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大司教は、土の前に膝をつく

 地脈に乗る旅は、馬車とも徒歩とも違った。


 足を前に出している感覚は確かにあるのに、進み方はどこか水の流れに似ている。見えない川の上を歩いているような、不思議な移動だった。慣れない者なら酔いそうだとフィンは言っていたが、ロルフにとって問題はそこではなかった。


 問題なのは、流れの質だ。


 豊村を出た時からずっと、足裏の奥に伝わる地脈の鼓動がおかしい。大地が本来持っている緩やかな呼吸のような脈ではなく、誰かに胸ぐらを掴まれ、無理やり速さを変えられているような苦しげな拍動だった。


 ロルフはまた足を止め、街道脇の土にしゃがみこんだ。


 指先で土をすくい、軽くほぐす。見た目は悪くない。色も粒も、ぱっと見れば痩せ地ではないはずだった。だが、手の中で崩した感触が妙に軽い。土の中身だけが抜かれたみたいな、頼りなさがある。


「……やっぱり変だな」


 低くこぼした声に、少し前を歩いていたシオンが振り返った。


「また何かありましたか」


「土の息が浅い。表面は平気そうに見えるけど、下で無理してる」


 ロルフは土を落としながら立ち上がる。隣でフィンが地脈計を覗き込み、露骨に顔をしかめた。


「たぶん感覚だけで言ってるんじゃないんですよね、それ」


「感覚だけじゃないよ。触ればわかる」


「それを普通は感覚って言うんです」


 フィンは肩をすくめたが、計器の針は冗談を言えるような動きではなかった。豊村を出た時より、さらに細かく荒れている。逆流の度合いが深くなっているのが見て取れた。


 シオンはロルフのそばへ寄ると、そっと地面を見た。白い土そのものが広がっているわけではない。だが、足元の地脈の歪みは確実にこちらへ伸びてきている。まるで目に見えない根が、大地の奥を這っているようだった。


「豊村の外れと、似ていますね」


「ああ。まだ手前だけどな。あっちはもっと露骨だった。こっちは、まだ誤魔化せてる」


「誤魔化せてる、ですか」


「具合の悪い畑ほど、最初は平気な顔してるもんだよ。葉っぱの色が変わる頃には、だいたい手遅れだ」


 ロルフの口調はいつも通りだったが、シオンの顔色は晴れない。昨夜からずっとそうだった。


 熱はない。毒の巡りも乱れていない。だが、時折ふいに足を止め、自分の胸元を押さえる。痛みではないらしい。ただ、引かれるのだとシオンは言った。遠いところから、自分の中にある毒だけを見つけて、そちらへ持っていこうとするような感覚があるのだと。


 ロルフはさりげない動きでシオンの手を取った。


「……やっぱり少し冷えてるな」


 シオンが目を瞬かせる。


「そんなにわかりますか」


「毎日見てるからな」


 何気なく返した言葉に、シオンの耳がわずかに赤くなった。横でフィンが、何か言いたそうな顔で空を見上げる。


「僕、ちょっと先の流れ見てきましょうか」


「お前、空気読んだつもりか」


「読んだ結果です」


「余計なことしなくていいから計器持ってろ」


「はいはい」


 軽口を叩きながらも、フィンの目は真面目だった。彼もこの先にあるものの異様さを感じ取っているのだろう。旅慣れた研究者の顔になっている。


 ロルフはシオンに水筒を渡した。


「飲んどけ。乾いてるだろ」


「……はい」


「無理するなよ。歩けるのと平気なのは別だからな」


 豊村での暮らしは、ちゃんと土になっている。種は落ちれば終わりじゃない。芽吹いて、根を張って、少しずつ姿を変える。人も同じだと、ロルフは思っていた。


 その時だった。


 地脈の流れとは別の振動が、足元を横切った。


 乾いた、乱暴な揺れだ。車輪が土を削る音がする。しかもひどく雑だった。地脈の流れに逆らって無理やり押している。


 ロルフの眉が寄る。


「……誰だよ、こんな走らせ方してるの」


 フィンも振り返り、顔をしかめた。


「うわ、最悪だ。術式で押してる。地脈に嫌われますよ、あれ」


 街道の向こうから、二頭立ての馬車が現れた。いや、厳密には馬車が地面を滑るように迫ってくる。車輪の周りに淡い光輪が浮かび、流れに乗るのではなく踏みつけて進んでいた。


 馬車は三人の前で急停止し、土埃を巻き上げた。


 扉が開く。


 先に降りてきたのは黒い法衣の男――カッサンだった。続いて、白金の刺繍を施した長衣の男がゆっくりと姿を見せる。大司教である。


 その姿を見た瞬間、シオンの肩がぴくりと揺れた。


 ロルフは一歩だけ前に出る。


「ずいぶん急ぎだな。地脈が泣いてるぞ」


 開口一番それか、と言いたげにカッサンが目を瞬かせた。しかし大司教は反論しなかった。むしろそのまま、ロルフとシオンの前で深く頭を下げる。


「追いつけて、よかった」


 威圧も飾りもない声だった。


 以前の大司教とは明らかに違う。その変化を見ても、シオンの表情は硬いままだった。無理もない。教団が彼の一族にしてきたことは、頭を下げれば消える種類のものではない。


 カッサンが両腕で抱えていた木箱を前に出した。古い木箱だった。何重にも封印布が巻かれ、その上から古びた紋章が刻まれている。


「本日は弁明に来たのではありません」


 大司教はそう言ってから、シオンへ視線を向けた。


「謝罪と――返さねばならぬものを持ってきました」


「返す……?」


 シオンの声は平坦だった。


 答えたのはカッサンだ。


「教団の最古の封印書庫にあった記録です。大典儀が秘匿し、歴代の上層部もまともに開こうとしなかったものですが……今の異変と無関係ではないと判断しました」


 フィンが小さく息を呑んだ。


「封印書庫の最奥級じゃないですか。それ、よく持ち出せましたね」


「持ち出したというより、奪ってきたに近いです」


「……言い方が物騒ですね」


「事実ですので」


 短いやり取りの間も、シオンは木箱から目を離さなかった。その視線の奥には、警戒と嫌悪と、わずかな戸惑いが混じっている。


「どうして、ここへ来たんですか」


 シオンの問いに、大司教はまっすぐ答えた。


「あなた方の一族に、赦しを請うためです」


 風が止まったような静けさが落ちた。


 街道脇の草の音も、遠くの鳥の声も、一瞬だけ遠ざかる。


 シオンは大司教を見つめる。


「赦し、ですか」


「はい」


「僕たちを“毒”と呼び、忌むべきものとして切り離してきたあなたたちが」


「……はい」


「今さら、赦してほしいと」


「その通りです」


 言い訳は一つもなかった。


 ロルフは口を挟まなかった。こういう時に間へ入って軽くできる話じゃないとわかっていたからだ。土の傷みだってそうだ。痛んだ場所は痛んだまま見なければ、手当ては始まらない。


 しばらくして、シオンがゆっくりと口を開いた。


「中身を、見せてください」


 カッサンが封印布をほどいた。中から現れたのは、薄い石板と何枚もの羊皮紙だった。どれも相当古い。保存はされているが、端は欠け、文字もところどころ掠れている。


 カッサンは最初の羊皮紙を慎重に広げ、読み上げた。


「――『神はかつて言った。我が二つの面を、二つの血脈に預ける。どちらが毒でどちらが癒しかは、時代が決める。しかし忘れるな。切り離したとき、我は半分になった』」


 読み終えた瞬間、地面がわずかに鳴った。


 ほんの小さな揺れだったが、ロルフにははっきりわかった。足裏のさらに奥で、大地の拍動が一度だけ強く打ったのだ。まるでその言葉に反応したかのように。


 シオンも息を呑み、胸元を押さえる。


「……っ」


「シオン」


「だいじょうぶです。でも、今……毒が……」


 言葉にしきれない違和感が、その顔に浮かんでいた。引かれている。呼ばれている。その感覚が、さっきまでよりずっと鮮明になっているのだろう。


 フィンが慌てて地脈計を覗く。


「うそだろ……文言だけで反応した? こんなの、ただの記録じゃない」


 ロルフはしゃがみ込み、土に指を差し入れた。


 やはりだ。先ほどまで遠かった拍動が、ほんの少し近づいている。ずっと眠っていたものが、呼び声に耳を澄ませたような気配だった。


「半分になった神、か」


 ロルフは低く呟く。


「半分のままなら、そりゃ具合も悪くなるな」


 大司教が顔を上げる。


「……どういう意味ですか」


「畑でも同じだよ。片側だけ耕して、もう片側を踏み固めたままにしてたら、見た目が整っても長くは持たない。水の回りが偏るし、根も歪む」


 ロルフは立ち上がり、手についた土を払った。


「教団は“癒し”だけを良いものにして、“毒”を悪いものとして切り離した。でも本当は、同じ土の中を巡るものだったんだろ」


 シオンが自分の胸に手を置く。


「僕の毒は……切り離された片側」


「たぶんな」


 ロルフはそれ以上飾らずに答えた。


 毒素等価交換。毒を消すのではなく、別の力へ変えて巡らせる自分のスキル。その在り方が、今まで妙なくらい自然に思えていた理由が、そこにある気がした。


 カッサンが二枚目の石板を取り出した。彼の指先は先ほどより少し強張っている。


「まだあります。こちらはさらに古い断片です」


 息を整え、彼は読み下した。


「――『私が引き裂かれるとき、裂け目に何かが生まれる。それは私の過ちを守るために動くだろう。名を与えてはならない。名を与えると、それは意思を持つ』」


 今度ははっきりと、大地が脈打った。


 ずん、と腹の底に響くような振動だった。


 シオンが片膝をつく。


「っ……!」


「シオン!」


 ロルフが肩を支えるより早く、シオンは胸元を押さえていた。痛みではない。だが、強く引かれているのが見て取れた。


「僕の中の毒が……奥へ、引っ張られて……」


 フィンが地脈計を見せる。針はこれまでになく激しく揺れていた。


「逆流が一気に強くなってる! このままだと豊村方面の支流まで持っていかれるかもしれません」


 白い土。逆流する地脈。シオンの中の毒を回収しようとする何か。ばらばらだったものが、一つの根でつながる。


 ロルフの目が細くなった。


「なるほどな」


 土の下にいるのは、ただの魔物じゃない。病でもない。神が引き裂かれた時に生まれた、裂け目そのもの。それが今も地脈の深部に根を張り、統合に向かう流れを拒み続けている。


 面倒この上ない。だが、だからこそ放置はできない。


 大司教は一歩進み出ると、シオンの前で膝をついた。


 白金の法衣が、街道の土に汚れる。だが本人はそれを気にする様子もなかった。カッサンもまた、その隣に膝をつく。


「シオン様」


 大司教の声は、これまでで一番低かった。


「教団は、あなた方の一族から多くを奪いました。力の意味を歪め、名を穢し、恐れを理由に切り捨てた。私もその歴史の上に立つ者です」


 カッサンも頭を垂れる。


「私も同罪です」


 シオンはしばらく何も言わなかった。


 怒鳴り返すでもなく、すぐ赦すでもなく、ただじっと二人を見ている。その沈黙は、下手な糾弾よりずっと重かった。


 やがて大司教が続けた。


「どう償えばよいか、まだわかりません。ですが、これだけは言わせてください。あなた方は穢れではない。切り捨てられるべき存在でもなかった。――我らが失った半身でした」


 ロルフはその様子を黙って見ていた。


 謝罪だけで土は蘇らない。駄目になった畑に頭を下げても、根はすぐには戻らない。だが、壊したことを認めなければ、何一つ始まらないのも事実だった。


 長い沈黙ののち、シオンが口を開いた。


「……僕は、すぐに赦せるほど、できた人間じゃありません」


「はい」


「苦しかったことを、なかったことにはできない。恨みが消えたわけでもないです」


「はい」


「でも」


 そこでシオンは、ロルフを見た。


 ロルフは何も言わず、ただそこに立っている。急かしも、代わりの言葉もない。その姿が、シオンには十分だった。


「でも、彼は、僕の毒を捨てませんでした」


 その言葉に、大司教の肩がかすかに震えた。


「役に立つからじゃなくて、僕の一部だからって、そう扱ってくれた。だから僕も……いつか、同じことをしたいと思います」


 シオンは大司教たちを真っ直ぐ見た。


「今はまだ、赦すとは言えません。でも――置いてはいきません」


 カッサンが顔を上げ、フィンまで息を止める。


「この先にいる何かが、僕の中の毒を引き寄せているなら。あなたたちの持つ“もう片方”も、必要なんでしょう」


 ロルフがそこで頷いた。


「そうだな。片側だけじゃ畝はまっすぐ立たない」


 フィンが小声で「また農業で例える……」と呟いたが、誰も拾わなかった。


 大司教はゆっくりと顔を上げる。その表情には疲労が滲んでいたが、迷いだけは少し薄れていた。


「同行を、お許しいただけるのなら」


「許すかどうかはこれからだろ」


 先に答えたのはロルフだった。


「でも、置いてくより連れてったほうがいい。どうせ向こうも、もう気づいてる」


 その言葉に応えるように、地の底からひときわ大きな脈動が響いた。


 ずん、と重い揺れが街道を走る。


 さっきより近い。確実に近づいている。いや、こちらを迎えに来ているのかもしれなかった。


 シオンがロルフの袖を掴む。


「……来ます」


「ああ」


 ロルフは鍬を肩に担ぎ直した。


 大司教も立ち上がる。法衣の裾についた土を払おうとして、途中で手を止めた。そのまま汚れを残すことを選んだのかもしれない。少なくとも、悪い判断ではないとロルフは思った。


「行くぞ」


 短い言葉で、全員が動く。


 フィンは慌てて荷物を背負い直し、地脈計を抱えた。カッサンは木箱をしっかりと持ち直す。シオンはまだ胸元を押さえていたが、その目はもう逸れていなかった。


 歩き出す直前、


「僕、もう逃げません」


 前を向いたままの声だった。小さいが、確かに揺れていない。


 ロルフはわずかに目を細めた。


「知ってる」


 それだけで十分だった。


 五人は再び地脈の上を進み始める。


 豊村は遠ざかっていく。だが、離れている気はしなかった。土はつながっている。村の畑も、人の暮らしも、この道の先にある根源の大地も、全部同じ地の下で結ばれている。


 だから戻れる。


 根を守れれば、必ず。


 そう思った次の瞬間、また大地が鳴った。


 今度は音というより、息づかいに近かった。


 名を与えられなかった何かが、土の奥で目を開く。そんな気配があった。


 ロルフは鍬の柄を握り直す。


 殺すために行くんじゃない。切り捨てるためでもない。まず見て、触って、確かめる。根がどう傷んでいるのか知らなければ、手当てはできない。


 庭師の仕事は、いつだってそこからだった。


 彼らは進む。


 根源の大地へ。

 神が半分になった、その傷の中心へ。


 土の下の鼓動は、もう隠れようともしなかった。

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