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逆流は、白い根をのばす

果樹園の朝は、思っていたより静かだった。


夜のあいだ中、あれだけ落ち着かない気配が土の下を走っていたのに、空の色が白み始める頃には、風も葉擦れも妙におとなしい。井戸端に吊るされた桶が、かすかに揺れて鳴る音だけが、まだ夜の名残を引きずっていた。


ロルフは誰より先に目を覚ました。


休憩所の戸を開けて外へ出ると、ひんやりした朝の空気が頬に触れる。果樹園の木々は薄明かりの中でじっと立っていた。白く抜けかけていた果実も、昨日見た時よりわずかに色を取り戻している。まだ本調子じゃない。だが、少なくともこれ以上一方的に奪われ続けている感じはなかった。


ロルフは一番手前の木へ歩み寄り、枝先の実をひとつもいだ。軽く指で押して張りを確かめ、皮を裂いて匂いを嗅ぐ。


「……うん」


まだ薄い。それでも、昨日の水みたいな実とは違う。ちゃんと果実の匂いがする。甘さの芯が、ほんのわずか戻ってきていた。


しゃがみこんで根元の土へ触れる。夜露で湿った表土の下には、昨日整えた支流のぬくもりがかすかに残っていた。完全に治ったわけじゃないが、根が怯えきってはいない。今なら持ち直せる。


「起きるのが早いですね、旦那様」


振り向くと、休憩所の戸口にシオンが立っていた。白い外套の裾を押さえたまま、まだ寝起きの気配を少しだけ残している。けれど顔色は、昨夜よりましだった。


ロルフは立ち上がって、何気ない顔でそちらを見る。


「お前こそ。もう少し寝ててもよかったのに」


「寝直すには、少し目が覚めすぎました」


「夢、また見たか」


そう聞くと、シオンは一瞬だけ目を伏せた。だが、すぐに小さく頷く。


「少しだけ。でも昨夜ほどはっきりじゃありませんでした。遠くで呼ばれてる感じは、まだあります」


「なら悪化はしてないな」


ロルフがそう言うと、シオンは少し不思議そうな顔をした。


「それでわかるんですか」


「昨日の夢は、だいぶ近かった。今朝の顔はそこまでひどくない」


言いながらロルフはシオンの手を取った。冷たさを確かめるみたいな、ごく自然な動きだった。シオンももう驚かない。ただ少し肩の力を抜く。


「……今日は、昨日より温かいな」


「旦那様、毎回そうやってわかるの、やっぱり変です」


「土も人も、毎日触ってたらわかるよ」


「それを普通は変と言うんです」


横合いからそんな声が飛んできた。


フィンだった。髪を寝癖のままにして、あくびを噛み殺しながら地脈計を抱えている。言うだけ言ってから、彼は果樹園へ目を向け、ふっと顔つきを改めた。


「でも、昨日より流れはましですね。応急処置なのに、ちゃんと支流が戻ってる」


「戻らないと困る」


「そういう問題じゃないんですよ。普通、こんな短時間で地脈のよじれを手作業みたいに直しませんから」


「手作業みたいじゃなくて手作業だろ」


ロルフが当たり前のように返すと、フィンは諦めた顔で笑った。


やがて大司教とカッサンも外へ出てきた。大司教の長衣には昨日の土汚れがまだ残っていたが、本人はもう気にしていないらしい。むしろ自分から果樹へ近づき、白みの抜けた実を見て静かに息を吐いた。


「……本当に、持ち直しているのですね」


「まだ途中ですけどね」


ロルフは枝先の実を一つ渡した。


「食べてみてください」


大司教は一瞬ためらったものの、受け取って口にした。わずかな沈黙のあと、その眉がかすかに動く。


「甘い」


「昨日よりは、です」


「それでも……消えたものが、戻るのですね」


その言葉に、ロルフは少しだけ首を傾げた。


「戻るものもあるし、戻らないものもありますよ。でも、根っこが生きてるなら、次を育てることはできる」


大司教は実の欠片を見つめたまま、何も言わなかった。たぶん、その言葉を果樹のことだけとして聞いてはいないのだろう。ロルフもそれ以上は続けなかった。


朝食を終えるころには、果樹園の管理人もすっかり元気を取り戻していた。昨夜の礼だと言って、小さな籠を抱えてくる。中には、白みの進行が止まった果実と、まだ食べられる干し果実が入っていた。


「道中の足しにしておくれ。あんたたちが来なきゃ、この園は本当に終わってた」


「ありがたくもらいます」


ロルフが受け取ると、女は今度はシオンの方を見た。


「そっちの綺麗なお兄さんも、昨夜ひどい顔してたのに、少しましになったねえ」


その率直な言い方に、シオンが少しだけ困ったように瞬く。フィンが吹き出しそうになるのをこらえ、カッサンは真面目な顔のまま視線を逸らした。


「まだ途中ですけど」


シオンがそう答えると、女は大きく頷いた。


「途中で十分さ。全部一度に元通りなんて、畑だって無理だろう?」


それはたぶん、ロルフの言葉をそのまま覚えたのだろう。ロルフは少しだけ口元を緩めた。


出発の支度を整え、一行は再び街道へ出た。


果樹園を離れてしばらくは、昨日と同じように乾いた草地が続いた。だが、半刻も進まないうちに景色が変わり始める。草の丈はあるのに、色だけが妙に薄い。朝露が乗っているはずなのに、光の弾み方が鈍い。鳥の声も少ない。生き物がいないわけではないのに、どこか全体が遠慮しているみたいな沈黙が土地に広がっていた。


ロルフはしゃがみ、草の根元の土をひとつまみ掬う。


「……上まで来てるな」


昨日までの異常は、白い土や白い果実みたいに、目に見える場所だけだった。だが今は違う。地表の草にまで、じわじわ色抜けが回ってきている。


フィンも地脈計を見て顔をしかめた。


「本流に近づいてます。しかも逆流の幅が広い。ただ一点から引いてるというより、何本も細い流れが枝分かれしてるみたいだ」


「細い流れ……」


シオンが小さく繰り返す。


「昨日の果樹園も、その一本だったんですね」


「たぶんな」


ロルフは立ち上がり、前方の緩やかな起伏を見る。


「根っこから直接吸ってるんじゃない。途中の支流に手を伸ばして、あちこちから少しずつ抜いてる」


大司教が歩きながら問う。


「それは……教団が、毒を切り離したことと似ているのでしょうか」


誰もすぐには答えなかった。


風が草を撫でる。白みの差した葉先が、かすかに擦れて鳴った。


やがてロルフが口を開く。


「似てますよ」


口調は淡々としていた。


「必要なものを丸ごと受け止めずに、嫌な部分だけ切り離して、別の場所へ押しつける。そうやってその場だけ整えても、流れは痩せる」


大司教は前を向いたまま、静かに息を吐く。


「……我々はずっと、正しいことをしているつもりでした」


「畑を知らない人ほど、そう言うんですよね」


ロルフは土を払うような声音で言った。


「雑草を全部抜けば綺麗だって思って、地面まで掘り返す。虫がついたからって薬を撒きすぎて、土ごと弱らせる。見た目が整ったから成功だって勘違いする。でも、根っこは騙せない」


大司教は何も返さなかった。返せないのだろう。フィンも、カッサンも、ただ黙って歩いた。


正午を少し過ぎた頃、一行は古びた石の祠に出た。


昔は旅人が水を供えていたのだろう。街道脇の低い丘の上に、小さな社のようなものがあり、その前に平たい石床が埋まっている。今は屋根も半ば崩れ、祭られていたものが何かもわからない。ただ、地脈の節目に建てられた場所だということだけは、ロルフにもわかった。


なぜなら、その祠の周囲だけ、土の色が露骨に白かったからだ。


「これは……」


カッサンが息を呑む。


ただ白いだけではない。地表に細い筋が何本も浮いていた。根のような、ひびのような、曖昧な白い線が石床の下から這い出し、祠の周囲へ伸びている。草はまだ枯れていないが、筋に触れた部分だけ色を抜かれ、朝霜を被ったみたいに鈍く光っていた。


シオンの顔色が変わる。


「旦那様」


「ああ、わかってる」


ロルフは一歩前へ出て、鍬の柄で白い筋のそばの土を軽く叩いた。乾いた音が返る。表面は脆い。だがその下に、妙に締まった冷たさがあった。


まるで生きた根だ。


フィンが震える針を押さえながら言う。


「逆流が地表近くに浮いてきてる。いや……流れというより、形を持ち始めてる?」


「根っこが顔出してるんだろ」


ロルフはそう言ってしゃがみこんだ。白い筋の一本へ指先を近づける。触れる寸前、ひやりとした空気が皮膚を撫でた。生き物に触れる時の警戒に似た感覚だった。


シオンが一歩近づき、胸元を押さえる。


「これ……同じです。夢の中で、僕を掴んでいた手の気配と」


その言葉に、その場の空気が張った。


夢の白い影が、ただの幻じゃなくなっていく。地脈の逆流として、白い土として、白い果実として、そして今、白い根のような筋となって目の前へ出てきている。


大司教が低く呟いた。


「名を与えてはならない……」


カッサンが木箱を抱え直し、険しい顔で白い筋を見下ろす。


「意思を持たせないため、ですね」


「でももう十分、勝手に動いてるじゃないですか」


フィンの声は軽く聞こえたが、表情は笑っていなかった。


ロルフは祠のまわりをぐるりと見た。白い筋は一本じゃない。三本、四本、いやもっとある。細いものほど見えにくく、草の影へ紛れて遠くまで伸びている。これが全部、根源の大地から差し込まれた“手”なら、果樹園みたいな被害が各地で出ていてもおかしくなかった。


「旦那様、これ……切ったほうがいいでしょうか」


シオンの問いに、ロルフはすぐには答えなかった。


鍬を持ち直し、白い筋の流れを目で追う。切れば、一時的にはここへの侵食を止められるかもしれない。だが、根の途中だけ断っても、別のところから回り込まれたら終わりだ。むしろ、何も確かめずに叩くのは危ない。


「いや、まだ切らない」


「危険では」


「危険だよ。でも、ただ切るだけじゃ本流が見えなくなる。こいつがどっちへどう伸びてるか、もう少し見たい」


ロルフは管理人からもらった籠を開け、中から昨夜の白っぽい果実をひとつ取り出した。応急処置で少し持ち直したが、完全には戻りきらなかった実だ。


大司教が眉を寄せる。


「それを、どうするのです」


「餌ですよ」


ロルフはごく普通に言った。


「食われたものには、食われたものを近づけるのが早い」


フィンが目を瞬かせる。


「……たまに、ものすごく乱暴な理屈で正解を引きますよね」


「理屈は乱暴じゃないだろ。畑荒らすやつを見つける時も、好きなもので釣るのは普通だ」


「普通かなあ……」


ロルフは白い筋の交点になっている場所へ小さく穴を掘り、果実を割って埋めた。次に指先を土へ差し込み、ごく薄く毒素等価交換を流す。果実に残っていた“抜かれた実り”の名残が、熱のない光として土の中へ滲んだ。


しばらく何も起こらない。


風が止まり、草の擦れる音も遠のいた。


その次の瞬間だった。


白い筋の一本が、ぴくりと震えた。


生き物のように大きく動いたわけじゃない。ただ、土の下の何かが埋めた果実へ気づいたみたいに、わずかに脈を打っただけだ。だがそれで十分だった。


「……そっちか」


ロルフの視線が、一番太い筋の先を追う。


北東だ。やはり根源の大地の方へ、白い筋は収束している。しかも一本じゃない。祠の周囲から浮き出ていた筋の大半が、最終的には同じ方角へ吸われていた。


シオンがぎゅっと唇を噛む。


「来ます」


言うのと同時に、胸元を押さえて膝が揺れた。ロルフがすぐに腕を支える。


「無理すんな」


「すみません……でも、今……向こうも、こっちに気づきました」


その言葉を裏打ちするように、地の下でずん、と重い脈動が返った。


祠の石床が低く軋む。白い筋が一斉に明滅したように見えたのは、気のせいではないだろう。


フィンが青ざめる。


「まずい、観測されてる……いや、こっちが観測したから返ってきたのか?」


「どっちでもいい」


ロルフはシオンを支えたまま立ち上がった。


「要は、もう隠れてくれる段階じゃないってことだ」


大司教が白い筋を見つめ、低い声で言った。


「これほど広く手を伸ばしているとは……」


「根を張るのが上手いんでしょうね。土の下で、見えないまま広がるのは厄介です」


ロルフはそう答えたが、口調は落ち着いていた。驚いてはいる。だが、怖じてはいない。畑を長く見ていれば、厄介なものほど最初は見えないと知っているからだ。問題は派手さじゃない。どこから入って、どこへ抜けているか。それを見誤らなければ、対処の仕方はいくらでもある。


「今日はここから先、どこまで行くんですか」


カッサンの問いに、ロルフは祠の向こうの稜線を見た。


「日が落ちる前に、あの尾根までは越えたい」


「その先に何が?」


「たぶん、見える」


何がとは言わなかった。だが皆、似たようなものを思い浮かべていた。


出発してからの道はさらに荒れた。白い筋は地表へ出たり消えたりを繰り返し、時折、岩の割れ目や乾いた水路の底にも細く走っていた。草はまだ生きているのに、群れ全体が色を失いかけている。小動物の気配も薄い。まるで土地そのものが、息を潜めて何かをやり過ごそうとしているみたいだった。


シオンは無駄口をきかず、ただ歩き続けた。ロルフも必要以上に話しかけない。横目で見る限り、足取りは乱れていない。だが、引かれる感覚は強くなっているのだろう。時折、胸元へ触れる指先に力がこもる。


夕方が近づくころ、ようやく一行は低い尾根へ辿り着いた。


最後の斜面を登り切った瞬間、フィンが息を止める。


「……うわ」


その一言で十分だった。


尾根の向こうには、広い盆地が横たわっていた。


本来なら草原だったはずのその土地には、無数の白い線が走っている。細いもの、太いもの、幾重にも枝分かれしたもの。それらがまるで巨大な根の網のように地表へ浮かび上がり、盆地の中央へ中央へと集まっていた。


中心まではまだ距離がある。だが、そこだけ土の色がまるごと抜け落ちたみたいに白い。霧でも煙でもない、もっと乾いて、もっと静かな白さだった。


シオンの喉が小さく鳴る。


「……あそこです」


声は細いのに、はっきりしていた。


「僕を呼んでるのは」


ロルフは盆地全体を見下ろしたまま、鍬の柄を握り直す。


白い筋は一本一本が支流だった。果樹園の実りを奪ったものも、祠の下へ伸びていたものも、全部ここへ繋がっている。根源の大地へ向かう前に、すでにその前庭みたいな場所が口を開けていたのだ。


その時、地の下から重い鼓動が一つ、尾根の上まで響いてきた。


どくん、と。


自然の脈じゃない。大地の呼吸でもない。

 もっと大きくて、もっと不揃いな、別の心臓の音だった。


カッサンが思わず木箱を抱きしめる。


「まるで……」


「もう一つ、心臓があるみたいだろ」


ロルフが言った。


朝、いやもっと前から感じていた拍動が、ようやく形になる。健康な土にはない鼓動。大地の下に別の生き物がいるみたいな、あの感覚の正体が、今ははっきりわかった気がした。


シオンがふらつく。ロルフが肩を支えると、シオンは苦しげに息を吐いた。


「旦那様……近いです」


「ああ」


「すごく、近い」


「今日はここまでだ。これ以上踏み込むのは、夜じゃよくない」


フィンが驚いたように振り返る。


「ここで止まるんですか?」


「止まるよ。向こうはもう起きてる。暗い中で知らない根っこ踏みに行くほど、僕は無茶しない」


それは臆したというより、順番を守る声音だった。畑でも同じだ。夜露の残るうちに無理やり土を返せば、余計に傷むことがある。踏み込む時は踏み込む。だが、その前に整えることは整えておく。


大司教も、やがて頷いた。


「……そうですね。今は、こちらが地を読むべき時だ」


「ええ。向こうに読まれてるだけじゃ面白くないですから」


ロルフは視線を盆地の中央から外さないまま答えた。


白い筋は夕暮れの光を受けて、まるで土の上に剥き出しになった血管みたいに淡く浮いている。その先で待っているものが、魔物なのか、神の裂け目なのか、それとももっと別の何かなのかは、まだわからない。


ただ一つ言えるのは、それが世界の実りを少しずつ奪いながら、ここで脈を打っているということだった。


風が吹いた。


尾根の草が一斉に揺れ、その下で白い筋がかすかに脈動する。


まるで、こちらを歓迎しているみたいに。


ロルフは目を細めた。


「……明日だな」


その声は低く、静かだった。


シオンはまだロルフの腕に支えられたまま、小さく頷く。


「はい、旦那様」


日が沈み始める。盆地の白さが、夕焼けの赤を吸わずにただ白いまま残っているのが、ひどく不吉だった。


一行は尾根の手前へ引き返し、野営の準備を始める。


だが、誰も本当に休めるとは思っていなかった。


土の下では、もう一つの鼓動が、夜を待つようにゆっくり鳴っていた。

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