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白い果実は、甘さを失う

 大司教とカッサンが加わってから、旅の速度は少しだけ落ちた。


 人数が増えれば歩幅を合わせる必要があるし、地脈に乗る感覚は、慣れた者とそうでない者でかなり差が出る。流れに身を任せるだけで進めるようになるまでは、足を出すたびに妙な力みが混ざるのだ。


 もっとも、それで文句を言う者はいなかった。


 大司教は口数少なく前を向き、カッサンは封印書庫から持ち出した木箱を抱えたまま黙々とついてくる。フィンだけは時折ため息をつきながらも、地脈計の針から目を離さなかった。軽口を叩く余裕はあるが、気の抜けた顔はしていない。


 そしてシオンは、朝よりもいっそう静かだった。


 顔色は悪くない。熱もなければ足取りも乱れていない。けれど、時折ふっと視線が遠くなる。胸元へ手を当てる仕草が増えていた。体の中の毒が、どこか遠くから見えない糸で引かれている――そんな感覚が続いているのだろう。


 ロルフは何も言わなかった。


 畑でも、人でも、具合の悪さは必ずしも大げさに顔へ出るわけじゃない。葉先がほんのわずかに垂れるだけで、水不足だとわかる作物もある。根元の土を踏んだ時の沈み方一つで、地下が傷んでいると知れることもある。


 ロルフはそういうものを見る目で、シオンを見ていた。


 呼吸の深さ。歩幅の微妙な揺れ。指先の温度。どれも小さな変化だったが、見逃すほど鈍くもない。


 やがて、ロルフは足を止めた。


 前方から、かすかに甘い匂いが流れてくる。


「……果樹か」


 ぽつりと呟くと、フィンが振り返った。


「え、わかるんですか?」


「風に混じってる。熟れた匂いじゃないな。少し抜けた感じだけど」


「抜けた感じって、匂いにそういうのあります?」


「あるよ。健康な実り方してる時の甘さじゃない」


 シオンがそっと鼻先を上げる。言われてみれば、確かに土と草の匂いの奥に、果実の香りが薄く混ざっていた。ただ、それは腹を鳴らすような濃い甘さではない。何か大事な芯だけを失って、表面に残った香りだけが漂っているような妙な匂いだった。


 街道はやがて緩やかに下り、その先に低い柵と小さな果樹園が見えてきた。


 旅人向けの休憩所を兼ねた中継地らしい。井戸小屋と物置、簡素な東屋があり、整えられた木々が数十本ほど並んでいる。遠目に見れば穏やかな景色だった。


 だが近づいた瞬間、その異常は誰の目にもわかった。


 果実の色が、おかしい。


 赤いはずのものは白っぽくかすみ、黄色いはずのものは粉を吹いたように艶を失っている。腐ってはいない。落ちてもいない。むしろ形はよく整っている。だからこそ不気味だった。


 見た目だけを残して、中身を抜かれたような果実。


「ひどいな」


 ロルフが低く言った。


 手近な枝から一つ実をもぎ、手の中で重さを確かめる。軽い。熟れ頃の実が持つ、じっとりと詰まった感じがない。皮を割って匂いを嗅いでも、香りはひどく薄かった。


 ひとかけ口に入れる。


 甘くないわけじゃない。だが舌へ乗った瞬間に消える。果実の味ではなく、果実だったものの記憶だけが残っているみたいだった。


「……甘さがない」


 その時、果樹園の奥から年配の女が慌てて駆け寄ってきた。


「あんたたち、勝手に触らないでおくれよ!」


 日焼けした腕、土に汚れた裾、働き慣れた者の足取り。果樹園の管理をしている女なのだろう。ロルフは実を持ったまま軽く頭を下げた。


「悪い。見たところ、妙な出方だったから」


「妙なんてもんじゃないよ……」


 女は木々を振り返り、悔しそうに顔を歪めた。


「昨日の朝までは普通だったんだ。昼過ぎから急に香りが飛び始めて、夕方にはこんなだよ。見た目だけは立派なのに、噛んでも水みたいでさ。鳥も虫も寄りつきやしない」


 フィンがすぐに地脈計を向ける。針が小刻みに震え、園の奥へ向けてぶれる。


「やっぱり……ここ、支流の節目に当たってる。逆流の余波が上まで来てます」


 ロルフは木の根元へしゃがみ込み、土を掘った。表面は普通だ。少し湿り気もある。だが、数寸ほど下で感触が急に変わる。冷えていて、妙に軽い。土の中から栄養が失われたというより、根が吸い上げたものを途中で横取りされた後の空っぽさだった。


 シオンがその隣へ膝をつき、白っぽくなった実へそっと指先を触れる。


 次の瞬間、その肩がわずかに震えた。


「……似ています」


「何にだ」


「僕の中の毒を引いているものと、です。これは腐ったんじゃない。引き抜かれてる」


 管理人の女が息を呑む。


「引き抜かれてるって、何をだい」


 ロルフは実を見つめたまま答えた。


「甘さだけじゃない。魔力も、養分も、実りそのものだ」


 女は木の幹へ手をつき、呆然とした顔になった。


「実りそのもの、って……そんなものまで奪われるのかい」


「上からじゃない。下からです」


 ロルフは立ち上がり、足元を軽く踏んだ。


「地脈の流れがここで一度抜かれてる。根っこが吸い上げたものを、途中で横から持っていかれてるんだ」


 大司教が険しい顔で果樹を見上げた。


「浄化の術で焼けば、止まるでしょうか」


 ロルフは即座に首を振った。


「やめてください。木はまだ生きてる」


「しかし、この異常は――」


「異常だからって、すぐ焼くのはよくない。熱があるから畑ごと掘り返すようなもんです」


 その言葉に、大司教は口をつぐんだ。


 ロルフは気にせず、果樹園の木を一本ずつ見て回った。枝ぶり、葉の厚み、幹の張り、根元の土。見れば見るほど被害の出方が均一すぎる。病や虫なら、木ごとにばらつきがある。水の偏りでもここまで一斉には出ない。


 これはもっと下の問題だ。土の奥で、流れそのものがいじられている。


「フィン、この園の下を走ってる支流、どこで本流に触れてる」


「少し待ってください」


 フィンは地図板と計器を見比べ、園の奥にある低い丘を指差した。


「北側です。井戸の裏を抜けて、あの石床の下で一度本流と交差してる」


「じゃあそこだな」


 ロルフの目が細くなる。


「吸い上げた実りが途中で抜かれてるなら、口を突っ込まれてるのはそのあたりだ」


 管理人の女が縋るように尋ねた。


「戻せるのかい」


「全部は無理です。もう傷んだ実は戻らない。でも、これ以上抜かれないようにはできる。軽い木なら、次の実りに間に合う」


 女の顔に、かすかな光が差した。


「何をすればいい」


「鍬か鋤、あるだけ貸してください。水桶も。あと、味の抜けた果実は捨てないで集めておいて」


「わかった!」


 女はすぐに走った。カッサンも無言で後に続く。教団の補佐官とは思えない動きの速さに、フィンが少しだけ目を丸くした。


 ロルフはシオンを見る。


「立てるか」


「はい」


「無理ならすぐ言えよ」


「大丈夫です。……ここでじっとしてるほうが、たぶんつらいです」


 ロルフは短く頷いた。


「じゃあ手伝ってくれ。お前にしかわからない流れがある」


「はい、旦那様」


 ためらいのない返事だった。


 大司教が一歩進み出る。


「私にできることはありますか」


「ありますよ」


 ロルフはあっさり答えた。


「“癒し”の側の力、まだ残ってるんでしょう。だったら流れを鎮めるのを手伝ってください。治すんじゃない。根が怖がらない程度に落ち着かせるだけでいい」


 大司教は目を見開いた。もっと糾弾されるか、役に立たないと切り捨てられると思っていたのかもしれない。だがロルフにとって、土を前にした人間の役割は単純だった。使える手は使う。それだけだ。


 井戸の裏手に回ると、古い石組みが半ば土に埋もれていた。昔は用水の切り替えにも使われていたのだろう。今は苔むして、誰にも顧みられなくなっている。


「やっぱりここか」


 ロルフが石の隙間へ手を差し入れる。ぞくりとする冷たさが指先を這った。流れがここで一度ねじれている。自然な曲がり方じゃない。何かに引かれ、引きちぎられそうになりながら、それでもまだ元の道を覚えている流れだった。


「フィン、印つけてくれ」


「はい。……うわ、本当にここだけ逆向きの圧が強い」


「シオン、触れられるか」


 シオンは頷き、ロルフの隣へ膝をついた。石へそっと手を当てる。その瞬間、顔が強張る。


「……います。遠いですけど、同じものの気配が」


「どっちへ引いてる」


「北東……根源の大地の方です」


「だろうな」


 ロルフは鍬を握り直した。


「まずはここをほぐす」


 石床の脇へ鍬を打ち込む。固く見えた土は、思ったより脆かった。中身だけを抜かれた殻のようで、二打、三打と入れるたびに乾いた息を吐くような音がした。


 管理人の女が鋤を持って戻り、カッサンが水桶を運ぶ。大司教は法衣の裾を気にせず膝をついた。フィンは計測器を見つめ、シオンは引かれる流れを読む。ロルフはその中心で、土を割り、流れの向きを探った。


 派手な戦いとは程遠い。


 だが、こういう時こそロルフの手は迷わない。


「大司教、そこに手を」


「ここでよいのですか」


「もう少し低く。押しつけるんじゃなくて、支える感じで」


 大司教が戸惑いながら手をかざすと、淡い光が石床の周囲を包んだ。強引に浄化する光ではない。荒れた流れを刺激しないよう、ごく薄く呼吸を整えるような光だった。


「シオン」


「はい」


「少しだけ流してみろ。無理はするな」


 シオンは目を閉じ、自分の中の毒をほんのわずか解いた。黒紫の気配が糸のように細く落ち、石の裂け目へ染み込んでいく。本来なら土を蝕むはずの毒が、この場では逆に道しるべになった。どこで流れが奪われているのか、その輪郭がはっきりと浮かび上がる。


 その瞬間を逃さず、ロルフが鍬を打つ。


「――変換」


 低い声が落ちた。


 石床の下で絡まっていた流れが、わずかにほどける。


 抜かれかけていた実りの名残が、細い光となって根の方へ戻っていく。大きな変化ではない。劇的でもない。だが、枯れかけた畝に最初の水が届いた時のような、確かな手応えがあった。


 フィンが息を呑む。


「戻った……支流が、少し戻ってる!」


 管理人の女が慌てて近くの木へ駆け寄り、ひとつ実をもいで割った。鼻先へ持っていき、目を見開く。


「……香る」


 震える声だった。


「まだ薄いけど、さっきより戻ってるよ……!」


 ロルフは鍬を地面へ立て、息を吐いた。


「応急処置です。今夜のうちに全部元通りにはならない。でも、これ以上抜かれるのは防げる」


 女は何度も頷き、目尻を拭った。


「十分だよ。十分すぎる……!」


 夕方までかけて、ロルフたちは園の支流を三か所ほど整えた。被害の軽い木には少しずつ香りが戻り、重いものでも白さの進行は止まった。


 日が傾く頃には、全員の服が土と汗でひどい有様になっていた。大司教の長衣など、もはや神職の装束というより畑仕事に巻き込まれた地主のそれだった。


 井戸端で手を洗いながら、フィンがぽつりと呟く。


「……本当に、焼かなくてよかったですね」


 ロルフは水を払って髪をかきあげた。


「当たり前だろ。枯れてない木まで焼いてたら、ただの八つ当たりだ」


「でも、普通はこういう異変を見ると強い術で一気に消したくなるんですよ」


「“消す”のが先に来るのは、土を見てないからだ」


 それを受けて、静かに口を開いたのはシオンだった。


「旦那様は、いつもそうです」


 穏やかな声だった。けれどそこには、はっきりとした信頼があった。


「悪いものを見つけても、最初から捨てようとはしない。ちゃんと見て、触って、何が苦しいのかを探るんです」


 その言葉に、大司教は返す言葉を持たなかった。白くなりかけた果樹を見つめる横顔には、疲労と、それ以上に長く見誤ってきたものへの痛みがあった。


 夜になると、管理人の厚意で休憩所を借りることになった。


 温かいスープと硬いパン、それから少しだけ甘みの戻った果実が並ぶ。ひとかけ口にしたシオンは、驚いたように目を瞬かせた。


「……甘いです」


「薄いけどな」


 ロルフが言うと、管理人の女は泣き笑いのような顔で頷いた。


「その“薄い”が戻ってきたのが嬉しいんだよ」


 食事を終え、皆がそれぞれ休みに入る頃には、外はすっかり暗くなっていた。風が果樹の葉を揺らし、かすかな擦れ音が続いている。昼間より静かなはずなのに、地の下の流れだけは落ち着かない。


 ロルフは壁にもたれ、目を閉じた。


 眠るつもりはない。土を深く触った日の夜は、手のひらに感触が残る。今日は特にそうだった。石床の下で、確かに何かがこちらを意識した。あれはただの歪みではない。もっと輪郭のあるものだ。


 不意に、寝台の軋む音がした。


 ロルフが目を開ける。少し離れたところで、シオンが身を強張らせていた。呼吸が浅い。額には汗が滲み、指先が何かを拒むように震えている。


「シオン」


 呼びかけても返事はない。


 眠っている。だが、ただの眠りじゃない。


 ロルフはすぐに立ち上がり、シオンの肩へ手を置いた。その瞬間、シオンの体がびくりと跳ねる。


「っ……!」


 目は閉じたままなのに、唇だけがかすかに震えた。


「来るな……」


 夢を見ているのだとわかった。


 白い野原。


 どこまでも白く、土なのか霧なのかも曖昧な足元。その中に、顔のない白い影が立っている。


 影は何も言わない。


 ただ静かに、シオンの腕を掴み、こちらへ引こうとする。


 優しさではない。怒りでもない。

 もっと空っぽで、もっと強い本能のようなもの。


 ――来い。


 声ではないのに、そう聞こえる。


 ――お前の毒は、私のものだ。


 寝台の上で、シオンの指先が強く震えた。


 ロルフはその肩を支えたまま、低く呼ぶ。


「シオン、戻れ」


 返事はない。


「そっち行くな」


 手のひらへ、ひやりとした感触が移る。夢の中だけじゃない。シオンの中の毒が、本当にどこかへ引かれかけている。


 ロルフは少し強く肩を揺すった。


「シオン」


 次の瞬間、シオンがはっと息を吸い込んで目を開けた。


 揺れる瞳が、しばらく現実と夢の境目を探る。それからようやくロルフを見つけ、浅い呼吸のまま唇を開いた。


「……旦那様」


「ああ。ここだ」


 その声に、フィンも大司教も目を覚ましたらしい。だが誰もすぐには口を挟まない。


 シオンは胸元を押さえながら、まだ夢の冷たさを引きずる声で言った。


「また、あの白い場所でした」


 ロルフは黙って続きを待つ。


「顔のない影がいて……僕を引いていくんです。毒を、そのまま奪おうとしてる。変えようとも、受け止めようともせずに」


 白い果実が脳裏に重なる。


 甘さだけを抜かれた実り。中身を空にする白さ。

 シオンの夢の中のそれも、同じだった。


 育てるためではなく、巡らせるためでもなく、ただ切り離したままで奪うもの。


 外で果樹の葉が鳴った。

 その擦れ音に混じって、地の底からごく小さな脈動が返ってくる。


 こちらが近づくたび、向こうもまた近づいている。


 ロルフはシオンの肩から手を離さず、低く言った。


「明日、もっと近くまで行く」


 シオンは呼吸を整えながら、小さく頷いた。


「はい」


「引かれるなら、引いてるやつを見つけるしかない」


 脅しでも励ましでもない。ただの事実だった。


 庭師の仕事は、根を掘り当てるところから始まる。土の下で流れを奪っているものがあるなら、その手元まで行くしかない。実りを空にし、毒をそのまま奪おうとする白い何かが相手でも、それは変わらない。


 夜は深い。だが、もう静かではなかった。


 果樹園の奥、整えたはずの石床のさらに向こうで、別の鼓動がゆっくりと目を覚ましている。


 まるで、彼らがここまで来たことを知っているみたいに。

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