間にわかった。


「シオン、戻れ」


 いつもより少し強い声で呼ぶ。


 返事はない。


 焚き火の向こうでフィンがはっと顔を上げた。


「どうしたんですか」


「起こせない。……いや、違うな」


 ロルフの視線が、シオンの寝床の下へ落ちる。


 土の色が変わっていた。


 ほんの薄くだが、シオンの身体の下だけ、地面が白み始めている。霜ではない。夜露でもない。昼に見た祠の白い筋と同じ種類の、乾いて、色だけが抜けたような白さだった。


 フィンが飛び起き、地脈計を掴む。


「逆流が一点に集中してる! 待ってください、これ……シオンに向かってる!」


 その声で大司教とカッサンも目を覚ました。


「何が起きているのです」


「暴走じゃありません」


 フィンの声が裏返る。


「引かれてるんです! 体内の毒が、地脈側へ!」


 次の瞬間、シオンが大きく息を吸い込んで目を開けた。


 だがその呼吸は安堵のものではなく、溺れかけた人間が水面へ顔を出した時みたいな、切羽詰まったものだった。


「……旦那、様……っ」


「ここだ。しっかりしろ」


 ロルフが身体を支える。シオンは胸を押さえたまま、浅く何度も息を継いだ。


「違う……暴れて、ないです……」


「わかってる」


「中の毒が……抜かれてる……!」


 その言葉が落ちた瞬間、寝床の下の白みが一段濃くなった。


 土の上に細い線が走る。根のような、爪痕のような、白い筋だった。昼に見た祠のものより細いが、同じ気配を持っている。


 カッサンが木箱を脇へ置き、すぐに周囲へ簡易の護符を打った。淡い膜が野営地を包む。だが白い筋の進みは止まらない。


「外からの干渉です。結界を迂回して土の下から――」


「大司教!」


 ロルフが振り返る。


「昨日やったみたいに、流れを落ち着かせてください。強く押すな。シオンの中身まで乱れる」


「わかりました!」


 大司教は迷わず膝をつき、両手をシオンの寝床の左右へかざした。淡い光が地面へ染み込み、荒れた流れをなだめようとする。


 確かに効いている。白い筋の伸びが一瞬だけ鈍る。


 だが、それでも止まらない。


 ロルフはシオンの手首を掴み、目を閉じた。体内の巡りを探る。毒は増えていない。暴れてもいない。むしろ少しずつ“軽く”なっている。


 それが異様だった。


 毒を抱える者が楽になる軽さではない。根を張っていたものが引き抜かれていく、空洞の軽さだ。


「旦那様……っ、寒い……」


「寒いのは抜かれてるからだ。意識保て」


 ロルフは低く言い、右手を地面へ押し当てた。


「――変換」


 毒素等価交換を流し込む。


 いつもなら、シオンの毒を受けた瞬間に輪郭がわかる。荒れているのか、澱んでいるのか、別の形へ変えれば落ち着くのか。だが今は違った。こちらが触れたそばから、別方向へ引っ張られる。変換の前に、持っていかれる。


 ロルフの表情が厳しくなる。


「……厄介だな」


「止められませんか」


 フィンの声は珍しく切羽詰まっていた。


「止めるっていうか、こっちが掴みきれない。流れの途中で横取りされてる」


 シオンが小さく身を震わせる。苦しみは激しく暴れる類のものではない。だからこそ嫌らしかった。静かに、確実に、中身だけを剥がされていく。


「旦那様……あれ、が……」


 シオンの焦点が揺れる瞳が、盆地方向を向く。


「白い、影が……来る」


 その一言で、全員の背に寒気が走った。


 焚き火の向こう、斜面の下。尾根の向こうに広がる白い盆地の方角から、どくん、と重い鼓動が返る。まるで返事みたいだった。


 フィンが地脈計を見て息を呑む。


「本流が立ち上がってる……!」


 ロルフは即座に決断した。


「シオンを地面から離す」


「え?」


「接地してると引かれる。木板でも荷でも何でもいい、土から浮かせろ」


 カッサンが真っ先に動いた。荷箱を二つ、寝具の下へ差し込み、フィンも丸めた外套を詰める。大司教は光を保ったまま位置をずらし、地面との直接の接触を切る。


 わずかに、白い筋の伸びが鈍った。


「効いてる……!」


 フィンが叫ぶ。


 だが完全には止まらない。今度は土の上ではなく、空気そのものが薄く冷え始める。まるで引く手が、根だけでなく気配そのものを伸ばしてきたみたいだった。


 ロルフはシオンを抱え起こし、肩を支える。


「シオン、こっち見ろ」


 揺れる瞳が、どうにかロルフへ合う。


「今、何が見えてる」


「白い、野原……旦那様の声も、聞こえてます……でも、向こうも……」


「何て言ってる」


 シオンの喉が震えた。


「……返せ、って」


 その場の空気が凍る。


 返せ。

 それはまるで、シオンの中の毒が最初から“向こうのもの”だったとでも言うみたいな声だった。


 ロルフの目が細くなる。


「ふざけるなよ」


 低い声だった。


 怒鳴ったわけではない。だが、土を荒らされた庭師が見せる類の、静かな怒りがそこにあった。


「返すも何もないだろ。こいつの中で生きてきたものだ」


 ロルフは左腕でシオンを支えたまま、右手を地面へ叩きつけた。


「だったら、そこへ根を張らせるな」


 変換を、今度は土の側へ流す。


 シオンの毒を直接掴むのではなく、野営地の土そのものを“抜かれにくい状態”へ変える。乾いた地面へ腐葉土を混ぜるみたいに、痩せた層へ別の巡りを噛ませるやり方だ。


 白い筋がびくりと震えた。


 地面が一瞬だけ柔らかくなり、引き抜く力が滑る。


 フィンが目を見開く。


「弾いた……!」


「完全じゃない。でも噛み合いは崩せる」


 ロルフの額に汗が滲む。右腕の痺れがじわりと熱を持つ。無理な使い方だ。だが、今は気にしている場合じゃない。


 大司教もすぐに意図を汲んだらしい。癒しの光を土へ薄く広げ、流れの“居場所”を保つように支える。カッサンは護符をさらに打ち、フィンは逆流の向きを読み上げる。


「北東、少し右! 今、そっちから引いてます!」


「シオン」


 ロルフは肩を支えたまま、低く言った。


「自分の毒だって、もう一回思え」


 シオンの呼吸が乱れる。


「でも……」


「向こうに呼ばれても、お前が手放さなきゃ持っていけない」


 理屈だけの言葉じゃなかった。


 毒に意味を与え直してきたのは、ずっとそういう積み重ねだったからだ。役に立つからでも、恐ろしい力だからでもない。シオンの一部として、そこで生きてきたものだと認めること。それがなければ、変換だってここまで噛み合わなかった。


 シオンの指先が、ロルフの袖を掴む。


 弱々しい動きだったが、確かな意志があった。


「……僕の、もの」


「そうだ」


「僕の、毒……」


「そうだよ」


 次の瞬間、シオンの周囲に漂っていた薄い黒紫の気配が、ふっと震えた。


 引かれるだけだった流れが、一瞬だけ踏みとどまる。


 その隙を逃さず、ロルフが地面へ流していた変換をさらに深く打ち込んだ。大司教の光が重なり、白い筋が土の下へずるりと引き戻される。


 どくん、と。

 尾根の向こうから返ってきた鼓動が、今度は怒ったみたいに重かった。


 だが、野営地の白みはそれ以上濃くならない。


 引き抜く力が、ひとまず止まったのだ。


 長い数十秒だった。


 気づけば誰もが息を止めていたらしい。フィンがへたり込み、カッサンが護符を握ったまま肩で息をする。大司教の額にも汗が浮いていた。


 ロルフはようやく少しだけ力を抜き、シオンの額へ手を当てた。まだ冷たい。だが、さっきの空洞みたいな軽さは少し戻っている。


「……どうだ」


 シオンは目を閉じ、息を整えてから答えた。


「まだ、呼ばれてます。でも……さっきみたいに、持っていかれる感じじゃないです」


「なら上等だ」


 ロルフはそう言って、ようやく背筋を伸ばした。


 完全に防げたわけじゃない。向こうが本気を出せば、また来るだろう。けれど今のでわかったことも多い。


 白いものは、ただ奪うだけじゃない。

 シオンの毒を“自分のもの”として回収しようとしている。

 そして、土を介してなら、こちらもある程度は干渉をずらせる。


 フィンが震える声で言った。


「今の……本流が一度、明確にこっちへ手を伸ばしました。もう隠れてる段階じゃない」


「だろうな」


 ロルフは盆地方向を見た。


 夜の白さは、相変わらず尾根の向こうに沈んでいる。だが今は、ただ不気味な景色というより、そこに確かな意志があるのがわかった。


 大司教が低く呟く。


「統合に向かう流れを止めるために……シオン様を」


「回収しようとしてるんでしょうね」


 ロルフはあっさり言った。


「向こうから見れば、シオンは切り離した側そのものだ。しかも僕の近くにいて、変換されながら巡ってる。そりゃ邪魔でしょう」


 カッサンの顔が硬くなる。


「では、明日は」


「行きますよ」


 ロルフは迷わなかった。


「向こうがここまで手を伸ばしてくるなら、こっちも根元まで行くしかない」


 夜風が斜面を抜ける。


 焚き火は小さくなっていたが、誰も今すぐ眠れる顔ではなかった。


 それでもロルフは、寝床の位置をもう一度組み直し、シオンを土から少し浮かせたまま休ませる準備をした。完全に眠れなくても、身体を横たえるだけで違う。畑だって、休ませない土は持たない。


「シオン」


 ロルフが声をかけると、シオンはかすかに顔を上げた。


「はい、旦那様」


「今夜はもう無理に起きてなくていい。僕が見る」


「でも……」


「でもじゃない。明日、お前が倒れてたら意味ないだろ」


 シオンは少しだけ迷ってから、静かに頷いた。


「……わかりました」


 その返事を確認して、ロルフは焚き火のそばへ戻る。


 尾根の向こうの白い盆地は、相変わらず眠っているようで眠っていない。土の下では、もう一つの鼓動がゆっくりと間を計っている。


 今夜はこちらの根を引き抜き損ねた。


 なら次は、もっと深く、もっと確かに手を伸ばしてくるだろう。


 ロルフは火の先を見つめながら、鍬の柄へ手を置いた。


 畑荒らしが根まで届いているなら、掘り返して確かめるしかない。


 庭師の仕事は、明日からさらに面倒になる。


 だが、それでいいとロルフは思った。


 土の下で何が息をしているのか。

 何を切り離し、何を奪い、何を恐れているのか。


 そこまで辿り着ければ、手の打ちようはある。


 夜の終わりを待つあいだ、白い盆地の鼓動は二度、三度と遠く鳴った。


 まるで次は逃がさないとでも言うみたいに。

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